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戦国異聞伝『塚原卜伝 ――鹿島立ちの剣、戦国を渡る』  作者: 常陸之介寛浩㊗️オリコン週間ランキング9位㊗️


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第九話 兵法者、道の上で相まみえる

 若侍の声は、威圧でも挑発でもなかった。


 ただ確かめるような、しかし答えをすでに半ば知っている者の言い方だった。


 卜伝はすぐには返さず、相手の立ち姿を見た。細道の暗がりの中でも足の置き方に無駄がない。半身に近い形で立ち、利き腕の側をわずかに引いている。こちらが抜けば、自分も抜ける位置だ。


 ただの使いでも、ただの浪人でもない。


「そう言うあなたは、どこの者です」

 卜伝が問う。


 若侍は小さく笑ったような、笑わなかったような顔をする。


「問われる前に名乗るほど安い身ではない」

「では答える義理もありません」

「そうでもない」


 男は一歩も近づかぬまま続けた。


「鹿島から若い剣士が出た。口の立つ娘と、目つきの悪い若い地侍を連れている。そういう話を、今日いくつか聞いた」

「……」

「宿場は狭い」


 向こうは知っている。


 道賢の言った通りだ。


 追う側のつもりで宿場へ入ったが、こちらの顔も連れも、もう誰かの耳へ届いている。


 卜伝の右手が、自然と柄へ近づく。


 若侍はそれを見て、わずかに目を細めた。


「良い手だ」

「何が」

「抜く前の間合いの置き方だ。鹿島らしい」

「……」


 兵法者。


 その匂いが、今度こそはっきりした。


 相手は単に人を脅しに来たのではない。剣を見る目を持っている。しかも、その目を隠そうともしていない。


「真壁又十郎の配下か」

 卜伝は真っ直ぐ聞いた。


 若侍はそこで初めて、ほんの少しだけ口角を上げた。


「配下、と言われればそうだ」

「本人ではないな」

「違う」

「名は」

「聞いてどうする」

「呼びやすくなる」

「……」


 一瞬だけ、相手の眉が動いた。


 その反応に、卜伝はほんのわずか自分でも可笑しくなった。以前、新助に向けたのと同じ言葉だ。だが目の前の男には、それが少しずれて聞こえたらしい。


「面白い返しをするな」

 若侍が言う。

「鹿島の若いのはもっと硬いと思っていた」

「硬いです」

「いや、お前は少し違う」


 その評価が何を意味するのかは分からない。だが気持ちのよいものではない。


「名は桐生だ」

 若侍はやがて言った。

「真壁様のもとで、道を見ている」

「道を見る?」

「人の動き、荷の流れ、宿場の目、村の口。そういうものだ」


 つまり、連絡役でもあり、監視役でもあるのだろう。


 卜伝は背後の蔵のほうへ意識を残したまま、桐生という男を見た。ひとりかどうかは分からない。こういう者は一人で出てきても、近くに別の目を置いていることがある。


「何の用だ」

 卜伝が問う。


 桐生は少し肩をすくめた。


「顔を見たかった」

「なぜ」

「真壁様が興味を持っておられる」

「……」


 その時、背後から足音が近づいた。


「卜伝!」


 新九郎の声だ。小夜もいる。


 ひとりで行かせるのが不安になったのだろう。宿を出た後を追ってきたらしい。


 卜伝が振り向くより早く、新九郎が細道へ飛び込んできて、桐生の姿を認めた。


「何だこいつ」

「話をしていた」

 卜伝が言う。

「何でお前は、毎回いちいち危ない相手と静かに話してるんだ」

「大声を出す必要がないからです」

「あるだろ、たぶん!」


 新九郎が前へ出かけるのを、小夜がすぐ止めた。


「待って」

「何でだ」

「相手はそれを待ってる顔してる」

「……」


 桐生はそのやり取りを、面白がるでもなく見ていた。だが目の底には、たしかに“試している”色がある。新九郎が先に手を出せば、それを理由にどう転ぶか決めるつもりなのかもしれない。


「宿場の裏で騒ぎは起こさぬほうがよい」

 桐生が言う。

「お互いのためだ」

「誰がお互いだ」

 新九郎が低く返す。

「てめえらみたいなのと、一緒の側に立つ気はねえよ」

「立っておるさ。道の上では、皆同じように見られる」

「この野郎」


 新九郎の肩が前へ出る。今にも踏み込みそうだ。


 だが卜伝は、その前に左手を伸ばして新九郎の腕を押さえた。


「止めてください」

「離せ」

「ここでは駄目です」

「分かってる。だがな」

「分かっているなら、尚さらです」


 新九郎は歯を食いしばったが、卜伝の声がいつもより低いのを感じたのか、ぎりぎりで踏みとどまった。


 桐生はそのやり取りを見て、ほんの少しだけ感心したような顔になる。


「冷えるな」

「そうでもない」

 卜伝が言う。

「熱いほうだ」

「熱い者は、普通もう少し先に手が出る」

「先に出して得するなら、そうする」

「得を考えるか」

「考えます」

「ますます面白い」


 小夜が一歩前へ出て、桐生を真っ直ぐ見た。


「真壁又十郎は、鹿島から盗んだものをどうする気?」

「答えると思うか」

「思ってない」

「なら聞くな」

「でも、あなたの顔を見ると一つ分かる」

「何が」

「真壁は、ただ集めるだけじゃない」


 桐生の目が、ごくわずかに動いた。


 図星だ。


 小夜はそこを逃さない。


「兵法書も、由緒のある箱も、つなぎ合わせている。名と武と由来を集めて、何かを装うつもりでしょう」

「娘」

 桐生が初めて少しだけ声を低くした。

「口が過ぎるぞ」

「当たってるみたいね」

「……」


 道の上での火花は、刃を抜かなくても散るのだと卜伝は知った。


 桐生は小夜を見たあと、再び卜伝へ視線を戻す。


「真壁様は、お前たちのことを知っておられる」

「知るだけか」

 卜伝が問う。

「見てもおられる」

「……」


 その言葉が、妙に嫌だった。


 鹿島を出る時から、木立の向こうにいた視線。宿場へ入ってからも、どこかで測られているような気配。それが気のせいではなかったと、今この男が認めてしまっている。


「なぜ」

 卜伝が聞く。


 桐生は、わざと少し間を置いた。


 それから、帰り際のような軽さで、しかし卜伝だけに届くほどの声量で言った。


「真壁様は、お前の剣を見たいそうだ」


 それだけ言うと、桐生はもう用が済んだとばかりに半歩引いた。


 新九郎が「待て」と前へ出かける。


 だが桐生は抜きもせず、ただ視線だけでそれを制した。


「今夜はここまでだ」

「勝手に決めるな」

 新九郎が唸る。

「決めておるさ。お前たちが決める前に」


 その言葉が、一枚上手の不穏さを残した。


 桐生は細道の暗がりへ溶けるように下がり、あっという間に人の気配へ紛れた。追えば追えるかもしれない。だが追えば、その先に待ち構えがある気がした。


「ちくしょう」

 新九郎が壁を拳で軽く叩く。

「腹立つ野郎だ」

「ええ」

 小夜も短く言った。

「でも、向こうがこっちを見ているのはもう確かね」

「荷もある」

 卜伝が言う。

「昼に見た箱の意匠。あれは鹿島のものに近い」

「なら今夜のうちに確かめる?」

 小夜が聞く。


 道賢の言葉が頭をよぎる。頭から入るな。まず脇を見ろ。


 卜伝は少し考えた。


「宿へ戻ります」

「戻る?」

 新九郎が不満そうに言う。

「今の話聞いてだぞ?」

「だからです。向こうはこっちの動きを見ている。今夜、何もないと思うほうが甘い」

「……宿を狙うか」

 小夜がすぐに気づく。

「その可能性があります」

「ようやく言うようになったわね、そういうこと」

「言われなくても考えます」

「少し前までは考える前に追ってた」

「今は違います」

「ええ、違う」


 そのやり取りのあと、一行は急ぎ足で宿へ戻った。


 夜の宿場はまだ騒がしい。だがその騒がしさの底に、何かがじりじりと近づいてくる気配がある。桐生が見せた余裕。真壁がこちらの剣を見たがっているという言葉。向こうは、こちらの行き先だけでなく、泊まる場所まで掴んでいるかもしれない。


 宿へ着くと、道賢は三人の顔を見ただけで何かあったと悟った。


「会ったか」

「ええ」

 小夜が答える。

「真壁本人じゃないけど、その配下の兵法者」

「桐生と名乗った」

 卜伝が続ける。


 道賢は「ふむ」とだけ言い、すぐに宿の裏口と窓の位置、階段、土間の通り方へ目を走らせた。


「なら、今夜は静かには済むまいな」

「やっぱりか」

 新九郎が笑うように言う。

「宿を変えるか?」

「いや」

 道賢が首を振る。

「動けば、向こうの都合に合わせることになる。ここで受けたほうがまだ読める」

「受けるってのは、襲われるってことだろ」

「そういうことだ」

「楽しそうに言うなよ」


 小夜はすでに宿の女中へ、今夜は自分たちの部屋へ近づかせぬよう話をつけに動いていた。卜伝は刀を改め、新九郎は柱や襖の位置を確認している。


 宿の部屋は狭くない。だが戦うには広すぎもする。廊下、土間、階段、裏口――どこから入ってもおかしくない。


 卜伝は座りながら、桐生の最後の言葉を反芻していた。


 真壁様は、お前の剣を見たいそうだ。


 見たい、とはどういう意味か。


 試したいのか。確かめたいのか。欲しているのか。あるいは、折りたいのか。


 いずれにせよ、向こうはもうこちらを“追ってくる若造”としてだけは見ていない。


 部屋の外で、風が鳴った。


 宿のどこかで板がきしむ。


 その音が自然のものか、人の足か、すぐには分からない。


 だが、その晩、宿が襲われる。


 卜伝はまだその瞬間を見ていないのに、妙に確かな予感だけは、刃の冷たさのように手の中へ落ちていた。

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