第九話 兵法者、道の上で相まみえる
若侍の声は、威圧でも挑発でもなかった。
ただ確かめるような、しかし答えをすでに半ば知っている者の言い方だった。
卜伝はすぐには返さず、相手の立ち姿を見た。細道の暗がりの中でも足の置き方に無駄がない。半身に近い形で立ち、利き腕の側をわずかに引いている。こちらが抜けば、自分も抜ける位置だ。
ただの使いでも、ただの浪人でもない。
「そう言うあなたは、どこの者です」
卜伝が問う。
若侍は小さく笑ったような、笑わなかったような顔をする。
「問われる前に名乗るほど安い身ではない」
「では答える義理もありません」
「そうでもない」
男は一歩も近づかぬまま続けた。
「鹿島から若い剣士が出た。口の立つ娘と、目つきの悪い若い地侍を連れている。そういう話を、今日いくつか聞いた」
「……」
「宿場は狭い」
向こうは知っている。
道賢の言った通りだ。
追う側のつもりで宿場へ入ったが、こちらの顔も連れも、もう誰かの耳へ届いている。
卜伝の右手が、自然と柄へ近づく。
若侍はそれを見て、わずかに目を細めた。
「良い手だ」
「何が」
「抜く前の間合いの置き方だ。鹿島らしい」
「……」
兵法者。
その匂いが、今度こそはっきりした。
相手は単に人を脅しに来たのではない。剣を見る目を持っている。しかも、その目を隠そうともしていない。
「真壁又十郎の配下か」
卜伝は真っ直ぐ聞いた。
若侍はそこで初めて、ほんの少しだけ口角を上げた。
「配下、と言われればそうだ」
「本人ではないな」
「違う」
「名は」
「聞いてどうする」
「呼びやすくなる」
「……」
一瞬だけ、相手の眉が動いた。
その反応に、卜伝はほんのわずか自分でも可笑しくなった。以前、新助に向けたのと同じ言葉だ。だが目の前の男には、それが少しずれて聞こえたらしい。
「面白い返しをするな」
若侍が言う。
「鹿島の若いのはもっと硬いと思っていた」
「硬いです」
「いや、お前は少し違う」
その評価が何を意味するのかは分からない。だが気持ちのよいものではない。
「名は桐生だ」
若侍はやがて言った。
「真壁様のもとで、道を見ている」
「道を見る?」
「人の動き、荷の流れ、宿場の目、村の口。そういうものだ」
つまり、連絡役でもあり、監視役でもあるのだろう。
卜伝は背後の蔵のほうへ意識を残したまま、桐生という男を見た。ひとりかどうかは分からない。こういう者は一人で出てきても、近くに別の目を置いていることがある。
「何の用だ」
卜伝が問う。
桐生は少し肩をすくめた。
「顔を見たかった」
「なぜ」
「真壁様が興味を持っておられる」
「……」
その時、背後から足音が近づいた。
「卜伝!」
新九郎の声だ。小夜もいる。
ひとりで行かせるのが不安になったのだろう。宿を出た後を追ってきたらしい。
卜伝が振り向くより早く、新九郎が細道へ飛び込んできて、桐生の姿を認めた。
「何だこいつ」
「話をしていた」
卜伝が言う。
「何でお前は、毎回いちいち危ない相手と静かに話してるんだ」
「大声を出す必要がないからです」
「あるだろ、たぶん!」
新九郎が前へ出かけるのを、小夜がすぐ止めた。
「待って」
「何でだ」
「相手はそれを待ってる顔してる」
「……」
桐生はそのやり取りを、面白がるでもなく見ていた。だが目の底には、たしかに“試している”色がある。新九郎が先に手を出せば、それを理由にどう転ぶか決めるつもりなのかもしれない。
「宿場の裏で騒ぎは起こさぬほうがよい」
桐生が言う。
「お互いのためだ」
「誰がお互いだ」
新九郎が低く返す。
「てめえらみたいなのと、一緒の側に立つ気はねえよ」
「立っておるさ。道の上では、皆同じように見られる」
「この野郎」
新九郎の肩が前へ出る。今にも踏み込みそうだ。
だが卜伝は、その前に左手を伸ばして新九郎の腕を押さえた。
「止めてください」
「離せ」
「ここでは駄目です」
「分かってる。だがな」
「分かっているなら、尚さらです」
新九郎は歯を食いしばったが、卜伝の声がいつもより低いのを感じたのか、ぎりぎりで踏みとどまった。
桐生はそのやり取りを見て、ほんの少しだけ感心したような顔になる。
「冷えるな」
「そうでもない」
卜伝が言う。
「熱いほうだ」
「熱い者は、普通もう少し先に手が出る」
「先に出して得するなら、そうする」
「得を考えるか」
「考えます」
「ますます面白い」
小夜が一歩前へ出て、桐生を真っ直ぐ見た。
「真壁又十郎は、鹿島から盗んだものをどうする気?」
「答えると思うか」
「思ってない」
「なら聞くな」
「でも、あなたの顔を見ると一つ分かる」
「何が」
「真壁は、ただ集めるだけじゃない」
桐生の目が、ごくわずかに動いた。
図星だ。
小夜はそこを逃さない。
「兵法書も、由緒のある箱も、つなぎ合わせている。名と武と由来を集めて、何かを装うつもりでしょう」
「娘」
桐生が初めて少しだけ声を低くした。
「口が過ぎるぞ」
「当たってるみたいね」
「……」
道の上での火花は、刃を抜かなくても散るのだと卜伝は知った。
桐生は小夜を見たあと、再び卜伝へ視線を戻す。
「真壁様は、お前たちのことを知っておられる」
「知るだけか」
卜伝が問う。
「見てもおられる」
「……」
その言葉が、妙に嫌だった。
鹿島を出る時から、木立の向こうにいた視線。宿場へ入ってからも、どこかで測られているような気配。それが気のせいではなかったと、今この男が認めてしまっている。
「なぜ」
卜伝が聞く。
桐生は、わざと少し間を置いた。
それから、帰り際のような軽さで、しかし卜伝だけに届くほどの声量で言った。
「真壁様は、お前の剣を見たいそうだ」
それだけ言うと、桐生はもう用が済んだとばかりに半歩引いた。
新九郎が「待て」と前へ出かける。
だが桐生は抜きもせず、ただ視線だけでそれを制した。
「今夜はここまでだ」
「勝手に決めるな」
新九郎が唸る。
「決めておるさ。お前たちが決める前に」
その言葉が、一枚上手の不穏さを残した。
桐生は細道の暗がりへ溶けるように下がり、あっという間に人の気配へ紛れた。追えば追えるかもしれない。だが追えば、その先に待ち構えがある気がした。
「ちくしょう」
新九郎が壁を拳で軽く叩く。
「腹立つ野郎だ」
「ええ」
小夜も短く言った。
「でも、向こうがこっちを見ているのはもう確かね」
「荷もある」
卜伝が言う。
「昼に見た箱の意匠。あれは鹿島のものに近い」
「なら今夜のうちに確かめる?」
小夜が聞く。
道賢の言葉が頭をよぎる。頭から入るな。まず脇を見ろ。
卜伝は少し考えた。
「宿へ戻ります」
「戻る?」
新九郎が不満そうに言う。
「今の話聞いてだぞ?」
「だからです。向こうはこっちの動きを見ている。今夜、何もないと思うほうが甘い」
「……宿を狙うか」
小夜がすぐに気づく。
「その可能性があります」
「ようやく言うようになったわね、そういうこと」
「言われなくても考えます」
「少し前までは考える前に追ってた」
「今は違います」
「ええ、違う」
そのやり取りのあと、一行は急ぎ足で宿へ戻った。
夜の宿場はまだ騒がしい。だがその騒がしさの底に、何かがじりじりと近づいてくる気配がある。桐生が見せた余裕。真壁がこちらの剣を見たがっているという言葉。向こうは、こちらの行き先だけでなく、泊まる場所まで掴んでいるかもしれない。
宿へ着くと、道賢は三人の顔を見ただけで何かあったと悟った。
「会ったか」
「ええ」
小夜が答える。
「真壁本人じゃないけど、その配下の兵法者」
「桐生と名乗った」
卜伝が続ける。
道賢は「ふむ」とだけ言い、すぐに宿の裏口と窓の位置、階段、土間の通り方へ目を走らせた。
「なら、今夜は静かには済むまいな」
「やっぱりか」
新九郎が笑うように言う。
「宿を変えるか?」
「いや」
道賢が首を振る。
「動けば、向こうの都合に合わせることになる。ここで受けたほうがまだ読める」
「受けるってのは、襲われるってことだろ」
「そういうことだ」
「楽しそうに言うなよ」
小夜はすでに宿の女中へ、今夜は自分たちの部屋へ近づかせぬよう話をつけに動いていた。卜伝は刀を改め、新九郎は柱や襖の位置を確認している。
宿の部屋は狭くない。だが戦うには広すぎもする。廊下、土間、階段、裏口――どこから入ってもおかしくない。
卜伝は座りながら、桐生の最後の言葉を反芻していた。
真壁様は、お前の剣を見たいそうだ。
見たい、とはどういう意味か。
試したいのか。確かめたいのか。欲しているのか。あるいは、折りたいのか。
いずれにせよ、向こうはもうこちらを“追ってくる若造”としてだけは見ていない。
部屋の外で、風が鳴った。
宿のどこかで板がきしむ。
その音が自然のものか、人の足か、すぐには分からない。
だが、その晩、宿が襲われる。
卜伝はまだその瞬間を見ていないのに、妙に確かな予感だけは、刃の冷たさのように手の中へ落ちていた。




