第七話 真壁の名を持つ男
夜が明けるころには、村の空気は少しだけ息を吹き返していた。
昨夜まで戸を固く閉ざし、物音ひとつにも怯えていた家々から、朝の支度の気配が戻ってくる。薪を割る音。井戸の釣瓶が軋む音。子どもの小さな泣き声。鶏の鳴く声。どれもありふれたものだ。だが、ありふれた音が戻るということが、どれほど人を生き返らせるかを、卜伝は初めて知る気がした。
村長は昨夜のうちこそ青い顔のままだったが、朝になって改めて卜伝たちの前に出てきた時には、年長者らしい顔へ戻ろうとしていた。
「助かった」
ひと言、それだけを言って深く頭を下げる。
大仰な礼ではない。飾り気もない。ただ、その短い一礼には、昨夜の恐れと、今朝の安堵と、まだ拭い切れぬ不安が全部こもっていた。
小夜はきちんと頭を返し、新九郎は気恥ずかしそうに鼻を掻いた。卜伝も黙って礼を返したが、その胸の内には昨夜の終わり際に聞いた名が重く残っている。
真壁の旦那に知らせろ。
ただの野武士の頭目なら、その場の怒鳴りで済む。だが、あの男の言い方は違った。自分たちを束ねる誰かがいて、その名が通じる者たちの言い方だった。
朝の光の下で、昨夜捕らえた野武士のうち意識のある者二人が、村外れの納屋へ縛られていた。村長の許しを得て、卜伝たちは改めて話を聞くことにした。
最初のうちは、どちらも歯を食いしばって口を割らなかった。
「知らねえ」
「勝手に集まっただけだ」
「赤布のことも知らん」
嘘だと分かる嘘ばかり並べる。
新九郎はすぐに苛立って「一発殴れば口も軽くなるだろ」と言ったが、小夜が横から止めた。
「それで喋る相手なら、昨夜のうちに何か吐いてるわ」
「じゃあどうする」
「話したほうが得だと思わせるの」
「面倒くせえな」
「面倒な相手だからよ」
卜伝は納屋の薄暗がりの中、縄で縛られた野武士の顔を見た。夜のうちには獣のように見えた相手も、朝の光ではただの疲れた男に見える。だが目の奥だけは濁っていて、脅しと命令に従うことへ慣れている光があった。
「真壁とは誰だ」
卜伝が問う。
男は黙る。
「昨夜、お前たちの頭はそう叫んだ」
「知らねえ」
「では、なぜその名を聞いて顔色が変わる」
「変わっちゃいねえ」
変わっていた。
小夜もそれを見逃していないらしい。納屋の柱に寄りかかったまま、静かに言う。
「真壁って、真壁郡の真壁?」
「……」
「それとも真壁という家名?」
「……」
「黙るなら、どちらかに近いと見なすわよ」
男はそこで初めて、小さく舌打ちした。
新九郎がにやりとする。
「ほらな、動いた」
「あなたはそういう時だけ勘がいいのね」
「生き残るには要る勘だ」
軽口のようでいて、実際そうなのだろう。相手がどの言葉に反応し、どこで眉を動かすかを読む。剣を交える前の駆け引きもまた、戦いのうちだ。
卜伝は一歩近づき、男の目の高さへしゃがんだ。
「お前は鹿島の蔵を荒らした連中とつながっているな」
「知らねえ」
「なら、なぜ真壁の名が出る」
「……」
「兵法書や由緒ある品を狙う連中が、こんな小村の米や銭まで脅して集めるのはなぜだ」
「……」
今度は、もう一人の野武士のほうがわずかに肩を震わせた。
卜伝はそちらを見る。
若い。昨夜は闇に紛れていて分からなかったが、こうして見ればまだ二十そこそこだ。目つきは荒んでいるが、開き直り切れていない。長く野盗稼業に染まった者の顔ではなかった。
「お前は」
卜伝が言う。
「名は」
「……知られてどうする」
「呼びやすくなる」
「は……?」
「このまま“おい”では話しにくい」
若い野武士は拍子抜けしたように瞬きをした。
小夜が横でわずかに呆れた気配を出す。たぶんもっと上手いやり方があるのだろう。だが卜伝には、脅すより先に相手を人として見たほうが早い気がした。
「……新助」
やがて男が低く言った。
「新助」
「そうか」
「何だよ」
「話せ」
「いきなりかよ!」
今度は新九郎が吹き出した。
「お前、そういうとこ本当に真っ直ぐだな」
「回りくどいのは好きではありません」
「知ってる」
小夜は小さくため息をついたが、完全には止めなかった。これで崩れる相手もいる、と見たのかもしれない。
新助と名乗った若い野武士は、しばらく卜伝の顔を見ていたが、やがて観念したように目を伏せた。
「……俺たちは、旦那の手先ってほどじゃねえ」
「旦那とは真壁か」
「又十郎様だ」
その言い方だけで、相手がただの脅し相手ではないことが伝わる。
「真壁又十郎」
小夜が名を繰り返した。
「兵法者か」
「……そう聞いてる」
「聞いてる?」
「直に教えを受けたわけじゃねえ。俺たちは使いっ走りみたいなもんだ」
もう一人の野武士が「やめろ」と睨んだが、新助はその視線を振り切るように続けた。
「でも、ただの盗人の頭じゃねえ。浪人、野武士、食い詰めた連中、役に立ちそうなのを拾って、つないで、使ってる。武家とも繋がりがあるって噂だ」
「どこの武家だ」
卜伝が問う。
新助は首を振った。
「そこまでは知らねえ。ただ、旦那は“物”を集めてる」
「兵法書や、由緒ある品か」
「そうだ。古い書付、箱、印、あとは由来のある刀とか、家に伝わる何かとか……そういうもんだ」
納屋の中の空気が、そこで静かに冷えた。
ただの賊ではない。
目についた金を奪うのではなく、意味のあるものを選んで集める。それは盗みというより、もっと別の意図を持つ者の動きだ。
「何のために」
卜伝が問う。
新助はかすかに首をすくめた。
「さあな。ただ、旦那はよく言ってた。“乱世じゃ、名も由緒も武も、持った者のものだ”って」
「下種ね」
小夜が吐き捨てるように言う。
「奪えば自分の名になると思ってるの?」
「……そういう手合いは、たまにいる」
新九郎が低く言った。
「武家でも浪人でもな。名を継げねえやつほど、何かの由緒を欲しがる」
その声には、普段の軽さがなかった。
卜伝は新九郎を一瞬見たが、すぐに新助へ向き直る。
「真壁又十郎は今どこにいる」
「知らねえ。本当だ。いつも同じ場所にいるわけじゃねえ」
「連絡はどう取る」
「宿場だ」
新助は言った。
「街道筋の宿場に、旦那の息のかかった奴がいる。そこに荷を流したり、話を回したりする」
「どこの宿場?」
「……次の大きめの宿場だ。ここから半日ちょっと」
小夜がすぐ地図を頭に浮かべたらしく、目を細めた。
「街道の分かれ目にあるところね」
「知ってるのか」
卜伝が聞く。
「名前までは言わないけど、そのあたりで“物”を捌くなら、確かに人と荷が集まるあそこがいちばん都合がいい」
新九郎が納得したように顎をさする。
「なるほどな。宿場なら浪人も商人も旅僧も、誰がいても不自然じゃねえ」
「そして人が多いほど、誰かの目も紛れる」
小夜が続ける。
卜伝の中で、鹿島の蔵、昨夜の村、そしてこの先の宿場が一本の線になり始めていた。
相手はただ荒事に長けているのではない。
人と物の流れを使っている。
武家の外にいるようでいて、武家の欲に寄りかかっている。
旅人や浪人や僧に紛れて動き、由緒あるものを拾い集める。
真壁又十郎。
その名を持つ男は、少なくともただの野盗の親玉ではなかった。
「話が早くなったな」
新九郎が言う。
「宿場へ行けば、何か痕跡があるかもしれねえ」
「痕跡だけならいいけど」
小夜が言う。
「向こうも、こっちの動きを見ていないとは限らない」
その言葉に、卜伝は昨朝、鹿島を発つ時に木立の向こうからこちらを見ていた若侍の姿を思い出した。
見られていた。
あれが偶然とは思えない。
「……すでに知られているかもしれない」
卜伝が言う。
「だろうな」
新九郎もあっさり認める。
「村であれだけやったんだ。逃げた赤布が真壁だか何だかに話を上げれば、こっちの人数も顔も伝わる」
「なら急ぐべきね」
小夜が言った。
「先に宿場へ入って、向こうが構える前に探る」
村長には、捕らえた野武士たちを近隣へ引き渡す段取りだけ伝え、卜伝たちはその日のうちに村を発つことにした。引き止める声もあったが、長く留まるわけにはいかない。助けるために寄った村であって、留まるための場所ではない。
出立の前、井戸端の女がそっと頭を下げた。昨夕の怯えた顔より、幾分ましな顔になっている。それだけで、寄り道が無駄ではなかったと思えた。
だが、寄り道で終わらないことももう分かっている。
真壁又十郎の名は、これから先の道に確かにぶら下がっている。
街道は昼へ向かうにつれ、人の数を少しずつ増やした。荷を担ぐ者、馬を引く者、疲れた顔の旅人、逆に妙に羽振りのよさそうな男。宿場が近づいているのだろう。人の流れが一点へ集まり始めている。
卜伝たちは歩きながら、昨夜と今朝の話を繋ぎ合わせた。
「真壁又十郎、ね」
小夜が言う。
「名乗りなのか、本名なのか分からないけど、真壁を背負ってる時点で“ただの流れ者”じゃ済まないわ」
「真壁郡に縁があるか、そう見せたいかだな」
新九郎が言う。
「どっちにしろ、武家の気配が濃い」
「兵法者、というのは」
卜伝が聞く。
「やはり厄介ですか」
「厄介でしょうね」
小夜が答える。
「ただの盗人なら銭で動く。でも兵法者は、剣の理屈で人を縛ることがある」
「剣の理屈?」
「“強い者に従うのが道理”とか、“生きるためには手段を選ばない”とか、そういう話を上手く混ぜるのよ。食い詰めた浪人や野武士には効く」
「なるほどな」
新九郎が鼻を鳴らす。
「腕があるやつが悪知恵まで回すと、面倒の質が変わる」
卜伝は黙っていた。
兵法者。
その言葉には、どうしても耳が向く。自分もまた剣を学ぶ者であり、兵法という言葉を軽くは扱えない。だが同じ“兵法を知る者”の中に、由緒ある品や書を奪い集め、脅しで人を縛る者がいるのなら、それは剣の道を汚すものでもある。
それとも、道そのものに最初から清濁があるのか。
そんなことを考えた時、不意に前方の路傍にひとりの僧が立っているのが見えた。
いや、立っているというより、こちらを待っていたようにも見えた。
歳は五十前後か、それより上か。頭はきれいに剃っているが、旅にまみれたような汚れが裾にある。僧衣は質素だが、みすぼらしいとは違う。手には杖。背には小さな包み。どこにでもいそうで、どこにでもはいない顔だった。
男は卜伝たちが近づくと、にやりとも笑わず、ただ少し面白そうに目を細めた。
「三人連れとは、また揃いが妙だな」
声はからりとしている。老いぼれた響きではない。むしろよく通る。
新九郎が即座に眉を上げた。
「いきなり失礼だな、坊主」
「失礼か?」
「褒め言葉には聞こえねえ」
「では言い直そう。若い剣士、口の立つ娘、目つきの悪い次男坊。実に分かりやすい」
「誰が目つき悪いんだ」
「お前さんだよ」
「この野郎」
新九郎が一歩出かけたのを、小夜が袖で止めた。
僧はそのやり取りを、まるで道端の草でも眺めるような顔で見ている。
卜伝は男を観察した。
足元に無駄がない。僧形ではあるが、ただ経を唱えて歩くだけの者の立ち方ではない。人を見ている目も静かすぎる。しかも、さきほどの一言でこちらの連れをあまりに自然に言い当てている。
「あなたは」
卜伝が問う。
「何者です」
「旅の僧だ」
「それだけですか」
「それ以上を欲しがるのは、若い証だな」
男は少しだけ口端を上げた。
「道賢という。名ばかりの僧だ」
小夜がその名を心の中で探るように目を細めたが、すぐには何も言わない。知らないのか、あるいは聞いたことがあっても確信が持てないのか。
「で、道賢殿」
小夜が言う。
「わたしたちに何か用?」
「用といえば用だし、そうでもないといえばそうでもない」
「曖昧ね」
「曖昧なほうが世は渡りやすい」
胡散臭い、と卜伝は思った。
隠そうともしない胡散臭さだ。だが、こういう男ほど何かを知っていることもある。
「宿場へ向かっておるのだろう」
道賢が何気なく言った。
卜伝たちは、誰も答えなかった。
だが沈黙だけで十分だったのか、道賢は面白そうに鼻で笑う。
「図星か」
「どうしてそう思う」
新九郎が問う。
「この先の宿場に、何か面倒が集まっておる顔をしておるからだ」
「顔で分かるのか」
「お前さんらは分かりやすい。特にそこの若いのはな」
道賢の視線が卜伝へ向く。
その目は嫌だった。ただ見ているだけなのに、こちらの内側まで何かを測られている気がする。
「鹿島の風をまだ背負っておる。だが、もう道の顔もし始めている。何かを追っておる者の目だ」
「……」
「しかも、自分だけが追っているつもりでおる」
その言葉に、卜伝の背筋がわずかに冷えた。
小夜も気づいたらしい。さりげなく一歩だけ前へ出る。
「何が言いたいの」
「別に」
道賢は肩をすくめる。
「親切で言うてやろうと思っただけだ」
「何を」
「宿場へ入るなら、頭から入るな。まず脇を見ろ。表におる者ほど、表の顔しか見せぬ」
「……知っているのか」
卜伝が問う。
「何を?」
「真壁という男を」
道賢はそこで初めて、ほんの少しだけ目を細めた。
知っている。
その反応だけで分かった。
だが男はすぐ、いかにも面倒そうな顔をする。
「知っておることもあるし、知らぬこともある」
「答えになっていません」
「世の中は、大抵そういうものだ」
「私はそういう答えが嫌いです」
「だろうな。だが、嫌いなものほど道で会う」
新九郎が小さく笑った。
「気に入った。こいつ、卜伝の嫌がることばかり言う」
「笑っている場合では」
「まあ待てよ。坊主、あんた、どこまで知ってる」
「さてな」
「宿場で俺たちが面倒を見ることになるって顔はしてる」
「しておるな」
「なら、何か一つくらい置いてけ」
「図々しい次男坊だ」
「褒め言葉だな」
「そう受け取るならそうだ」
道賢は杖を軽く鳴らし、それから卜伝を見て、ぽつりと言った。
「若いの」
「……何です」
「お前さん、もう追う側じゃない」
「何?」
卜伝の眉が寄る。
道賢は、道端の風を読むような目で続けた。
「追われる側に片足を入れとるよ」
その言葉は、妙に軽く置かれたくせに、石のように重かった。
小夜が表情を硬くする。
新九郎は笑いを消した。
卜伝だけが、すぐには言葉を返せなかった。
鹿島を出る朝、木立の向こうから見られていた気配。村で逃がした赤布の頭。宿場に先回りされているかもしれぬという小夜の言葉。そして今、何食わぬ顔でそれを口にした僧形の男。
自分たちは追っている。
そのつもりでここまで来た。
だが向こうもまた、こちらを見ているのだとしたら。
卜伝は知らず、柄へ手をかけていた。
道賢はそれを見ても、別に怯れなかった。ただ、ほんの少しだけ口の端を上げる。
「その顔だ」
「何の」
「ようやく、道の真ん中に立った顔だよ」
風が吹いた。
街道の土がわずかに舞う。
宿場はまだ先にある。だが、その前からもう、見えぬ目は自分たちへ向いている。
卜伝は初めて、追う旅とは、ただ前へ向かうだけの旅ではないのだと、はっきり思い知らされた。




