第六話 最初の寄り道は、人助け
旅の道がまっすぐ目的地へ続くとは限らない。
それは頭では分かっていたつもりだった。鹿島を出た時から、盗まれた兵法書と箱を追う旅になることは決まっている。賊の足取りを探り、何を狙っているのかを見極め、できるだけ早く追いつく。そのために時間は惜しい。寄り道をしている余裕など、本来はないはずだった。
だが、目の前で怯えている者を見てなお、「急いでいるから」と背を向けることもまた、卜伝には出来そうになかった。
井戸端の女は、言うべきではないことを口にしてしまった者の顔をしていた。
話したいのではない。助けてほしいと叫ぶのも恐ろしい。だが、誰かに知ってほしい。知ってくれる者が現れたなら、もう黙っていることのほうが苦しい。そういう顔だ。
「村長は」
小夜が静かに問う。
「いるのね?」
「……いるよ」
女はかすかに頷く。
「でも、今は誰も表で話したがらない。連中がいつどこで見てるか分からないから」
「見張りがいるのか」
新九郎が低く言う。
「いつもじゃない。でも、いる時はいる。村のはずれや林のほうに」
「人数は」
「五、六……もっといる時もあるって聞いた」
「女や子どもに手を出したのは?」
卜伝が問う。
女は答えるまで、ほんの少し間を置いた。その間だけで十分だった。
「まだ……攫われた子はいない」
「まだ?」
小夜が聞き返す。
「逆らったら、次はそうするって……言われてるんだよ」
夕暮れの村の空気が、さらに一段沈んだ気がした。
新九郎が苛立ったように鼻を鳴らす。
「脅しで縛ってるか。下種だな」
「だから、関わらないほうがいい」
女はほとんど懇願するように言った。
「旅の人が首を突っ込んだって、ろくなことにならない。もし失敗したら、今度こそ本当に――」
そこから先は言えなかった。
卜伝は女の目をまっすぐ見た。怯えの中に、村に残る者の諦めが混じっている。どうにもならぬ、と自分に言い聞かせるしかない者の目だ。
鹿島を出たばかりだというのに、もう答えを迫られている。
剣を抜くか、抜かぬか。
見過ごすか、関わるか。
「その連中、今夜も来るのですか」
卜伝が聞くと、女はぎくりとした。
「……来るかもしれない」
「どこへ」
「村の寄り合い小屋か、米蔵のほうか……その時々で違う」
「決まった頭はいるのか」
「赤い布を腕に巻いた男がいる。あれが仕切ってるように見える」
「腕に赤い布」
新九郎が繰り返す。
「なるほど、分かりやすく頭だな」
小夜は卜伝の横顔を見た。
「どうするの」
「……」
問われる前から、腹の中ではほとんど決まっていた。
時間は惜しい。村に関われば半日、あるいは一日以上遅れるかもしれない。賊の足も、そのぶん遠のくだろう。だが、それでも見捨てて行けるかと問われれば、答えはひとつしかない。
「助ける」
卜伝は言った。
新九郎は即座に頷いた。
「だろうな」
小夜は目を細める。
「そう言うと思った」
「不満ですか」
「いいえ。むしろ安心した」
「安心?」
「ここで見捨てて行ける人なら、わたしはついてきてない」
その言い方は、妙に胸に残った。
井戸端の女は、助けるという言葉を聞いても、すぐには喜ばなかった。喜ぶより先に、信じてよいのか分からぬ顔をする。無理もない。旅の若者三人が何かすると言ったところで、本当に村の事情を変えられるとは思えぬだろう。
卜伝たちは女に頼み、村の端にある使われていない納屋へ案内してもらった。人目につかず、話をするには都合がよかった。土壁と藁の匂いがこもる薄暗い場所で、三人は腰を落ち着ける。
外ではもう、空の色が藍へと変わり始めていた。
「で?」
新九郎が壁にもたれながら言う。
「どうする。俺は正面から叩き潰してもいいと思ってる」
「それは駄目」
小夜が間髪入れずに言った。
「まだ相手の数も、村のどこに入り込んでるかも分からない。正面からやれば、村人を盾にされる」
「だからその前に速攻で片づける」
「五、六人どころじゃなかったら?」
「その時は……気合いだな」
「駄目ね」
小夜はばっさり切った。
新九郎は不服そうに口を曲げたが、完全に反論はしなかった。自分でも荒っぽい案だと分かっているのだろう。
「卜伝は?」
小夜が問う。
卜伝は納屋の入口から見える村の輪郭を見ていた。夕暮れのうちに見た村の地形が、頭の中で少しずつ形を結んでいる。井戸。寄り合い小屋。米蔵。林へ抜ける細道。家々の並び。夜になれば、灯りがある場所と暗がりがはっきり分かれるはずだ。
「正面からは駄目です」
卜伝が言う。
「村人を巻き込む」
「なら?」
新九郎が聞く。
卜伝は地面に指で線を引いた。簡単な村の形だ。
「相手は村を見張っている。だが、常にまとまっているとは限らない」
「見張りと取り立て役が分かれてるってこと?」
小夜がすぐ言う。
「そうです。脅しで縛る連中は、見せる役と、控える役を分けることが多いはずだ」
「どこで知った」
新九郎が不思議そうに言う。
「昨夜」
卜伝は短く答えた。
「蔵を荒らした賊も、足止めと中を探る役に分かれていた」
あの悔しさは、まだ生々しく残っている。だが残っているからこそ、そこから拾えるものもある。
新九郎は「なるほど」と唸った。
小夜は少しだけ頷き、先を促す。
「続けて」
「相手をひと塊のまま相手にしない。分けて、混乱させて、孤立したところを潰す」
「どうやって」
「夜の地形を使います」
卜伝は村の裏手にあった細道を指でなぞった。
「林に通じるここは狭い。二人並んで走るには少し窮屈だった。そこを逃げ道だと思わせる」
「思わせる?」
新九郎が言う。
「米蔵か寄り合い小屋、どちらかで騒ぎを起こす。相手はまず“村人が逆らった”と思うはずだ。その時、見張りと頭が動く。全部が一緒に来なければ、どこかが薄くなる」
「騒ぎは誰が起こすの」
小夜が聞く。
「私が近くでひとり落とす」
「静かに?」
「できる限り」
卜伝は言った。
「血を流さずに済めばそれがいい。無理なら、声を上げる前に斬る」
「物騒ね」
「相手が相手です」
「否定はしない」
新九郎がにやりとする。
「で、俺は?」
「騒ぎ役です」
「お、派手でいいな」
「派手すぎないでください」
「難しい注文だな」
小夜が地面の図を見ながら言う。
「わたしは?」
「村の人たちを家から出さない役です」
「え?」
「この手の連中は、騒ぎが起きると真っ先に“見せしめ”を探す。女や子どもが表へ出ると危ない。だから、絶対に戸を開けさせない」
「……」
「できますか」
「できる」
小夜の声は強かった。
「できるわ。でも、そのためには話を通す相手がいる。さっきの女の人だけじゃ足りない。村長か、少なくとも村の男衆ひとりには伝える必要がある」
「頼めますか」
「ええ。やる」
卜伝は頷いた。
こうして言葉にしてみると、形は決して悪くない。真正面からぶつかるのではなく、夜と地形と人の動きを使う。まだ荒い策だ。だが昨日までの自分なら、まず敵を斬ることしか考えなかっただろう。そこから一歩だけでも進めているなら、それは昨夜の悔しさが無駄でなかった証でもある。
「よし」
新九郎が手を打った。
「じゃあ、俺は派手すぎずに派手にやる」
「その言い方がもう不安です」
卜伝が言う。
「任せろ。こういうのは得意だ」
「何が」
「場をかき回すのが」
「自慢しないでください」
「自慢だろ」
小夜が呆れたように息をついたが、口元は少しだけ緩んでいた。こういう時の新九郎の軽さは、たしかにありがたい。張りつめすぎた空気が、一段だけほどける。
夜が完全に落ちるまでのあいだに、小夜は井戸端の女を通じて、村長と二人の男衆へ話を通した。村長は最初、露骨に顔をしかめた。よそ者を巻き込めば余計に悪くなるのではないか。そう思うのも当然だ。
だが小夜は怯まず、「何もしなければ、このまま首を絞められるだけです」と言い切ったという。
そのあたりの押しの強さは、卜伝には真似できぬ。
一方で新九郎は、村の外れにある廃れた物置や、細道の足場を確かめ、どこで音を立てれば敵が動くかを見て回った。無造作に見えて、やるべきことはちゃんとやる男だ。
卜伝は林へ通じる狭い道の近くに潜み、見張りの動きを待った。
夜の村は、昼よりさらに音が少ない。
遠くで犬が一度吠えたきり、あとは風が屋根を撫でる音くらいしかない。そんな中で、人の足音だけはよく響く。卜伝は息を浅くし、暗がりに溶けるように身を低くした。
やがて、二つの影が現れる。
村の外れを見回る野武士だ。
ひとりは槍を持ち、もうひとりは刀だけ。話し声は小さいが、油断した歩きではない。村人が逆らわぬと知っている者の歩き方だ。
卜伝は待った。
もっと近くへ。
もっと油断したところへ。
槍持ちがちょうど細道の曲がりへ差しかかった瞬間、卜伝は土を蹴った。
速く、だが音を殺して。
相手が振り向く前に、左手で口を塞ぎ、右の柄頭を耳の後ろへ叩き込む。鈍い感触。男の膝から力が抜ける。その体を地へ倒し切る前に、卜伝はもう一人へ身を返した。
「な――」
刀持ちの声が出る寸前、卜伝の刃が喉元で止まる。
ほんの紙一枚分の距離。
男の目が大きく開く。
「声を出すな」
卜伝は低く言った。
「出せば死ぬ」
脅しではない声音だった。
男は喉を鳴らし、凍りついたように頷く。卜伝はそこでようやく、自分の剣が「斬るため」だけでなく「制するため」にも使えたことを知った。殺さずに止める。声を上げさせずに戦いをひとつ終わらせる。
これもまた剣なのだ。
その刹那、村の反対側で大きな音がした。
がしゃん、と木が崩れる音。
続いて、新九郎のいかにも挑発的な怒鳴り声が響く。
「おうおう! こんなところに上等な連中がいるって聞いて来てみりゃ、脅して飯食ってるだけかよ!」
派手すぎる。
卜伝は一瞬そう思ったが、効果はてきめんだった。
村の奥から男たちの怒声が上がる。
「何だ!」
「誰だ、あいつ!」
「捕まえろ!」
足音がばらけて動いた。ひと塊だった気配が、たちまちいくつかに分かれる。見張り、頭、後ろに控えていた者、それぞれが別の方向へ走り出したのだ。
卜伝は喉元へ刃を当てた男の後ろ手を縛り上げ、気絶した槍持ちを藪へ引きずり込むと、そのまま音の方へ駆けた。
村の中央に近い空き地で、新九郎が三人を相手に暴れていた。
いや、暴れているように見せて、ちゃんと位置を取っている。家々を背にせず、相手が横に広がれぬ場所へ誘い込んでいる。力任せに見せながら、二人以上に一度にかかられない角度を保っているのだ。
「遅えぞ、卜伝!」
「十分速いです」
言いながら、卜伝は横からひとりの腕を打ち落とした。
野武士の刀が地へ転がる。そこへ踏み込み、肩口へ打ち込むように斬る。悲鳴。新九郎がその脇から体ごとぶつかり、もう一人を薙ぐ。
「おらっ!」
豪快な声とともに、敵が二歩三歩とたたらを踏んだ。
その隙に村の反対側から小夜の声が飛ぶ。
「戸を開けないで! 絶対に出ないで!」
家々の陰で、村人たちを押しとどめているのだろう。見せしめを探しに走ろうとした野武士がいたが、そこへ卜伝が先回りした。
刃と刃が噛み合う。
短い一撃。
相手の手元が浮いた瞬間、卜伝は柄で顎を打った。男は白目を剥いて崩れた。
自分でも驚くほど、体がよく動く。昨夜までより、敵の位置と村の家並みがひとつの景色として見えている。誰を先に止めるべきか、どこを抜かせてはならぬか。まだ完全ではない。だが、考え方が変わり始めているのを感じた。
「頭はどこだ!」
新九郎が怒鳴る。
その時、空き地の奥で赤い布が揺れた。
腕に巻いた赤布。井戸端の女が言っていた男だ。
頭らしき男は一歩引きながら、すでに逃げる算段をしている顔をしていた。部下をぶつけ、自分は抜ける気だ。
「ちっ、使えねえ!」
男が吐き捨てる。
「林へ退け! 真壁の旦那に知らせろ!」
その名が、夜気を切り裂くように響いた。
真壁。
卜伝の中で何かがはっきりと繋がった。
鹿島の蔵を荒らした連中。
この村を脅す野武士。
別々の悪事ではない。後ろにいる誰かへ繋がっている。真壁という名を持つ者が、その中心か、少なくとも深く関わっている。
「逃がすな!」
新九郎が走り出す。
卜伝も同時に踏み込んだ。だが頭の男は、地形を知っている逃げ方だった。部下をひとりわざと転ばせ、こちらの足を止める。卜伝はその男を斬り捨てるか、一瞬だけ迷った。その一瞬で、頭は林の闇へ滑り込む。
深追いは危険だ。
昨日の夜、それを嫌というほど学んだばかりだった。
「卜伝!」
小夜の声が飛ぶ。
「村のほうを!」
その一声で、卜伝は追う足を止めた。
正しい。
ここで林へ入れば、村に残った敵か、あるいは火でも放たれれば終わる。
卜伝は歯を食いしばり、逃げる赤布の背中を見送るしかなかった。
だが、今度はただ逃がしたわけではない。
名を聞いた。
繋がりを掴んだ。
真壁。
その名が、盗まれた兵法書を追う道の先に確かにある。
空き地には、倒れた野武士たちの呻きと、荒い呼吸だけが残った。新九郎が刀の血を払い、鼻を鳴らす。
「寄り道にしちゃ、ずいぶんでかい名前が出たな」
「ええ」
小夜も息を整えながら頷く。
「もうただの人助けじゃない」
卜伝は林の闇を見つめたまま、小さく答えた。
「ああ。道は、もう繋がった」
鹿島を出て最初の寄り道は、村を救うための剣だった。
だがその剣の先で、追うべき敵の名までが、ようやく夜の中に姿を見せ始めていた。




