第四十八話 第四の風へ――名を守る旅のかたち
夜が明ける前の町は、不思議なくらい静かだった。
祝いの席が崩れたあとの騒ぎは、たしかにあったはずだ。脇門で荷が止まり、帳面の内側が晒され、御用商人の番頭が口を滑らせ、屋敷の内でも外でも“何かあった”ことはもう隠し切れなくなっている。それでも、夜明け前の町は何事もなかったような顔で眠っていた。
いや、眠っているふりをしているのかもしれぬ。
小城下というものは、こういう時ほど騒がない。騒げば本当にあったこととして残る。だから皆、朝になればいつもの顔へ戻ろうとする。だが戻ろうとするぶんだけ、綻びは深く残る。
卜伝たちは、町外れに近い古い漁師小屋の陰で、夜のうちに押さえた品と書付を改めて見ていた。
小夜が布を広げる。そこに並ぶのは、脇門で止めた長箱から取り戻した書、御用商人の倉から押さえた札、そして海前の蔵から続いてきた印の痕跡だ。箱そのものも一つある。飾りとして使われるはずだった由緒の顔は、今はこうして剥き出しのまま、朝前の湿った空気に触れていた。
「これで」
小夜が静かに言った。
「少なくとも、昨夜の宴は“何事もなく立った”とは言えない」
「ええ」
卜伝は頷いた。
「偽りの由緒は、そのまま座れなかった」
「品もいくつかは戻した」
新九郎が言う。
「箱ひとつ、書が一包、あと細物」
「十分よ」
小夜が言う。
「全部を取り返せたわけじゃない。でも、“この家の顔”として立つはずだったものは崩した」
「流れも乱れた」
道賢が続ける。
「御用商人の倉から屋敷へ入る筋は、しばらく動けまい。屋敷の側も、“知らぬ顔”をしたままでは済まぬ」
「それでも」
新九郎が鼻を鳴らす。
「真壁本人はまた届かなかったな」
誰もすぐには答えなかった。
その沈黙は、悔しさを隠すものではなかった。むしろ、皆が同じことを思っているからこその沈黙だった。
いた。
真壁はたしかにこの流れのどこかにいた。桐生がいて、梶原兵庫がいて、海前の蔵からこの小城下まで、流れの筋は見えていた。だが、最後の一歩だけがいつも届かない。
宿場でも。
河口でも。
海前の蔵でも。
そして昨夜の脇門でも。
届かぬ。
だがそれは、何も掴めていないということではない。むしろ逆だ。一歩届かぬということは、一歩手前までは来ているということだ。
卜伝は、長箱から出された書を手に取った。
外題は新しく貼られていた。だが剥がせば、元の紙の痕が残る。誰かがこの書を“古き兵法の伝書”として見せるために、わざわざ別の顔を与えたのだろう。そこに真壁の流れの悪質さがある。
物を盗むだけではない。
物へ、別の名を与える。
それが誰かの家の顔になるよう整える。
その流れの一部を、昨夜、自分たちはたしかに止めた。
「卜伝」
小夜が呼んだ。
顔を上げると、彼女は布の上に並べた書付の一枚を見ていた。
「これ」
指先で示す。
「昨夜、番頭が口を滑らせた北の浜手の家筋」
「……」
「それに、内陸へ折れる道の小城下」
「ええ」
卜伝が言う。
「別の手だ」
「そう」
小夜は頷いた。
「この町だけで終わる話じゃない。真壁の流れは、海沿いだけじゃなく内陸にも分かれてる」
「欲しがる家が、あちこちにいるってことか」
新九郎が問う。
「ええ」
小夜が答える。
「しかも、一つの大きな家が全部を握ってるわけじゃない」
「欲の寄り合いだな」
新九郎が吐き捨てるように言う。
「そう」
小夜は言った。
「まさにそれ」
卜伝は、その言葉を静かに受け止めた。
乱世の欲の寄り合い。
第四章を通して見えてきたのは、まさにそれだった。
由緒を欲しがる家。
家格を飾りたい新興武家。
名のある兵法の流れを自分の顔にしたい者たち。
そこへ御用商人が乗り、兵法者が道を整え、真壁が全体を束ねる。
だから真壁は、ただの盗人ではない。
だから追う意味がある。
あの男を止めれば、この寄り合いは少なくとも今の形では保てなくなる。
卜伝は、そこでようやく自分の中の言葉を口にした。
「私の剣は」
と、静かに言う。
三人が顔を向ける。
「もう、奪われたものを取り返すためだけの剣ではない」
小夜は黙って聞いている。
新九郎は腕を組んだまま、しかし茶化さない。
道賢だけが、少しだけ目を細めた。
「鹿島の兵法書や箱を取り戻したい気持ちは、今もある」
卜伝は続けた。
「だが今は、それだけでは足りない」
「……」
「真壁の流れが、誰かの家の顔を偽りで飾るなら」
「うん」
小夜が小さく言う。
「その顔になる前に止める」
「……」
「名を守るために、進む」
言葉にした瞬間、それがいまの自分にいちばん近いのだと分かった。
名を守る。
最初の頃の自分なら、そんな言い方はしなかっただろう。剣で勝つこと。追いつくこと。守ること。そこまでは分かっていた。だが第四章を越えた今は違う。
物に宿る名。
土地に積み上がった名。
兵法の流れとしての名。
それらが乱世の見栄のために買われ、貼り替えられ、飾られようとしている。
ならば、自分の剣はそれを止めるためにもあるのだ。
小夜が少し笑った。
「ようやく、ちゃんとそこまで言ったわね」
「前から思ってはいました」
「でも前は、まだどこかで“真壁を斬れれば”が先に立ってた」
「……ええ」
卜伝は素直に頷いた。
「今も、真壁を追う意味は変わらない」
「でも」
「真壁を斬ることが終わりじゃない」
卜伝は言った。
「真壁の流れを止めること」
「そう」
小夜の目が、少しだけ和らぐ。
「そのほうが、今のあなたには似合う」
新九郎が鼻を鳴らした。
「何か、急に立派なこと言い出したな」
「茶化さないで」
小夜が言う。
「茶化してねえよ。いや、少しは茶化してるけど」
「やっぱり」
「でも、本気でもある」
新九郎は卜伝のほうを見た。
「最初の頃より、だいぶ面倒くさい顔になった」
「褒めていますか」
卜伝が問う。
「半分はな」
「残り半分は?」
「放っとくと、一人でどこまでも追っていきそうで面倒だ」
「それは否定しにくいわね」
小夜が言う。
「否定しろよ」
「だって本当でしょう」
「お前も辛辣だな」
「前からよ」
道賢がそこで、いつもの胡散臭い笑みを浮かべた。
「第四の風だな」
「第四?」
新九郎が聞く。
「鹿島を出た時が一つ目」
道賢が指を一本立てる。
「川と河口で流れを知った時が二つ目」
「……」
「海前の蔵で、受け手側の構えを見たのが三つ目」
「……」
「そして今」
道賢は四本目の指を静かに立てた。
「名を守る旅のかたちが、ようやく見えた」
「旅のかたち、か」
卜伝が繰り返す。
「そうだ」
道賢は言った。
「最初は追跡だった。次は守りだった。次は流れを断つことだった。今は、それが何のためかに辿り着きつつある」
「……」
「お前さんは、もう“盗まれたものを追う若者”だけではない」
「そうかもしれません」
卜伝は答えた。
言い切れないのは、自分でまだ全部を掴み切ってはいないからだ。
だが少なくとも、前よりは分かっている。
剣を抜く理由が、前より重く、そして広くなっていることを。
朝の気配が、少しずつ空の底を薄くし始めていた。
町はこれから、何事もなかったように朝を迎えるだろう。屋敷は取り繕う。御用商人は言い訳を探す。昨夜の帳面を抱えた若い手代は、青い顔のまままた働くのかもしれない。番頭は別の家の名をどこまで売るかを考えるだろう。桐生はどこかでこちらを測り続け、梶原兵庫はきっとまた“気に食わん”と言う。
そして真壁又十郎は、また一歩先で流れを束ねる。
だが、昨夜の綻びは消えない。
偽りの由緒は人前へ立ち切れなかった。
流れは乱れた。
別の地名、別の家筋、別の欲も見えた。
つまり、次へ行くべき理由はもう十分すぎるほど揃っている。
「次は」
小夜が書付をたたみながら言った。
「北の浜手か、内陸へ折れる小城下か」
「両方だろうな」
新九郎が言う。
「嫌な話だが」
「ええ」
小夜は頷く。
「流れは一つじゃないもの」
「なら」
卜伝は言った。
「まずは、いま見えた筋から一番濃いほうを追う」
「どっちだ」
新九郎が聞く。
「海沿い」
道賢が答えた。
「まだ潮の匂いが濃い。真壁の流れも、そこが太い」
「同感です」
卜伝が言う。
「海沿いを先に追う」
「よし」
新九郎が立ち上がる。
「じゃあ、少し寝て、起きたらまた歩きだな」
「現実的ね」
小夜が言う。
「腹減って眠いままじゃ、名も何も守れねえだろ」
「それは正しい」
道賢が珍しく即答した。
「坊主がそういうこと言うと、本当に正しく聞こえるから腹立つな」
「正しいものは正しい」
「それが一番むかつく」
四人の間に、小さな笑いが落ちた。
重い話のあとに、それがあるのは悪くなかった。旅の座がまた少し深くなった気がした。
卜伝は、最後にもう一度、布に包まれた書と箱を見た。
名は、書にだけ宿るのではない。
箱にだけ宿るのでもない。
守ろうとして立つ者の背にも、きっと宿る。
そう思えた。
鹿島立ちの剣は、もうただ一人の敵を追うためだけのものではない。
乱世の中で、買われ、飾られ、偽られようとする名を守るための剣でもある。
その意味を胸に入れたまま、一行はまた次の風へ向かうのだろう。




