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戦国異聞伝『塚原卜伝 ――鹿島立ちの剣、戦国を渡る』  作者: 常陸之介寛浩㊗️オリコン週間ランキング9位㊗️


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第六話 最初の寄り道は、人助け

 旅の道がまっすぐ目的地へ続くとは限らない。


 それは頭では分かっていたつもりだった。鹿島を出た時から、盗まれた兵法書と箱を追う旅になることは決まっている。賊の足取りを探り、何を狙っているのかを見極め、できるだけ早く追いつく。そのために時間は惜しい。寄り道をしている余裕など、本来はないはずだった。


 だが、目の前で怯えている者を見てなお、「急いでいるから」と背を向けることもまた、卜伝には出来そうになかった。


 井戸端の女は、言うべきではないことを口にしてしまった者の顔をしていた。


 話したいのではない。助けてほしいと叫ぶのも恐ろしい。だが、誰かに知ってほしい。知ってくれる者が現れたなら、もう黙っていることのほうが苦しい。そういう顔だ。


「村長は」

 小夜が静かに問う。

「いるのね?」

「……いるよ」

 女はかすかに頷く。

「でも、今は誰も表で話したがらない。連中がいつどこで見てるか分からないから」

「見張りがいるのか」

 新九郎が低く言う。

「いつもじゃない。でも、いる時はいる。村のはずれや林のほうに」

「人数は」

「五、六……もっといる時もあるって聞いた」

「女や子どもに手を出したのは?」

 卜伝が問う。


 女は答えるまで、ほんの少し間を置いた。その間だけで十分だった。


「まだ……攫われた子はいない」

「まだ?」

 小夜が聞き返す。

「逆らったら、次はそうするって……言われてるんだよ」


 夕暮れの村の空気が、さらに一段沈んだ気がした。


 新九郎が苛立ったように鼻を鳴らす。


「脅しで縛ってるか。下種だな」

「だから、関わらないほうがいい」

 女はほとんど懇願するように言った。

「旅の人が首を突っ込んだって、ろくなことにならない。もし失敗したら、今度こそ本当に――」


 そこから先は言えなかった。


 卜伝は女の目をまっすぐ見た。怯えの中に、村に残る者の諦めが混じっている。どうにもならぬ、と自分に言い聞かせるしかない者の目だ。


 鹿島を出たばかりだというのに、もう答えを迫られている。


 剣を抜くか、抜かぬか。


 見過ごすか、関わるか。


「その連中、今夜も来るのですか」

 卜伝が聞くと、女はぎくりとした。

「……来るかもしれない」

「どこへ」

「村の寄り合い小屋か、米蔵のほうか……その時々で違う」

「決まった頭はいるのか」

「赤い布を腕に巻いた男がいる。あれが仕切ってるように見える」

「腕に赤い布」

 新九郎が繰り返す。

「なるほど、分かりやすく頭だな」


 小夜は卜伝の横顔を見た。


「どうするの」

「……」


 問われる前から、腹の中ではほとんど決まっていた。


 時間は惜しい。村に関われば半日、あるいは一日以上遅れるかもしれない。賊の足も、そのぶん遠のくだろう。だが、それでも見捨てて行けるかと問われれば、答えはひとつしかない。


「助ける」

 卜伝は言った。


 新九郎は即座に頷いた。


「だろうな」

 小夜は目を細める。

「そう言うと思った」

「不満ですか」

「いいえ。むしろ安心した」

「安心?」

「ここで見捨てて行ける人なら、わたしはついてきてない」


 その言い方は、妙に胸に残った。


 井戸端の女は、助けるという言葉を聞いても、すぐには喜ばなかった。喜ぶより先に、信じてよいのか分からぬ顔をする。無理もない。旅の若者三人が何かすると言ったところで、本当に村の事情を変えられるとは思えぬだろう。


 卜伝たちは女に頼み、村の端にある使われていない納屋へ案内してもらった。人目につかず、話をするには都合がよかった。土壁と藁の匂いがこもる薄暗い場所で、三人は腰を落ち着ける。


 外ではもう、空の色が藍へと変わり始めていた。


「で?」

 新九郎が壁にもたれながら言う。

「どうする。俺は正面から叩き潰してもいいと思ってる」

「それは駄目」

 小夜が間髪入れずに言った。

「まだ相手の数も、村のどこに入り込んでるかも分からない。正面からやれば、村人を盾にされる」

「だからその前に速攻で片づける」

「五、六人どころじゃなかったら?」

「その時は……気合いだな」

「駄目ね」

 小夜はばっさり切った。


 新九郎は不服そうに口を曲げたが、完全に反論はしなかった。自分でも荒っぽい案だと分かっているのだろう。


「卜伝は?」

 小夜が問う。


 卜伝は納屋の入口から見える村の輪郭を見ていた。夕暮れのうちに見た村の地形が、頭の中で少しずつ形を結んでいる。井戸。寄り合い小屋。米蔵。林へ抜ける細道。家々の並び。夜になれば、灯りがある場所と暗がりがはっきり分かれるはずだ。


「正面からは駄目です」

 卜伝が言う。

「村人を巻き込む」

「なら?」

 新九郎が聞く。


 卜伝は地面に指で線を引いた。簡単な村の形だ。


「相手は村を見張っている。だが、常にまとまっているとは限らない」

「見張りと取り立て役が分かれてるってこと?」

 小夜がすぐ言う。

「そうです。脅しで縛る連中は、見せる役と、控える役を分けることが多いはずだ」

「どこで知った」

 新九郎が不思議そうに言う。

「昨夜」

 卜伝は短く答えた。

「蔵を荒らした賊も、足止めと中を探る役に分かれていた」


 あの悔しさは、まだ生々しく残っている。だが残っているからこそ、そこから拾えるものもある。


 新九郎は「なるほど」と唸った。


 小夜は少しだけ頷き、先を促す。

「続けて」

「相手をひと塊のまま相手にしない。分けて、混乱させて、孤立したところを潰す」

「どうやって」

「夜の地形を使います」


 卜伝は村の裏手にあった細道を指でなぞった。


「林に通じるここは狭い。二人並んで走るには少し窮屈だった。そこを逃げ道だと思わせる」

「思わせる?」

 新九郎が言う。

「米蔵か寄り合い小屋、どちらかで騒ぎを起こす。相手はまず“村人が逆らった”と思うはずだ。その時、見張りと頭が動く。全部が一緒に来なければ、どこかが薄くなる」

「騒ぎは誰が起こすの」

 小夜が聞く。

「私が近くでひとり落とす」

「静かに?」

「できる限り」

 卜伝は言った。

「血を流さずに済めばそれがいい。無理なら、声を上げる前に斬る」

「物騒ね」

「相手が相手です」

「否定はしない」


 新九郎がにやりとする。


「で、俺は?」

「騒ぎ役です」

「お、派手でいいな」

「派手すぎないでください」

「難しい注文だな」


 小夜が地面の図を見ながら言う。


「わたしは?」

「村の人たちを家から出さない役です」

「え?」

「この手の連中は、騒ぎが起きると真っ先に“見せしめ”を探す。女や子どもが表へ出ると危ない。だから、絶対に戸を開けさせない」

「……」

「できますか」

「できる」

 小夜の声は強かった。

「できるわ。でも、そのためには話を通す相手がいる。さっきの女の人だけじゃ足りない。村長か、少なくとも村の男衆ひとりには伝える必要がある」

「頼めますか」

「ええ。やる」


 卜伝は頷いた。


 こうして言葉にしてみると、形は決して悪くない。真正面からぶつかるのではなく、夜と地形と人の動きを使う。まだ荒い策だ。だが昨日までの自分なら、まず敵を斬ることしか考えなかっただろう。そこから一歩だけでも進めているなら、それは昨夜の悔しさが無駄でなかった証でもある。


「よし」

 新九郎が手を打った。

「じゃあ、俺は派手すぎずに派手にやる」

「その言い方がもう不安です」

 卜伝が言う。

「任せろ。こういうのは得意だ」

「何が」

「場をかき回すのが」

「自慢しないでください」

「自慢だろ」


 小夜が呆れたように息をついたが、口元は少しだけ緩んでいた。こういう時の新九郎の軽さは、たしかにありがたい。張りつめすぎた空気が、一段だけほどける。


 夜が完全に落ちるまでのあいだに、小夜は井戸端の女を通じて、村長と二人の男衆へ話を通した。村長は最初、露骨に顔をしかめた。よそ者を巻き込めば余計に悪くなるのではないか。そう思うのも当然だ。


 だが小夜は怯まず、「何もしなければ、このまま首を絞められるだけです」と言い切ったという。


 そのあたりの押しの強さは、卜伝には真似できぬ。


 一方で新九郎は、村の外れにある廃れた物置や、細道の足場を確かめ、どこで音を立てれば敵が動くかを見て回った。無造作に見えて、やるべきことはちゃんとやる男だ。


 卜伝は林へ通じる狭い道の近くに潜み、見張りの動きを待った。


 夜の村は、昼よりさらに音が少ない。


 遠くで犬が一度吠えたきり、あとは風が屋根を撫でる音くらいしかない。そんな中で、人の足音だけはよく響く。卜伝は息を浅くし、暗がりに溶けるように身を低くした。


 やがて、二つの影が現れる。


 村の外れを見回る野武士だ。


 ひとりは槍を持ち、もうひとりは刀だけ。話し声は小さいが、油断した歩きではない。村人が逆らわぬと知っている者の歩き方だ。


 卜伝は待った。


 もっと近くへ。


 もっと油断したところへ。


 槍持ちがちょうど細道の曲がりへ差しかかった瞬間、卜伝は土を蹴った。


 速く、だが音を殺して。


 相手が振り向く前に、左手で口を塞ぎ、右の柄頭を耳の後ろへ叩き込む。鈍い感触。男の膝から力が抜ける。その体を地へ倒し切る前に、卜伝はもう一人へ身を返した。


「な――」


 刀持ちの声が出る寸前、卜伝の刃が喉元で止まる。


 ほんの紙一枚分の距離。


 男の目が大きく開く。


「声を出すな」

 卜伝は低く言った。

「出せば死ぬ」


 脅しではない声音だった。


 男は喉を鳴らし、凍りついたように頷く。卜伝はそこでようやく、自分の剣が「斬るため」だけでなく「制するため」にも使えたことを知った。殺さずに止める。声を上げさせずに戦いをひとつ終わらせる。


 これもまた剣なのだ。


 その刹那、村の反対側で大きな音がした。


 がしゃん、と木が崩れる音。


 続いて、新九郎のいかにも挑発的な怒鳴り声が響く。


「おうおう! こんなところに上等な連中がいるって聞いて来てみりゃ、脅して飯食ってるだけかよ!」


 派手すぎる。


 卜伝は一瞬そう思ったが、効果はてきめんだった。


 村の奥から男たちの怒声が上がる。


「何だ!」

「誰だ、あいつ!」

「捕まえろ!」


 足音がばらけて動いた。ひと塊だった気配が、たちまちいくつかに分かれる。見張り、頭、後ろに控えていた者、それぞれが別の方向へ走り出したのだ。


 卜伝は喉元へ刃を当てた男の後ろ手を縛り上げ、気絶した槍持ちを藪へ引きずり込むと、そのまま音の方へ駆けた。


 村の中央に近い空き地で、新九郎が三人を相手に暴れていた。


 いや、暴れているように見せて、ちゃんと位置を取っている。家々を背にせず、相手が横に広がれぬ場所へ誘い込んでいる。力任せに見せながら、二人以上に一度にかかられない角度を保っているのだ。


「遅えぞ、卜伝!」

「十分速いです」

 言いながら、卜伝は横からひとりの腕を打ち落とした。


 野武士の刀が地へ転がる。そこへ踏み込み、肩口へ打ち込むように斬る。悲鳴。新九郎がその脇から体ごとぶつかり、もう一人を薙ぐ。


「おらっ!」

 豪快な声とともに、敵が二歩三歩とたたらを踏んだ。


 その隙に村の反対側から小夜の声が飛ぶ。


「戸を開けないで! 絶対に出ないで!」


 家々の陰で、村人たちを押しとどめているのだろう。見せしめを探しに走ろうとした野武士がいたが、そこへ卜伝が先回りした。


 刃と刃が噛み合う。


 短い一撃。


 相手の手元が浮いた瞬間、卜伝は柄で顎を打った。男は白目を剥いて崩れた。


 自分でも驚くほど、体がよく動く。昨夜までより、敵の位置と村の家並みがひとつの景色として見えている。誰を先に止めるべきか、どこを抜かせてはならぬか。まだ完全ではない。だが、考え方が変わり始めているのを感じた。


「頭はどこだ!」

 新九郎が怒鳴る。


 その時、空き地の奥で赤い布が揺れた。


 腕に巻いた赤布。井戸端の女が言っていた男だ。


 頭らしき男は一歩引きながら、すでに逃げる算段をしている顔をしていた。部下をぶつけ、自分は抜ける気だ。


「ちっ、使えねえ!」

 男が吐き捨てる。

「林へ退け! 真壁の旦那に知らせろ!」


 その名が、夜気を切り裂くように響いた。


 真壁。


 卜伝の中で何かがはっきりと繋がった。


 鹿島の蔵を荒らした連中。


 この村を脅す野武士。


 別々の悪事ではない。後ろにいる誰かへ繋がっている。真壁という名を持つ者が、その中心か、少なくとも深く関わっている。


「逃がすな!」

 新九郎が走り出す。


 卜伝も同時に踏み込んだ。だが頭の男は、地形を知っている逃げ方だった。部下をひとりわざと転ばせ、こちらの足を止める。卜伝はその男を斬り捨てるか、一瞬だけ迷った。その一瞬で、頭は林の闇へ滑り込む。


 深追いは危険だ。


 昨日の夜、それを嫌というほど学んだばかりだった。


「卜伝!」

 小夜の声が飛ぶ。

「村のほうを!」


 その一声で、卜伝は追う足を止めた。


 正しい。


 ここで林へ入れば、村に残った敵か、あるいは火でも放たれれば終わる。


 卜伝は歯を食いしばり、逃げる赤布の背中を見送るしかなかった。


 だが、今度はただ逃がしたわけではない。


 名を聞いた。


 繋がりを掴んだ。


 真壁。


 その名が、盗まれた兵法書を追う道の先に確かにある。


 空き地には、倒れた野武士たちの呻きと、荒い呼吸だけが残った。新九郎が刀の血を払い、鼻を鳴らす。


「寄り道にしちゃ、ずいぶんでかい名前が出たな」

「ええ」

 小夜も息を整えながら頷く。

「もうただの人助けじゃない」

 卜伝は林の闇を見つめたまま、小さく答えた。

「ああ。道は、もう繋がった」


 鹿島を出て最初の寄り道は、村を救うための剣だった。


 だがその剣の先で、追うべき敵の名までが、ようやく夜の中に姿を見せ始めていた。

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