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『剣聖・塚原卜伝 ――鹿島立ちの剣、戦国を渡る』  作者: 常陸之介寛浩 本能寺から始める信長との天下統一


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第四十二話 偽りの由緒、飾られる兵法書

夕暮れは、嘘にとって都合がいい。


 昼の光の下では、どれほど上手く整えたつもりでも綻びは出る。削った跡、貼り替えた紙、手入れの新しさ、持つ者の目の泳ぎ。そういうものは、明るいところでは案外よく見える。だが陽が傾き、灯が入る頃になると違う。見えるものが半分になり、見えぬものを人は勝手に補い始める。


 由緒もまた、そうやって飾られるのだろうと卜伝は思った。


 御用商人の倉を見張っていた帰り道、空はすでに赤みを失いかけていた。海の向こうから冷えた風が入り、町の屋根の上を流れていく。表通りでは祝いの席へ向けた支度が進み、酒樽が運ばれ、魚が捌かれ、門前の掃き清めが繰り返されている。だが、目立つ場所が賑やかになるほど、目立たぬ場所の荷は静かになる。


 それは、この町が“見せる顔”と“見せぬ顔”をはっきり分けているからだ。


 宿へ戻ると、小夜はすぐに障子を閉め切った。


「今から話すこと、もう一段重いわ」

 そう言って、彼女は部屋の真ん中へ座り直した。言葉より先に、顔がもうそう言っていた。


 新九郎は壁へ背を預けたまま、いつもより少しだけ真面目な目になる。道賢は相変わらず胡散臭く座っていたが、湯呑みを置いた手は止まっていた。卜伝も自然に膝を正す。


「何が分かった」

 卜伝が問う。


 小夜は少し息を整えてから言った。


「今夜、披露される“とっておき”の品の中に、古い兵法の伝書があるらしい」

 その言葉で、部屋の空気が静かに変わった。


 新九郎が眉をひそめる。


「兵法書?」

「ええ」

 小夜は頷いた。

「ただ古い書ってだけじゃない。“名のある流れに連なる兵法の伝書”として見せるつもり」

「……」

「つまり、書そのものを見せたいんじゃない」

「そう」

 小夜は卜伝のほうを見た。

「“この家には、こういう兵法の格がある”って顔を立てたいの」


 卜伝はすぐには言葉が出なかった。


 これまで真壁の流れの中で見てきたもの――箱、由緒書、拵えを替えられた刀――それらはどれも、“家の顔”を飾るためのものとして並べればまだ理解できた。だが兵法書となると話が違う。


 兵法は、ただ古いだけでは価値にならぬ。

 そこには流れがある。誰から誰へ伝わったか。どの家とどの土地に結びついているか。

 つまり、名を飾るだけでなく、力の正統まで飾れるのだ。


「それはまずいな」

 道賢が低く言った。


 新九郎が振り返る。


「箱や書付と何が違う」

「違う」

 小夜が即座に答えた。

「全然違う」

「そこまでか」

「ええ」

 小夜の声は静かだったが、怒りがにじんでいた。

「古箱なら飾りで済む。由緒書なら家の見栄で済む。けど兵法書は違う。それを持っているだけで、“この家は、ただの成り上がりではなく、名のある武の流れに連なる家だ”って顔が立つ」

「……」

「剣を知らない者には、それで十分な威だわ」

「知ってる者にも厄介だな」

 道賢が言う。

「ええ」

 小夜は頷いた。

「“本当にそうなのか”より、“そう見せられるか”のほうが先に立つから」


 新九郎が鼻を鳴らした。


「胸糞悪い」

「今日は何度目かしら」

 小夜が言う。

「数えてねえよ」

「数えるだけ無駄ね」

「でも毎回ほんとにそう思ってるぞ、俺は」

「分かってる」


 卜伝は、そこでようやく口を開いた。


「その兵法書」

「うん」

「本物なのか」

 小夜は少しだけ息を止めたように見えた。


「そこがいちばん嫌なところ」

「……」

「たぶん、本物かどうかは半分でしかない」

「どういう意味だ」

 新九郎が問う。


「本物ならなおいい」

 小夜は言った。

「でも、偽物でも“本物らしく見せられる”なら、席の上ではそれで足りる」

「そんなものか」

「そういうものよ」

「……」

「外題を替える。箱を替える。誰それの伝来だと話をつける。そこへ御用商人と、この家の見栄が乗る。そうすれば、半分以上はもう疑わない」

「半分以上どころじゃあるまい」

 道賢がぼそりと言う。

「祝いの席で、しかも見たいものを見に来ておる者どもだ。疑わぬ理由のほうが多い」

「そうね」

 小夜が言った。

「疑わないほうが、自分にも都合がいい人たちばかりでしょうし」


 その言葉に、卜伝は静かな怒りがまた沈んでいくのを感じた。


 真壁又十郎。


 あの男は、いったいどこまで見えているのか。


 ただ盗んでいるのではない。

 ただ流しているのでもない。

 どう見せれば、どう語れば、どういう者たちが喜んで受け取るかまで知っている。


 兵法書を欲しがる家。

 その家へ由緒をつけて納める御用商人。

 その場を整える兵法者。

 すべてが一つの流れの上に乗っている。


「真壁の仕事は」

 卜伝が低く言った。

「品を盗んで売ることじゃない」

「ええ」

 小夜が頷く。

「“どう見せれば権威になるか”まで整えてる」

「嫌な野郎だな、本当に」

 新九郎が言う。

「嫌なだけで済むなら楽なんだけどな」

 道賢が返した。

「済まねえからこうしてるんだろうが」

「その通りだ」


 少しの沈黙のあと、小夜が話を戻した。


「女中筋から聞けたのは、ここまで」

「十分だ」

 卜伝が言う。

「いえ、まだ足りない」

 小夜は首を振る。

「何が」

「その兵法書が、どういう由緒として見せられるのか」

「……」

「そこが分かれば、崩し方ももっとはっきりする」


 新九郎が腕を組む。


「荷を止めるだけじゃ足りねえってことか」

「たぶんね」

 小夜は答える。

「品を運ぶことだけ止めても、“今日は具合が悪い”“改めて披露する”で済まされるかもしれない」

「だが」

 卜伝が言った。

「もし、兵法書そのものが“偽りの由緒”として座るなら」

「うん」

「品だけでなく、その話の筋も崩す必要がある」

 小夜の目が少しだけ細くなる。


「どういうこと?」

 新九郎が問う。


 卜伝は言葉を選んでから答えた。


「それがどの道を通ってきたか」

「……」

「どういう札で隠されたか」

「……」

「誰の手を経て、どの倉へ入り、どの顔で今夜の席へ出ようとしているか」

「……」

「そこまで押さえれば、“古き兵法の伝書”としては立ちにくくなる」

「つまり」

 小夜が静かに言う。

「“由緒ある品”ではなく、“裏から運び込まれた怪しい荷”に変える」

「そうです」

 卜伝は頷いた。


 新九郎が、そこでようやく得心したように言った。


「分かった」

「何が」

 小夜が見る。


「ただ盗られた物を取り返すんじゃなく」

「うん」

「こっちは、あいつらが人前で“きれいな顔”するのを止めなきゃいけねえんだろ」

 小夜は少し驚いたように新九郎を見て、それから小さく笑った。


「珍しく、いいところを言う」

「珍しくは余計だ」

「でもその通り」

「よし」

「何がよ」

「今のは褒められた」

「半分だけね」

「何でだよ!」


 そのやり取りのあとで、道賢が立ち上がった。


「確認してこよう」

「どこを」

 卜伝が問う。


「倉から屋敷までの道だ」

 道賢は答えた。

「脇門と、その先の内蔵口。もし兵法書が本命なら、途中でいったん人の手から手へ移る場所があるはず」

「継ぎ目か」

「そうだ」

「頼みます」

 卜伝が言うと、道賢は胡散臭い笑みを浮かべた。

「言われずとも」


 坊主が出ていったあと、小夜も動いた。


「私はもう一度、女中筋を当たる」

「危ない」

 卜伝が言う。

「危ないわよ」

 小夜はあっさり返す。

「でも今夜を逃したら、次はもっと固くなる」

「……」

「大丈夫。表へは出ない。厨房の方から入るだけ」

「それは“大丈夫”のうちに入るのか」

「入るの」

「入らねえだろ」

 新九郎が言う。

「あなたは黙って」

「はいはい」


 そうして、日がさらに傾く。


 空の青が薄まり、町の灯が一つずつ入る頃、一行はまたそれぞれの位置へ散っていた。


 卜伝は御用商人の倉の少し離れたところから、荷の動きを見ていた。前話で見た長箱は、まだ倉の奥にある。だが今は別の小荷が表へ出てきている。酒樽。茶器。添え物。正門へ向かう祝いの顔だ。


 その中に、本命は混じっていない。


 それが分かるくらいには、卜伝の目ももう育っていた。


 やがて小夜が戻ってきた。息は乱れていないが、目つきは鋭い。


「搬入経路、絞れた」

「どこだ」

 卜伝が問う。


「屋敷の南の脇門」

 小夜は答えた。

「正門は客の顔。脇門は品の顔。女中の話でも、“今夜は南が騒がしい”って」

「南か」

「ええ」

「時間は」

「宴が始まって、客の目が正面へ向いてから」

「……」

「つまり、いちばん人が“見えているつもりで見えていない”時」


 新九郎も合流してきて、倉の中を顎でしゃくった。


「さっき、あの長箱が一度だけ外へ出された」

「どこへ」

「すぐ戻した。たぶん担ぎ手の確認だ」

「……」

「でもその時、箱の下に打ってある印が見えた」

「海前の蔵の?」

 小夜が問う。

「同じ系統だ」

 新九郎が言う。

「つまり間違いなく、あいつだ」

「兵法書か」

 卜伝が低く言う。


 小夜はゆっくり頷いた。


「たぶん」

「なら今夜」

 卜伝は言った。

「止めるべきは、あの長箱だ」

「ええ」

 小夜が答える。

「でも“奪う”だけじゃ足りない」

「分かっています」

「偽りの由緒として立つ前に、その座を崩す」

「はい」

「なら」

 小夜は卜伝を見た。

「あなた、今夜は本当に焦らないで」

「……」

「そこ、黙ると不安になる」

「考えています」

「何を」

「真壁がいたら、どうするか」

 小夜は一瞬黙った。


 それは当然の問いだった。


 真壁本人がこの場へ現れる可能性は、十分ある。むしろ、こういう“最後の仕上げ”の場には顔を出すかもしれない。そうなれば、卜伝がそちらへ目を奪われるのは自然だ。


 だが、それではまた流れが逃げる。


 小夜は静かに言った。


「真壁を追うのは、流れを止めてから」

「……」

「今夜、先に断つべきは喉」

「分かっています」

「本当に?」

「前よりは」

「その“前よりは”が怖いのよ」

「だが」

 卜伝は言った。

「忘れません」

 小夜はその顔を見て、ようやく小さく頷いた。


「ならいい」

「よし」

 新九郎が肩を鳴らす。

「今夜は、長箱が脇門へ向かう時だな」

「ええ」

 小夜が言う。

「そこが、この家の偽りの由緒が人前へ出る直前の継ぎ目」

「だったら」

 卜伝は倉を見つめた。

「そこを断つ」


 夕暮れの風が、長箱の札を小さく揺らした。


 嘘の札の下で、兵法の名が飾られようとしている。

 それを通させぬための夜が、もうすぐ始まる。

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