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『剣聖・塚原卜伝 ――鹿島立ちの剣、戦国を渡る』  作者: 常陸之介寛浩 本能寺から始める信長との天下統一


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第四十九話 北の浜手へ――潮の向こうの古い社

小城下を離れた朝は、風の匂いが少しだけ変わっていた。


 同じ海沿いの道でも、土地が変われば風の顔も変わる。前の町の風には、人の匂いが混じっていた。魚市場、塩倉、酒、膳、灯、見栄、沈黙。そういうものが入り交じった、どこか濁りのある風だった。


 だが、北へ向かう今日の風は、もっと荒い。


 塩気は濃い。潮の匂いも強い。だがそれだけではない。岩に砕ける波の白さや、海藻の腐りかけた匂い、濡れた砂の冷たさまで、そのまま風になって頬へ当たってくる。人の都合より先に、海そのものが前へ出ている土地の風だった。


 卜伝は街道を歩きながら、その違いを黙って感じていた。


 道は決して広くない。海沿いの崖を避けるように曲がり、小さな浜へ降りる分かれ道をいくつも見送り、時には松林の陰を抜け、時には畑の脇を通る。土地は痩せている。豊かな平野のようなふくらみはない。風に削られ、塩に焼かれ、それでも人がしがみつくように家を建て、畑を耕し、舟を出している。


 半農半漁。


 そういう言葉が、卜伝の頭に浮かんだ。


 この先にあるのは、金の匂いの濃い港町ではない。もっと古く、もっと痩せていて、それゆえに“土地に染みついたもの”が重くなる場所なのだろう。


「景色、変わってきたわね」


 小夜が言った。


 今日は薄い灰青の着物に、旅で汚れても目立ちにくい帯を締めている。前の章の終わりから、小夜の顔つきも少し変わった気がしていた。ただ情報を拾うだけではない。その情報が、この先どんな意味を持つかまで先に考える顔になっている。


「ええ」

 卜伝が答える。

「前の町より、人の手が薄い」

「その代わり、土地の古さが前に出てる」

「古さ?」

 新九郎が聞いた。


 彼は今日も海に文句を言いながら歩いている。


「潮風は嫌いだ。岩場も嫌いだ。足元が悪い。景色は広すぎる。魚は臭い」

「本当にぶれないわね」

 小夜が呆れたように言う。

「嫌なもんは嫌なんだよ」

「でもついて来る」

「それとこれとは別だ」

「便利な理屈」

「便利なんだよ」

 新九郎は鼻を鳴らして、それから小夜の言葉へ戻るように言った。

「で、古さって何だ」

「前の小城下は、“新しい力が古い顔を欲しがってる町”だったでしょう」

 小夜が言う。

「ええ」

 卜伝が頷く。

「でもこの先は、もっとややこしい」

「どう違う」

「古い社とか、土地神とか、“最初からそこにあったもの”が、家の顔にしやすい土地なの」

「……」


 卜伝は、その意味をすぐには測り切れなかった。


 小夜は続ける。


「港町や小城下だと、外から持ち込んだ由緒でも通りやすい。箱、書、兵法書、そういうものを使って“この家にはこういう流れがあります”って飾れる」

「そうだな」

 新九郎が言う。

「でもこの先の浜手は違う。土地に古い社があり、昔からの旧家が細く残っていて、土地そのものに古さが染みついてる」

「つまり」

 卜伝が言った。

「土地に根づいた名がある」

「そう」

 小夜は頷く。

「だから、今度の敵はただ物を買うんじゃない。“土地に根づいた名”まで欲しがる」

「胸糞悪い話だな」

 新九郎が言う。

「ええ」

 小夜は答えた。

「でも、だからこそ厄介なのよ」


 道賢は少し前を、杖をつきながら歩いていたが、その会話に合わせるように言った。


「土地の名は強い」

「どういう意味だ」

 卜伝が問う。

「箱や書は運べる」

 道賢は答えた。

「だが、土地そのものの古さは運べぬ。だから人は、それに繋がっているように見せたがる」

「……」

「古社との縁」

「……」

「古い宮司家とのつながり」

「……」

「土地の神へ仕える家である、という顔」

「それも買うのか」

 新九郎が嫌そうに言う。


「買えるところだけ買う」

 道賢は言った。

「本当に根を張ることはできぬ。だが、根を張っているように見せることはできる」

「そのために、真壁の流れがある」

 卜伝が低く言う。


 道賢は振り返らずに頷いた。


「そういうことだ」


 卜伝は、そこで改めて真壁又十郎という男の厄介さを思った。


 箱を盗むだけではない。

 兵法書を流すだけでもない。

 それをどこの家の顔へ貼ればいちばん値がつくかを知っている。

 そして今度は、物ではなく、土地に根づいた名の断片まで欲しがる者たちのもとへ道をつけようとしている。


 それはもう、盗みの範囲を超えている。


 名の売買。


 第四章で見えてきたものが、この章ではさらに悪質な形を取り始めているのだと卜伝は感じた。


「卜伝」

 小夜が言う。

「何です」

「考えてる顔」

「またですか」

「また」

 小夜は即答した。

「今度は何を並べてるの」

「真壁の流れです」

「うん」

「前よりも、物そのものが薄くなってきた」

「ええ」

「箱や書を動かしているようで、その向こうにある“名”を売っている」

「その通り」

 小夜は言った。

「そして、この先ではたぶん、もっと露骨になる」

「……」

「物を持たぬまま、“名だけを結びつける”こともできるから」

「物を持たず?」

「ええ。たとえば」

 小夜は少しだけ前方を見る。

「古社と自分の家が、昔から深い縁で結ばれていたように語る」

「……」

「古い記録の一部分だけを使う」

「……」

「宮司家の衰えにつけ込む」

「……」

「そういうことも出来る」

 新九郎が顔をしかめた。

「もう盗みってより詐しだな」

「最初から半分はそうよ」

 小夜が言った。

「でも、そうね。ここまで来ると、ますますそう」


 道はやがて、ゆるやかな高みへ出た。


 松の背が低くなり、視界が開ける。そこから先の海は、前の町の穏やかな港とは違っていた。岩が多く、浜は細く、波は絶えず白く砕けている。舟が出られぬわけではない。だが豊かな湊というより、海と折り合いをつけて生きるための浜だ。


 そして、その浜を少し見下ろす位置に、小さな館が見えた。


 館、といっても大きくはない。城と呼ぶには足りぬ。だがただの屋敷よりは骨がある。板塀が巡り、見張りの立ちそうな角もあり、背後の高まりをうまく使っている。新しく手を入れた部分があるのだろう、屋根の一部はまだ色が若い。


 だが、卜伝の目を先に引いたのは、その館ではなかった。


 館のすぐ傍らに、古い社がある。


 木々に囲まれ、石段は低いが、周りの空気だけが少し違う。新しい板や塗りの気配ではなく、長く風と塩に耐えてきた木の色がある。屋根も壁も質素だが、そこにあること自体が重い、そういう古さだった。


「……あれか」

 新九郎が言う。

「ええ」

 小夜が頷いた。

「館と、古社」

「近いな」

 卜伝が言った。

「近すぎるくらい」

 小夜は答える。

「たぶん、そこがもう“話”になってる」

「どういうことだ」

「館の新しさと、社の古さ」

 小夜は言う。

「その二つが並んでるだけで、“この家は古い社と結びついた家だ”って顔を作りやすいの」

「……」

「そして本当に欲しいのは、その顔」

 道賢が静かに言った。


 卜伝は、館と社を見比べた。


 新しい力。

 古い名。

 その二つが、目に見えるほど近く置かれている。


 前の小城下では、宴で“由緒ある品”を見せようとしていた。だが今度は違う。もっと土地そのものに近い。ここでは、品だけではなく、社との縁、土地との結びつき、それ自体が買われようとしているのかもしれない。


 卜伝はそこで、第四章までの旅がさらに先へ伸びたのだと実感した。


 奪われたものを取り返す旅。

 流れを断つ旅。

 名を守る旅。


 そして今は、土地に根づく名まで守らねばならぬ旅へ、もう一歩進もうとしている。


「嫌な感じがするわね」

 小夜がぽつりと言った。

「ええ」

 卜伝も答えた。

「だが、行くしかない」

「そうね」

 小夜は小さく頷いた。

「今度は、どんな顔を欲しがってるのか、見に行きましょう」


 新九郎が肩を鳴らす。


「俺は海も社も嫌いだが」

「社まで嫌うの?」

 小夜が言う。

「いや、社そのものじゃなく、こういう“古そうなものを勝手に利用するやつ”が嫌いだ」

「それは同感」

「珍しく意見が合ったな」

「たまにはね」

「たまにじゃなく、わりと合ってるだろ」

「そういうことを自分で言うから減点なのよ」

「ひでえ」


 道賢は、そうしたやり取りを聞きながらも、ずっと館と社の位置関係を見ていた。


「継ぎ目があるな」

 ぼそりと言う。

「どこに」

 卜伝が問う。


「館と社のあいだだ」

 道賢は答えた。

「新しいものが古いものへ手を伸ばす時、必ず継ぎ目ができる」

「……」

「そこを見誤るな」

「はい」

 卜伝は頷いた。


 風が強くなった。


 浜の白波が遠くで砕け、その音がわずかに遅れてここまで届く。潮の向こうにあるものはまだ見えぬ。だが、見えぬものこそ、この先では追わねばならぬのだろう。


 北の浜手。

 古い社。

 小さな館。


 その組み合わせだけで、すでにこの章の火種は見えていた。

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