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戦国異聞伝『塚原卜伝 ――鹿島立ちの剣、戦国を渡る』  作者: 常陸之介寛浩㊗️オリコン週間ランキング9位㊗️


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第五話 街道へ――これが鹿島立ち

 鹿島を出る道は、振り返る者にだけ少し重い。


 歩き出してしまえば、足は勝手に前へ出る。土の感触はどこでもそう変わらぬし、朝の風も頬を打つ時にはただの風だ。けれど、背にしたものを意識した途端、その一歩は急に意味を持ち始める。


 社の森。


 潮の匂い。


 神宮へ続く道筋。


 見慣れた家並みと、見慣れた空。


 卜伝は歩きながら、背中にそれらの重みを感じていた。


 鹿島の風は、どこか湿っている。海からの気配を常に抱えているからだろう。だが街道へ出るにつれて、風の匂いは少しずつ変わる。潮の気配が遠のき、土の匂いが前へ出てくる。田を渡る風、野を抜ける風、木立の間を流れる乾いた風。まだ一日も離れてはいないのに、土地が変わり始めていることを体が先に知る。


「もうそんな顔してるの?」

 横から小夜が言った。


 卜伝は視線だけ向ける。


「どんな顔です」

「鹿島を背負ってる顔」

「意味が分かりません」

「分かるわよ。いちいち真面目なの」

「悪いことのように言わないでください」

「悪いとは言ってないわ。重いって言ってるの」


 小夜はそう言って、前を向いたまま口元だけで笑う。朝の光の中を歩く彼女は、昨日までの社家町の娘というより、もう半歩ほど外の空気へ足を出した顔をしていた。旅向きの身軽な格好で髪もまとめているが、歩き方には不思議と乱れがない。きちんとしている。だが、きちんとしているだけではなく、どこか楽しんでもいるように見えた。


「重くて悪いか」

 新九郎が反対側から口を挟む。

「鹿島立ちなんてのは、本来そういうもんだろ。軽い気持ちで“じゃあ行ってきます”って歩き出すほうが、あとで泣きを見る」

「あなたが言うと、妙にそれらしく聞こえるのが嫌ですね」

 卜伝が言う。


 新九郎はからから笑った。


「実際、俺は一度泣きを見てるからな」

「何をしたんです」

「若い時に、いや今も若いが、まあ今よりもう少し阿呆だった頃だ。腹減るだろうと思って干し飯だけ持って出たら、水がなくて死にかけた」

「阿呆ですね」

「だろ?」

「自分で言うんですね」

「言うさ。そういう失敗は言っといたほうが後の役に立つ」


 こういうところは妙に素直だ。


 卜伝は歩きながら、新九郎の背に下がった荷を横目で見た。昨夜は雑に見えた支度も、こうして改めて見ればよくまとまっている。縄、小さな包み、刃物、火打ち、干し飯、水袋。必要なものを、無理なく背負える形に収めている。


「それで、今朝酒を飲んだのですか」

 卜伝が言うと、

「ちょっとだけだ」

「ちょっとの基準が信用できません」

「景気づけって言ったろ」

「景気づけで済ませる顔をしていません」

「おいおい、お前ほんとに見てるとこ細けえな」


 新九郎は肩をすくめる。


 だが小夜がすぐに追い打ちをかけた。


「卜伝は細かいんじゃなくて、あなたが雑なの」

「それも違うな。俺は雑そうに見えて、生きることには細かい」

「自分で言うの?」

「言う」

「すごい自信」

「生き残ってるやつは、たいていそこに自信があるもんだ」


 その言葉に、卜伝は少しだけ耳を止めた。


 生き残る。


 今朝、師筋の老人に言われた言葉が頭をよぎる。勝つ剣と、生き残る剣。


 新九郎は、おそらくそれを理屈ではなく体で知っている。だからこそ、雑に見えるのに必要なものを外さず、軽口を叩きながらも危ない線だけは踏み越えない。


 卜伝はその横顔を見て、昨夜の戦いを思い出した。横合いから飛び込んできた時の迷いのなさ。押し込みの強さ。勢い任せに見せながら、相手の受けた先をちゃんと読んでいる太刀筋。


 学んだ形は違っても、こういう男と道を共にするのは悪くないのかもしれぬ。


 もっとも、それを口にすると調子に乗りそうなので黙っていた。


 道は午前のうち、しばらく緩やかな起伏を見せながら続いた。鹿島の近辺は、どこか神宮を中心に空気が整っている。人家も道も、森の気配を背にしたまとまりがある。だが少し離れるだけで、途端に「どこへでも続いていく道」の顔になる。


 行き交うのは、荷を引く者、行商、武家の使いらしい者、寺へ向かう僧、農具を担ぐ百姓。みなそれぞれの速さで歩き、それぞれの事情を背負っている。卜伝たちもその流れのひとつになった。


「街道って、もっと騒がしいものかと思っていました」

 卜伝が言うと、小夜が答える。


「騒がしい時はもっと騒がしいわよ。市の立つ日とか、通る人数が重なる時とか。でも、静かな時ほどいろんなものが見えるの」

「いろんなもの?」

「誰が急いでるか、誰が嘘をついてるか、誰が道に慣れてるか、誰が怯えてるか」

「歩き方で分かるのか」

「全部じゃないけどね。少なくとも鹿島の中にいるよりは、人の違いがはっきり出る」


 そう言う小夜は、実際によく周囲を見ていた。すれ違う人間の顔だけではなく、履き物の汚れ方、袖口のほつれ、荷の結び方まで目に入れているようだった。


「あなた、ちゃんと見てるのね」

 卜伝が言う。

「失礼ね。何だと思ってたの」

「口が達者なだけかと」

「それは褒めてるの?」

「半分は」

「半分は嫌味ね」

「自覚はあります」

「本当に可愛げがない」


 その言い方が、どこか昨夜までの鹿島の空気と繋がっていて、少しだけ胸が和らぐ。


 旅は始まったばかりだ。だが、始まったばかりだからこそ、何でもないやり取りが妙に心へ残る。


 昼頃、三人は街道脇の木陰で小休止を取った。


 水を飲み、干し飯を口にし、足を休める。小夜は最初こそ平気な顔をしていたが、さすがに社家町の内を歩くのとは勝手が違うのか、腰を下ろした時にほんのわずか息を吐いた。


「疲れましたか」

 卜伝が聞くと、

「疲れてない」

 と即答する。


「顔に出ています」

「出てない」

「出ています」

「出てるとしても認めない」

「面倒ですね」

「あなたが言う?」


 小夜はそう言いながらも、水袋を受け取る手は素直だった。


 新九郎は少し離れたところで寝転び、草を噛みながら空を見ていた。


「お前ら、今からそんな調子で大丈夫か」

「あなたこそ、もう寝るんですか」

 卜伝が言う。

「寝てねえよ。耳は起きてる」

「便利な言い訳ですね」

「便利じゃなくて本当だ。こういう時に目ぇ閉じとく癖をつけると、野宿が楽になる」

「野宿」

 小夜が少しだけ顔をしかめた。

「まさか、今日からもう野宿する気?」

「するかもしれねえだろ。宿が取れりゃ宿だが、必ず取れると思うなよ」

「……」

「何だ、その顔」

「してないわよ」

「してるしてる。“そんなの聞いてない”って顔だ」

「聞いてないとは言ってない」

「じゃあ、“できれば聞きたくなかった”顔」

「細かいわね」

「さっき卜伝に言われたのがうつった」


 小夜は何か言い返しかけたが、やめた。図星だったらしい。


 卜伝はそのやり取りを見て、旅の現実がまたひとつ形を持つのを感じた。盗まれたものを追う。敵を探る。それは確かに目的だ。だが、そのためにはまず歩き、食い、寝る場所を考え、明日も動ける体を保たねばならない。


 剣の話だけでは済まない。


 旅とはそういうものなのだろう。


 午後になると、道は少し荒れた。雨が降った後か、車輪の轍が深く残り、土が乾きかけて固まっている。歩きにくい。履き物の裏に土がまとわりつき、足運びに余計な力が要る。


 それでも三人は進んだ。


 途中、小夜が道脇の小さな社を見て足を止め、土地の話をした。


「このあたりは昔から水が暴れるの」

「水?」

 卜伝が問う。

「雨の時期になると、流れが変わるのよ。だから小さな祠が多い。道中の無事を願うのもあるけど、土地を鎮める意味もある」

「神はどこにでもいるのですね」

「そういう言い方をすると、神職の家の娘としては“どこにでもいるというより、どこにもおられて、どこかに特に近い”と答えたいところだけど」

「面倒な答え方ですね」

「大事なところよ」


 新九郎が吹き出した。


「お嬢さん、その言い方好きそうだな」

「何よ」

「いや、筋を通したい時の顔をしてる」

「失礼ね」

「でも嫌いじゃねえ」


 小夜はじろりと睨んだが、新九郎は全然気にしていない。


 そんなふうに、三人の歩調は少しずつ合い始めていた。


 先を読むのは小夜。


 道と生き残り方に慣れているのは新九郎。


 刃の役目を果たすのは卜伝。


 まだ粗い。まだ互いの間合いは分かりきっていない。だが、旅の最初の一日としては悪くなかった。


 だからこそ、その日の夕暮れに辿り着いた小村の空気の悪さが、余計にはっきり見えた。


 陽が傾くころ、三人は街道から少し入った場所にある小さな村へ寄った。水と、できれば宿を借りるためだった。村そのものは大きくない。田と畑に囲まれ、家の数も少なく、牛馬の声より人の気配のほうが小さいような土地だ。


 だが、村へ足を踏み入れた途端、卜伝は妙な感じを覚えた。


 静かすぎる。


 夕刻の村なら、本来は一日の終わりの気配がある。薪の匂い、子どもの声、家畜の世話、鍋の音。そういうものがどこかから滲んでくるはずだ。だがこの村は、音が表へ出てこない。


 家の戸が閉まるのが少し早い。


 外を歩く者が、卜伝たちを見るとすぐ目を逸らす。


 人の気配があるのに、人の匂いが前へ出てこない。


「……変ですね」

 卜伝が小さく言う。


 小夜もすぐ頷いた。


「ええ。怯えてる」

「分かるのか」

「分かるわよ。見て。子どもがいない」


 言われて気づいた。夕刻の村にしては、子どもの影が見えぬ。家の中へ入れられているのかもしれない。それだけでも、何かが普通ではないと分かる。


 新九郎はもう少し露骨だった。辺りをぐるりと見回し、舌打ちする。


「嫌な沈み方だな。これは面倒ごとの匂いがする」

「そういう言い方をすると、嬉しそうに聞こえます」

 卜伝が言う。

「少しはな」

「否定しないんですね」

「しねえ。でも、こういう沈み方はろくでもないほうだ」


 三人は村の外れに近い井戸のそばで、水を汲んでいた年配の女に声をかけた。女は最初、明らかに怯えた目をした。旅人を見て怯えるのではない。旅人と話しているところを誰かに見られることを恐れる目だ。


「水を少しいただけますか」

 小夜がなるべく柔らかく言う。

「……あ、ああ」

 女は頷くが、視線は落ち着かない。

「泊まれる家か、小さな宿でもあればと思うのですが」

「宿は……ないよ」

「では、どこか軒を借りられる場所だけでも」

「それは……」


 言いよどむ。


 卜伝はその横顔を見て、昨夜の小夜の言葉を思い出した。怯えている者は目だけでなく、息に出る。肩に出る。手の止まり方に出る。


 女の手は、水桶の柄を強く握りすぎて白くなっていた。


「何かあるのですか」

 卜伝が問うと、女はびくりと肩を揺らした。

「な、何も」

「何もない村の顔ではありません」

「おい」

 新九郎が低くたしなめる。

「真正面から行きすぎだ」


 卜伝はそこで自分の口が少し硬すぎたと気づいた。だがもう遅い。女はますます怯えてしまっている。


 小夜がすぐ前へ出た。


「ごめんなさい。この人、悪気はないの。ただ、隠しごとが下手なだけで」

「褒めていませんね」

「今は黙って」

「……」


 小夜は女に向き直り、声を落とした。


「わたしたち、争いを探して歩いてるわけじゃないの。けれど、この村の空気が普通じゃないことくらいは分かる。もし困りごとがあるなら、聞くだけでもできるかもしれない」


 その言い方は卜伝には真似できないと思った。踏み込みすぎず、だが退きすぎもしない。相手が口を開けるだけの隙を残す話し方だ。


 女はしばらく迷っていたが、やがて辺りを見回し、さらに声を低くした。


「……旅の人なら、関わらないほうがいい」

「何にです」

 小夜が問う。


 女は唇を震わせる。喉の奥で、何か言ってしまえば終わるというような恐れと、誰かに言わずにはいられない苦しさがせめぎ合っている顔だった。


「街道の向こうの林に、連中がいる」

「連中?」

 新九郎の目が細くなる。


 女はごくりと唾を呑みこんだ。


「野武士だよ」

「村を荒らすのですか」

 卜伝が聞く。


 女は首を横に振る。だが、その振り方は安心を意味していない。


「荒らすっていうより……見てるんだ。来る。帰る。また来る。物を持っていくこともある。米も、銭も」

「それだけ?」

 小夜が静かに聞く。


 女の顔が、そこで明らかに曇った。


 沈黙がひとつ落ちる。


 村のどこかで戸が閉まる音がした。まだ完全に夜ではない。なのに、その音は「外へ出るな」と言っているように聞こえた。


 女はやがて、かすれた声で言った。


「逆らえば……娘が攫われる」


 卜伝の中で、何かがすっと冷えた。


 小夜の目も変わる。


 新九郎は舌打ちした。今度は、さっきまでの面白がる気配が欠片もなかった。


「何人だ」

 短く問う。

「分からない……でも、何人も。村の男衆だけじゃ、どうにもならない」

「役人や近くの地侍には?」

 小夜が聞く。

「伝えようとした人もいたよ。でも、その前に知られて……」


 女はそこまで言って、はっと口を押さえた。言いすぎたと思ったのだろう。だが、もう十分だった。


 見張られている。


 脅されている。


 物だけでなく、人が狙われている。


 旅の初日で、もう現実が立ちはだかった。


 鹿島を出たばかりだというのに、道は一日で剣を抜かせる理由を用意してくる。


 卜伝は女の怯えた目を見ながら、自分の手が自然と柄へ近づいているのを感じた。


 勝つ剣では足りない。


 ならば、ここで何をすべきか。


 その答えを街道は、あまり間を置かずに求めてくるらしかった。

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