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『剣聖・塚原卜伝 ――鹿島立ちの剣、戦国を渡る』  作者: 常陸之介寛浩 本能寺から始める信長との天下統一


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第四十七話 崩れた顔、露わになる欲

 祝いの席というものは、ひとつ綻びが入ると、思ったより早く音を変える。


 脇門で長箱が止まり、帳面の内側の文字が晒され、受け手の男が手を止めた時、屋敷の表座敷まではまだ何も届いていないように見えた。灯は変わらず柔らかく、酒の匂いも、膳の出入りも続いている。正門から見れば、今夜はただのめでたい夜のままだっただろう。


 だが、裏はもう違った。


 脇門の内外にいる者たちの呼吸が変わっている。

 門番は前へ出る理由を失い、御用商人の番頭は言い訳を探し、受け手の男は“受け取らなかった顔”と“知っていた顔”のどちらを作るべきか迷っている。

 こうなると、人は一番先に自分の身の置き場を考える。


 卜伝はそれを、刀を半ば下げた位置から静かに見ていた。


 新九郎はまだ前に立っている。いつでも来るなら受けるという肩の開き方だ。小夜は帳面を持ったまま、一歩も退いていない。道賢は相変わらず、どこが起点でどこが逃げ道かを全部知っている顔で、脇門の柱にもたれていた。


 そして桐生は、少し離れた暗がりでこの場を見ていた。


 梶原兵庫だけが、なお怒りを収め切れぬ顔をしている。


「下げるだと?」

 梶原が低く唸る。

「ここで引けば、真壁様の顔に泥だぞ」

「だからこそだ」

 脇門の内から出てきた年嵩の男が言う。

「これ以上、表へ音を漏らすな」

「……」

「いま必要なのは、勝ち負けではない」

「なら何だ」

「今夜を“何事もなかったように終わらせる”ことだ」


 その言葉は、ひどくこの場らしかった。


 真実を通すのではない。

 何事もなかった顔を通したいのだ。

 それが、この小城下で“顔”を守る者たちの理なのだろう。


 小夜が、そこで帳面を少しだけ高く持ち上げた。


「残念だけど」

 その声は静かだった。

「もう“何事もなかった”では済まないわ」

 年嵩の男の目が、初めて小夜へ向く。

「娘」

「この帳面に、“古書”じゃなく“御披露目用”って書いてある」

「……」

「脇門から、祝いの席へだけ通す荷。しかも御用商人の倉を通したあと。これでまだ“普通の祝いの品”の顔ができると思う?」

「帳面の写しだけで何が分かる」

 男は冷たく言った。

「写しじゃないわ」

 小夜は即答した。

「現物よ」

「……」

「それに」

 小夜はそこで少し笑った。

「門の外にも中にも、見ていた人間はいる」


 その言い方で、門番の顔が変わった。


 自分もまた“見ていた者”のひとりに数えられたのだと気づいたのだろう。こうなると、人はもう完全に黙ってはいられない。黙れば黙るほど、自分がその嘘の一部だったように見えるからだ。


 新九郎がぼそりと言う。


「崩れてきたな」

「ええ」

 卜伝も答えた。


 城下で沈黙していた者たちが、いざ自分の身へ火が移りそうになると、口の形を変え始める。その変わり目は、剣の勝負で相手の足が一度だけ止まる瞬間に似ていた。そこへ何を入れるかで、流れ全体が変わる。


 脇門の内から、今度は別の男が出てきた。


 こちらは年嵩ではない。若くもない。御用商人の主筋か、家の中で外との折衝を担う者だろう。顔は整っている。だが額の汗だけが、今夜の“何事もなかった”が崩れ始めていることを告げていた。


「話が違う」

 その男はまず、御用商人の番頭へ向かって言った。

「ただの古書だと聞いていた」

「い、いや」

 番頭は口ごもる。

「それは」

「“御披露目用”とは何だ」

「そ、それは」

「答えろ」

 声が少しだけ強くなる。


 番頭は完全に困った顔をした。


 こういう男たちは、普段なら口がうまい。だがそれは、場が整っている時だけだ。帳面が押さえられ、荷が止まり、外の者に見られた今は、言葉の順序を作れない。


「私は」

 番頭が言った。

「ただ、言われた通りに整えただけで」

「誰に」

 小夜が鋭く聞く。


 番頭はそれで初めて、自分がどちらへ向かって喋るべきか分からなくなったようだった。屋敷側へ言えば商人筋を売ることになる。こちらへ言えば屋敷側を怒らせる。どちらに転んでも安全ではない。


 そして、こういう板挟みの瞬間にこそ、本音が滲む。


「……上からだ」

 番頭が苦し紛れに言う。

「上?」

「う、上役と……それに」

「それに?」

 小夜が一歩寄る。

「別の家からも、急がせる声があった」


 そこだった。


 卜伝はそのひと言に、場の空気がもう一段変わるのを感じた。


 別の家。


 この屋敷だけではない。

 御用商人だけでもない。

 他にも、この流れが今夜きれいに通ることを望んでいた手がある。


「どこの家だ」

 年嵩の男が番頭を睨む。

「なぜそこを黙っていた」

「だ、黙っていたのでは」

「同じことだ」

「いえ、違う、私はただ……」

「ただ何だ」

「私だけではない!」


 番頭の声がついに上ずった。


 その瞬間、脇門の内外にいる全員の目が番頭へ集まる。もう止まらぬ、と卜伝は思った。沈黙を守っていた者が、“自分だけが悪いわけではない”と口にした時、話は必ず広がる。


「私は、ただ言われた通り筋を通しただけだ」

 番頭は言う。

「御用の印をもらい、書を整え、祝いの席へ見せる形にしただけで……」

「誰に言われた」

 小夜が重ねる。

「名は!」

「名までは……」

「知っているでしょう」

 小夜の声はもう冷えていた。

「知らないふりをしても、その顔じゃ無理よ」


 番頭は唇を噛んだ。


 そこで道賢が、ふと口を挟んだ。


「別の家、と言ったな」

 その静かな声で、皆の注意が少しだけそちらへずれる。

「……」

「この町の中だけか?」

「……」

「それとも、もっと先か」


 番頭の目が動く。


 その動きだけで、半分は答えだった。


「もっと先、か」

 卜伝が低く言う。


 番頭はそこで、ついに観念したように肩を落とした。


「……海沿いの北のほうにも」

「家があるのね」

 小夜が言う。

「いくつか」

 番頭が答える。

「ここだけではない。由緒ある品を欲しがる家は……」

「いくつもある」

 卜伝が言った。

「……ああ」

 番頭は絞り出すように頷いた。

「この家だけではない。別の家も、別の商い筋も、兵法の名を欲しがる」

「兵法の名まで」

 新九郎が嫌そうに言う。

「何でも欲しがるんだな」

「欲しがるのよ」

 小夜が言った。

「家の格に使えるものなら、何でも」


 それを聞いていた屋敷側の男の顔が、次第に変わっていく。


 怒りだ。

 だがこちらへの怒りだけではない。

 “自分たちだけが特別ではなかった”ことへの怒り。

 あるいは、“同じようなことを別の家もしていた”と知ってしまった怒り。


 由緒や名というものは、独り占めしたいからこそ値打ちがある。皆が同じように買っていると知れれば、その顔は一気に安っぽくなる。


「……誰だ」

 年嵩の男が番頭へ低く言う。

「どこの家だ」

「それは……」

「言え」

「ここで私が言えば」

「言わねば、お前だけが死ぬぞ」

 その言い方は冷たく、そして正確だった。


 番頭は、もうどちらへ転んでも助からぬ顔になっていた。


 卜伝はその様子を見ながら、胸の中で静かに何かが定まっていくのを感じた。


 真壁の背後は一つではない。

 複数の武家。複数の商人。複数の兵法者。

 それぞれが別々の欲を持ち、たまたま今は同じ流れに乗っているだけだ。


 乱世の“欲の寄り合い”。


 そう呼ぶのがいちばん近いのかもしれなかった。


 番頭はついに、いくつかの名を漏らした。


 はっきりした家名ではない。

 だが、土地の呼び方。屋号。使いの紋。

 それだけで、小夜と道賢には十分らしかった。


「北の浜手」

 小夜が小さく繰り返す。

「それに、内陸へ折れる道の途中の小城下」

「やはり、海だけではないか」

 道賢が言う。

「……」

「流れは、さらに先へ伸びておるな」


 新九郎が肩を鳴らす。


「面倒が増えた」

「前からでしょう」

 小夜が言う。

「でも、これではっきりした」

「何が」

「真壁の流れが、この町だけの話じゃないってこと」

「ええ」

 卜伝が言った。

「そして、欲しがる側も一つではない」


 桐生は、そのやり取りのあいだ一度も口を挟まなかった。


 ただ見ている。

 こちらが何を掴み、どこまで理解し、どういう顔になるかを。


 梶原兵庫は相変わらず不満そうだったが、さすがに今はもう押し込めぬと分かっている顔だった。祝いの席の裏で、ここまで話がこじれてしまえば、もう力ずくで箱だけを通しても意味がない。偽りの由緒は、いまこの場で十分に傷ついたのだ。


 やがて、屋敷の内から別の者が出てきて、脇門を閉めるよう命じた。


 今夜の“披露”は、これ以上は無理なのだろう。


 それを見て、新九郎がようやく小さく息を吐いた。


「崩れたな」

「ええ」

 小夜が答える。

「顔がね」

「祝いの席のほうは?」

 新九郎が問う。

「どうにか取り繕うでしょう」

 小夜は言った。

「でも、“何かあった”ことまでは消せない」

「十分だ」

 卜伝は言った。


 十分だった。


 偽りの由緒がそのまま人前へ座ることは防いだ。

 品の一部も押さえた。

 そして何より、沈黙の中に隠れていた“欲しがる側の顔”が少しだけ露わになった。


 卜伝は、そこでようやく刀を静かに収めた。


 今夜の勝ちは、誰か一人を斬り倒した勝ちではない。

 もっと厄介なもの――沈黙と見栄と欲の結び目へ、刃を入れた勝ちだ。


 だが、それで終わりではないことも分かっている。


 番頭が漏らした北の浜手。

 内陸へ折れる小城下。

 別の家。別の紋。別の欲。


 流れはまだ、その先へ続いている。


 卜伝は夜の海風を受けながら思った。


 真壁を追う道は、もう一本道ではない。

 けれど、だからこそ真壁を追う意味がある。

 あの男は、その複数の欲を束ねる要なのだから。

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