第五話 街道へ――これが鹿島立ち
鹿島を出る道は、振り返る者にだけ少し重い。
歩き出してしまえば、足は勝手に前へ出る。土の感触はどこでもそう変わらぬし、朝の風も頬を打つ時にはただの風だ。けれど、背にしたものを意識した途端、その一歩は急に意味を持ち始める。
社の森。
潮の匂い。
神宮へ続く道筋。
見慣れた家並みと、見慣れた空。
卜伝は歩きながら、背中にそれらの重みを感じていた。
鹿島の風は、どこか湿っている。海からの気配を常に抱えているからだろう。だが街道へ出るにつれて、風の匂いは少しずつ変わる。潮の気配が遠のき、土の匂いが前へ出てくる。田を渡る風、野を抜ける風、木立の間を流れる乾いた風。まだ一日も離れてはいないのに、土地が変わり始めていることを体が先に知る。
「もうそんな顔してるの?」
横から小夜が言った。
卜伝は視線だけ向ける。
「どんな顔です」
「鹿島を背負ってる顔」
「意味が分かりません」
「分かるわよ。いちいち真面目なの」
「悪いことのように言わないでください」
「悪いとは言ってないわ。重いって言ってるの」
小夜はそう言って、前を向いたまま口元だけで笑う。朝の光の中を歩く彼女は、昨日までの社家町の娘というより、もう半歩ほど外の空気へ足を出した顔をしていた。旅向きの身軽な格好で髪もまとめているが、歩き方には不思議と乱れがない。きちんとしている。だが、きちんとしているだけではなく、どこか楽しんでもいるように見えた。
「重くて悪いか」
新九郎が反対側から口を挟む。
「鹿島立ちなんてのは、本来そういうもんだろ。軽い気持ちで“じゃあ行ってきます”って歩き出すほうが、あとで泣きを見る」
「あなたが言うと、妙にそれらしく聞こえるのが嫌ですね」
卜伝が言う。
新九郎はからから笑った。
「実際、俺は一度泣きを見てるからな」
「何をしたんです」
「若い時に、いや今も若いが、まあ今よりもう少し阿呆だった頃だ。腹減るだろうと思って干し飯だけ持って出たら、水がなくて死にかけた」
「阿呆ですね」
「だろ?」
「自分で言うんですね」
「言うさ。そういう失敗は言っといたほうが後の役に立つ」
こういうところは妙に素直だ。
卜伝は歩きながら、新九郎の背に下がった荷を横目で見た。昨夜は雑に見えた支度も、こうして改めて見ればよくまとまっている。縄、小さな包み、刃物、火打ち、干し飯、水袋。必要なものを、無理なく背負える形に収めている。
「それで、今朝酒を飲んだのですか」
卜伝が言うと、
「ちょっとだけだ」
「ちょっとの基準が信用できません」
「景気づけって言ったろ」
「景気づけで済ませる顔をしていません」
「おいおい、お前ほんとに見てるとこ細けえな」
新九郎は肩をすくめる。
だが小夜がすぐに追い打ちをかけた。
「卜伝は細かいんじゃなくて、あなたが雑なの」
「それも違うな。俺は雑そうに見えて、生きることには細かい」
「自分で言うの?」
「言う」
「すごい自信」
「生き残ってるやつは、たいていそこに自信があるもんだ」
その言葉に、卜伝は少しだけ耳を止めた。
生き残る。
今朝、師筋の老人に言われた言葉が頭をよぎる。勝つ剣と、生き残る剣。
新九郎は、おそらくそれを理屈ではなく体で知っている。だからこそ、雑に見えるのに必要なものを外さず、軽口を叩きながらも危ない線だけは踏み越えない。
卜伝はその横顔を見て、昨夜の戦いを思い出した。横合いから飛び込んできた時の迷いのなさ。押し込みの強さ。勢い任せに見せながら、相手の受けた先をちゃんと読んでいる太刀筋。
学んだ形は違っても、こういう男と道を共にするのは悪くないのかもしれぬ。
もっとも、それを口にすると調子に乗りそうなので黙っていた。
道は午前のうち、しばらく緩やかな起伏を見せながら続いた。鹿島の近辺は、どこか神宮を中心に空気が整っている。人家も道も、森の気配を背にしたまとまりがある。だが少し離れるだけで、途端に「どこへでも続いていく道」の顔になる。
行き交うのは、荷を引く者、行商、武家の使いらしい者、寺へ向かう僧、農具を担ぐ百姓。みなそれぞれの速さで歩き、それぞれの事情を背負っている。卜伝たちもその流れのひとつになった。
「街道って、もっと騒がしいものかと思っていました」
卜伝が言うと、小夜が答える。
「騒がしい時はもっと騒がしいわよ。市の立つ日とか、通る人数が重なる時とか。でも、静かな時ほどいろんなものが見えるの」
「いろんなもの?」
「誰が急いでるか、誰が嘘をついてるか、誰が道に慣れてるか、誰が怯えてるか」
「歩き方で分かるのか」
「全部じゃないけどね。少なくとも鹿島の中にいるよりは、人の違いがはっきり出る」
そう言う小夜は、実際によく周囲を見ていた。すれ違う人間の顔だけではなく、履き物の汚れ方、袖口のほつれ、荷の結び方まで目に入れているようだった。
「あなた、ちゃんと見てるのね」
卜伝が言う。
「失礼ね。何だと思ってたの」
「口が達者なだけかと」
「それは褒めてるの?」
「半分は」
「半分は嫌味ね」
「自覚はあります」
「本当に可愛げがない」
その言い方が、どこか昨夜までの鹿島の空気と繋がっていて、少しだけ胸が和らぐ。
旅は始まったばかりだ。だが、始まったばかりだからこそ、何でもないやり取りが妙に心へ残る。
昼頃、三人は街道脇の木陰で小休止を取った。
水を飲み、干し飯を口にし、足を休める。小夜は最初こそ平気な顔をしていたが、さすがに社家町の内を歩くのとは勝手が違うのか、腰を下ろした時にほんのわずか息を吐いた。
「疲れましたか」
卜伝が聞くと、
「疲れてない」
と即答する。
「顔に出ています」
「出てない」
「出ています」
「出てるとしても認めない」
「面倒ですね」
「あなたが言う?」
小夜はそう言いながらも、水袋を受け取る手は素直だった。
新九郎は少し離れたところで寝転び、草を噛みながら空を見ていた。
「お前ら、今からそんな調子で大丈夫か」
「あなたこそ、もう寝るんですか」
卜伝が言う。
「寝てねえよ。耳は起きてる」
「便利な言い訳ですね」
「便利じゃなくて本当だ。こういう時に目ぇ閉じとく癖をつけると、野宿が楽になる」
「野宿」
小夜が少しだけ顔をしかめた。
「まさか、今日からもう野宿する気?」
「するかもしれねえだろ。宿が取れりゃ宿だが、必ず取れると思うなよ」
「……」
「何だ、その顔」
「してないわよ」
「してるしてる。“そんなの聞いてない”って顔だ」
「聞いてないとは言ってない」
「じゃあ、“できれば聞きたくなかった”顔」
「細かいわね」
「さっき卜伝に言われたのがうつった」
小夜は何か言い返しかけたが、やめた。図星だったらしい。
卜伝はそのやり取りを見て、旅の現実がまたひとつ形を持つのを感じた。盗まれたものを追う。敵を探る。それは確かに目的だ。だが、そのためにはまず歩き、食い、寝る場所を考え、明日も動ける体を保たねばならない。
剣の話だけでは済まない。
旅とはそういうものなのだろう。
午後になると、道は少し荒れた。雨が降った後か、車輪の轍が深く残り、土が乾きかけて固まっている。歩きにくい。履き物の裏に土がまとわりつき、足運びに余計な力が要る。
それでも三人は進んだ。
途中、小夜が道脇の小さな社を見て足を止め、土地の話をした。
「このあたりは昔から水が暴れるの」
「水?」
卜伝が問う。
「雨の時期になると、流れが変わるのよ。だから小さな祠が多い。道中の無事を願うのもあるけど、土地を鎮める意味もある」
「神はどこにでもいるのですね」
「そういう言い方をすると、神職の家の娘としては“どこにでもいるというより、どこにもおられて、どこかに特に近い”と答えたいところだけど」
「面倒な答え方ですね」
「大事なところよ」
新九郎が吹き出した。
「お嬢さん、その言い方好きそうだな」
「何よ」
「いや、筋を通したい時の顔をしてる」
「失礼ね」
「でも嫌いじゃねえ」
小夜はじろりと睨んだが、新九郎は全然気にしていない。
そんなふうに、三人の歩調は少しずつ合い始めていた。
先を読むのは小夜。
道と生き残り方に慣れているのは新九郎。
刃の役目を果たすのは卜伝。
まだ粗い。まだ互いの間合いは分かりきっていない。だが、旅の最初の一日としては悪くなかった。
だからこそ、その日の夕暮れに辿り着いた小村の空気の悪さが、余計にはっきり見えた。
陽が傾くころ、三人は街道から少し入った場所にある小さな村へ寄った。水と、できれば宿を借りるためだった。村そのものは大きくない。田と畑に囲まれ、家の数も少なく、牛馬の声より人の気配のほうが小さいような土地だ。
だが、村へ足を踏み入れた途端、卜伝は妙な感じを覚えた。
静かすぎる。
夕刻の村なら、本来は一日の終わりの気配がある。薪の匂い、子どもの声、家畜の世話、鍋の音。そういうものがどこかから滲んでくるはずだ。だがこの村は、音が表へ出てこない。
家の戸が閉まるのが少し早い。
外を歩く者が、卜伝たちを見るとすぐ目を逸らす。
人の気配があるのに、人の匂いが前へ出てこない。
「……変ですね」
卜伝が小さく言う。
小夜もすぐ頷いた。
「ええ。怯えてる」
「分かるのか」
「分かるわよ。見て。子どもがいない」
言われて気づいた。夕刻の村にしては、子どもの影が見えぬ。家の中へ入れられているのかもしれない。それだけでも、何かが普通ではないと分かる。
新九郎はもう少し露骨だった。辺りをぐるりと見回し、舌打ちする。
「嫌な沈み方だな。これは面倒ごとの匂いがする」
「そういう言い方をすると、嬉しそうに聞こえます」
卜伝が言う。
「少しはな」
「否定しないんですね」
「しねえ。でも、こういう沈み方はろくでもないほうだ」
三人は村の外れに近い井戸のそばで、水を汲んでいた年配の女に声をかけた。女は最初、明らかに怯えた目をした。旅人を見て怯えるのではない。旅人と話しているところを誰かに見られることを恐れる目だ。
「水を少しいただけますか」
小夜がなるべく柔らかく言う。
「……あ、ああ」
女は頷くが、視線は落ち着かない。
「泊まれる家か、小さな宿でもあればと思うのですが」
「宿は……ないよ」
「では、どこか軒を借りられる場所だけでも」
「それは……」
言いよどむ。
卜伝はその横顔を見て、昨夜の小夜の言葉を思い出した。怯えている者は目だけでなく、息に出る。肩に出る。手の止まり方に出る。
女の手は、水桶の柄を強く握りすぎて白くなっていた。
「何かあるのですか」
卜伝が問うと、女はびくりと肩を揺らした。
「な、何も」
「何もない村の顔ではありません」
「おい」
新九郎が低くたしなめる。
「真正面から行きすぎだ」
卜伝はそこで自分の口が少し硬すぎたと気づいた。だがもう遅い。女はますます怯えてしまっている。
小夜がすぐ前へ出た。
「ごめんなさい。この人、悪気はないの。ただ、隠しごとが下手なだけで」
「褒めていませんね」
「今は黙って」
「……」
小夜は女に向き直り、声を落とした。
「わたしたち、争いを探して歩いてるわけじゃないの。けれど、この村の空気が普通じゃないことくらいは分かる。もし困りごとがあるなら、聞くだけでもできるかもしれない」
その言い方は卜伝には真似できないと思った。踏み込みすぎず、だが退きすぎもしない。相手が口を開けるだけの隙を残す話し方だ。
女はしばらく迷っていたが、やがて辺りを見回し、さらに声を低くした。
「……旅の人なら、関わらないほうがいい」
「何にです」
小夜が問う。
女は唇を震わせる。喉の奥で、何か言ってしまえば終わるというような恐れと、誰かに言わずにはいられない苦しさがせめぎ合っている顔だった。
「街道の向こうの林に、連中がいる」
「連中?」
新九郎の目が細くなる。
女はごくりと唾を呑みこんだ。
「野武士だよ」
「村を荒らすのですか」
卜伝が聞く。
女は首を横に振る。だが、その振り方は安心を意味していない。
「荒らすっていうより……見てるんだ。来る。帰る。また来る。物を持っていくこともある。米も、銭も」
「それだけ?」
小夜が静かに聞く。
女の顔が、そこで明らかに曇った。
沈黙がひとつ落ちる。
村のどこかで戸が閉まる音がした。まだ完全に夜ではない。なのに、その音は「外へ出るな」と言っているように聞こえた。
女はやがて、かすれた声で言った。
「逆らえば……娘が攫われる」
卜伝の中で、何かがすっと冷えた。
小夜の目も変わる。
新九郎は舌打ちした。今度は、さっきまでの面白がる気配が欠片もなかった。
「何人だ」
短く問う。
「分からない……でも、何人も。村の男衆だけじゃ、どうにもならない」
「役人や近くの地侍には?」
小夜が聞く。
「伝えようとした人もいたよ。でも、その前に知られて……」
女はそこまで言って、はっと口を押さえた。言いすぎたと思ったのだろう。だが、もう十分だった。
見張られている。
脅されている。
物だけでなく、人が狙われている。
旅の初日で、もう現実が立ちはだかった。
鹿島を出たばかりだというのに、道は一日で剣を抜かせる理由を用意してくる。
卜伝は女の怯えた目を見ながら、自分の手が自然と柄へ近づいているのを感じた。
勝つ剣では足りない。
ならば、ここで何をすべきか。
その答えを街道は、あまり間を置かずに求めてくるらしかった。




