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戦国異聞伝『塚原卜伝 ――鹿島立ちの剣、戦国を渡る』  作者: 常陸之介寛浩㊗️オリコン週間ランキング9位㊗️


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第四話 同行人は口が達者な娘

 旅に出ると決まった時、人はもっと大仰な顔をするものだと卜伝は思っていた。


 腹を括るとか、空を見上げるとか、故郷の土を踏みしめるとか、そういうものだ。少なくとも、もう少し静かで重みのある始まりになるものと思っていた。


 だが現実は違った。


「だから、何度言わせるの。わたしも行くわ」

「駄目です」

「駄目じゃない」

「危ない」

「危ないから行くの」

「理屈が通っていません」

「通ってるわよ。あなた一人では足りないものを、わたしが持ってるって話でしょう」


 朝から、卜伝はもう三度同じやり取りをしていた。


 場所は鹿島の社家町から少し外れた、卜伝の家の庭先である。日が高くなる前のやわらかな光が土の上に落ち、風が森の匂いを運んでくる。いつもなら静かで落ち着くはずのその場所が、今日はまるで落ち着かない。


 原因はもちろん、目の前で一歩も引かない小夜だった。


 彼女は腕を組み、最初に「わたしも行く」と言った時から、寸分たりとも意思を曲げていない。声音も目つきも、今朝と変わらぬ強さを保ったままだ。言いくるめられるつもりが最初からない顔をしている。


 卜伝は眉間を押さえたくなった。


「足りないものがあるのは認めます」

「よろしい」

「ですが、それと同行は別です」

「どこが」

「危険です」

「またそこに戻るの?」

「戻ります。そこが一番大事だからです」

「なら答えも同じよ。危険だと分かっているからこそ、何も知らない人がふらふら行くより、事情を知ってるわたしが行くほうがいい」


 正しいような、正しくないような理屈だった。だが、小夜が口にすると何となく押し切られそうになるのが厄介だ。


 卜伝は深く息を吐いた。


「あなたは剣を振れません」

「振れない」

「走り続ける旅にも慣れていない」

「たぶんあなたも慣れてないでしょう」

「……」

「ね?」

「今は私の話をしています」

「だからしてるじゃない。あなた一人では無理だって」


 言い返せないところを選んで刺してくる。そこがまた口惜しい。


 実際、卜伝とて旅慣れているわけではない。鹿島の外へ出ること自体は珍しくもないが、どこまでも足を伸ばして盗まれたものと賊を追うような旅は初めてだ。宿の取り方、情報の拾い方、どの家にどう顔を繋ぐか――そういうことまで含めて考えれば、小夜の言うことには理がある。


 理があるから困るのだ。


「卜伝」


 小夜は、少しだけ声音を落とした。


「これは、あなた一人の話じゃないの」

「……」

「盗まれたのは鹿島に関わるもの。社家筋に関わるものでもあるわ。なら、わたしが知らない顔をして家にいるほうがおかしいでしょう」

「だとしても」

「だとしても、何?」

「――」


 卜伝はそこで口を閉じた。


 本当のところを言えば、理屈だけではない。


 危ないから、というのも本音だ。だがそれだけではない。自分が外へ出ると決めた時は、どこかで「自分の未熟は自分で拾う」という思いが先に立っていた。昨夜守れなかったもの、逃した敵、自分の足りなさ。そういうものを背負って歩くのは、自分一人であるべきだと、どこかで勝手に決めていたのだ。


 そこへ小夜が当然のように並ぼうとする。そのことに戸惑っている自分がいる。


 だが、その戸惑いを上手く言葉にはできない。


「何よ、その顔」

 小夜が少しだけ目を細めた。

「困っている顔です」

「見れば分かるわ」

「なら、それでいいでしょう」

「よくないわよ。困るだけ困って、結局ひとりで行こうとしてる顔だもの」


 ぴたりと言い当てられて、卜伝はますます返す言葉を失った。


 そこへ、庭先の塀の向こうから、やけにのんきな声が飛び込んできた。


「おう、朝から揉めてるなあ!」


 次いで、塀の向こうから人の頭がひょいと覗く。


 犬塚新九郎だった。


 昨日の夜と変わらず、やたらと生命力の強そうな顔をしている。地侍の次男坊らしい荒っぽさがありながら、不思議と陰気がない。肩の力が抜けていて、それでいて立ち姿には野良犬じみた警戒心も残っている。雑に見えて、妙なところで隙がない男だ。


 しかも今日は、まるで最初から自分の家の庭へ来るつもりだったような顔で、遠慮なく門から入ってきた。


「勝手に入らないでください」

 卜伝が言う。

「挨拶はしたぞ」

「塀の向こうから頭を出して?」

「ちゃんと顔も見せた。親切だろ」

「どこがです」

「そこはいいじゃねえか。それより、話は聞こえたぞ。旅に出るんだって?」


 小夜がすぐにじろりと見る。


「聞こえたって、立ち聞きしてたの?」

「聞こえるように揉めてただろ」

「揉めてないわ」

「揉めてたろ」

「議論よ」

「同じだ同じ」


 新九郎はけろりとして笑い、そのまま庭の真ん中あたりまで来ると、まるで前からそこが自分の場所だったみたいに腰へ手を当てた。


「で、どこまで決まった?」

「あなたに話す義理はありません」

 卜伝が言う。

「固えなあ。昨夜は一緒に刃交えて命拾いした仲じゃねえか」

「その言い方は好きではありません」

「じゃあ何だ。戦友か?」

「大げさです」

「いいじゃねえか、ちょっと格好いいぞ」


 この男は、どうしてこうも軽いのだろう。


 卜伝は本気で不思議になった。昨夜あれだけの斬り合いをして、今日にはもうこの調子である。緊張感がないわけではないのだろうが、重く抱え込まぬ術を知っているようにも見える。


 小夜は逆に、その軽さを少し利用するような目になった。


「ちょうどいいところに来たわ」

「おう?」

「この頑固者を説得して」

「何を?」

「わたしが同行すること」

「お、面白そうだな」

「面白そうで決めないでください」

 卜伝はすかさず言った。


 だが新九郎はもう面白がる気満々で、腕を組んで卜伝を見た。


「何で反対してる」

「危険だからです」

「それはそうだ」

「でしょう」

「でも危険じゃねえ旅なんて、そもそも追っ手の旅じゃねえだろ」

「……」

「それに、お嬢さんの言うことも分かる。お前、剣は振れても、誰に何を聞けばいいかとか、どの家がどこと繋がってるとか、そのへんは弱い顔してる」

「弱い顔とは何です」

「知らねえ顔だよ」


 また図星だった。


 卜伝は新九郎を睨みかけたが、この男は睨まれてもあまり怯まない。それどころか、むしろ面白そうに片眉を上げるだけだ。


「お前、鹿島の中なら強いだろうよ」

 新九郎が続ける。

「でも外じゃ、強いだけじゃ済まねえこともある。昨夜でも分かったろ」

「……分かっています」

「なら、お嬢さんがついてったほうがいい。足手まといになるかどうかは、実際に見てから決めりゃいい」

「人を荷物みたいに言わないで」

 小夜が刺す。

「悪い悪い。じゃあ、足手まとい候補」

「余計悪いわよ!」


 小夜が怒ると、新九郎は面白そうに笑った。


 卜伝はふたりのやり取りを見て、少しだけ頭が痛くなった。小夜ひとりでも十分に押しが強いのに、そこへ新九郎まで加わると、会話が勝手に前へ転がっていく。


「ちょっと待ってください」

 卜伝は片手を上げた。

「そもそも、なぜあなたまで話に入ってくるのです」

「入っちゃ悪いか?」

「悪いです」

「何で」

「関わりが薄い」

「昨夜一緒に斬り合った」

「それを何度も言わないでください」

「じゃあ、関わりは濃いじゃねえか」


 言葉が軽いのに、筋は通っているのが腹立たしい。


 新九郎はそこで、妙にあっさりした顔で言った。


「それに俺も行く」

「は?」

 卜伝は思わず聞き返した。

「だから、俺も加わる」

「何を勝手に」

「面白そうだし」

「それは理由になりません」

「なるだろ」

「なりません」

「他にもあるぞ。夜のあいつら、どう見てもただの盗人じゃなかった。ああいう連中を放っておくと、後で地侍のところにも面倒が回ってくる」

「……」

「それにお前ひとりと、お嬢さんひとりじゃ危なっかしい。俺がいれば少なくとも道中で斬る役は増える」


 最後のそれは、たしかに現実的だった。


 卜伝ひとりでも剣の役は足りる、と言いたいところだが、昨夜のことを思えば口が重くなる。複数相手。守るべきものがある状況。目の前だけ見ていては足りぬということは、もう嫌というほど思い知らされた。


 そこへ新九郎のような、雑ではあるが実戦慣れした男が加わるのは、たしかに悪くない。


 悪くないのだが。


「……なぜ、そう都合よく話が進むのです」

 卜伝は半ば本音で言った。

 小夜が即座に返す。

「都合よくじゃないわ。必要だから進んでるの」

 新九郎もうなずく。

「おう」

「そこで息を合わせないでください」


 ふたりは顔を見合わせ、まったく悪びれずに肩をすくめた。


 この時点で、卜伝はだいぶ不利だった。


 自分が理で押し返せぬところを、ふたりともちゃんと突いてくる。感情で無理を通そうとしているのではなく、それぞれに理屈がある。だからこそ余計に、ただ「嫌です」で押し切れない。


 しばらく黙り込んだ卜伝を見て、小夜が少しだけ柔らかい声になった。


「卜伝」

「……何です」

「あなたがひとりで背負いたい気持ちは分かるわ」

「別に」

「顔に出てる」

「出ていません」

「出てるの」

「そういうことにしたいだけでしょう」

「そういうことにしたいんじゃなくて、そう見えるの」


 小夜は腕をほどき、まっすぐ卜伝を見た。


「でも、これはあなた一人が恥をすすぐための旅じゃないでしょう」

「……」

「鹿島のものが盗まれたの。相手が何を狙っているか知る必要がある。なら、ひとりで意地を張る場面じゃないわ」


 意地。


 そう言われると、胸の奥が少しちくりとした。


 たしかに自分は、昨夜の悔しさを抱えたまま外へ出ようとしている。奪われたものを追うのも本気だ。相手の狙いを知りたいのも本気だ。だがその奥には、自分の未熟を誰にも見せずに拾いたいという気持ちが混じっている。


 それを意地と呼ばれると、完全には否定できなかった。


 新九郎がそこで、わざとらしく大きく頷いた。


「おう、意地だな」

「あなたは黙っていてください」

「何でだ。今いいこと言っただろ」

「今のは小夜殿です」

「じゃあ相槌の功績で」

「いりません」


 新九郎は笑い、小夜は少しだけ口元を緩めた。


 その空気のゆるみが、卜伝には妙に悔しかった。どうしてこう、自分だけが真面目に詰めているような気分になるのだろう。


 だがその悔しさも、少し時間が経つと別の形になる。


 ひとりで行けぬわけではない。


 だが、ひとりで行くのが最善とも言えない。


 そして何より、自分にはまだ外の理が足りない。剣だけで片づく旅ではないなら、その足りなさを埋めるものを最初から捨てるのは愚かだ。


「……分かりました」

 卜伝はようやく言った。


 小夜の目が細くなる。


「本当に?」

「条件があります」

「何?」

「無茶をしないこと」

「あなたが言う?」

「私は剣の届くところに立つ役目です」

「それ、無茶をする人の台詞よ」

「聞いてください」

「はいはい」


 素直に聞いていない返事だ。だが、一応聞く姿勢は見せている。


 卜伝は新九郎のほうを見る。


「あなたもです」

「俺?」

「勝手に先走らないこと」

「うーん」

「うーん、ではなく」

「努力はする」

「信用しづらい」

「ひでえな。昨夜命助けた相手に」

「助けられたのは事実です」

「じゃあもっと丁重に」

「丁重に言います。勝手に先走らないでください」

「丁重だなあ」


 新九郎はそう言いながらも、どこか楽しそうだった。


 こうして見ると、この男は人の重苦しさを少しだけ軽くする才能があるのかもしれない。もちろん、それが苛立ちの種にもなるのだが。


 話がまとまると、次に始まったのは現実的な支度だった。


 旅に出ると決めれば、当然ながら刀だけ持って歩けば済むわけではない。着替え、足袋、包み、金、道中で必要になる細々したもの、どこで何日泊まるか分からぬ旅ならなおさらだ。


 卜伝は自分の荷をまとめながら、その手つきの不慣れさに少し腹が立った。必要なものを選んでいるつもりでも、本当にそれで足りるのか分からない。多すぎても歩きづらい。少なすぎれば道中で困る。その塩梅がまだ身についていない。


 小夜は小夜で、家の者に説明を通し、必要な品を選び、社家筋に残す言葉や、旅先で頼るかもしれない相手の名を整理していた。その手際のよさに、卜伝は内心で感心したが、口には出さなかった。


 新九郎はというと、「旅なんて足があって刀があれば何とかなる」と最初は言っていたくせに、いざとなると干し飯だの塩だの、道具だの縄だのを妙に手際よく揃え始めた。


「何とかなる、ではなかったのですか」

 卜伝が言うと、

「何とかするために揃えるんだろ」

 と平然としていた。


 雑に見える男ほど、案外こういうところで抜かりがないのかもしれない。


 支度の合間、卜伝はふと鹿島の空を見上げた。


 見慣れた空だった。社の森の上に広がる青。海のほうから流れてくる雲。風の匂い。道の曲がり。鳥居の朱。何もかも、自分の中に馴染みすぎるほど馴染んでいる。


 ここを出る。


 そのことが、荷をまとめる指先より遅れて胸に落ちてきた。


 昨夜の悔しさに押されて決めた。外へ出る必要があるとも理解した。だが、理解と実感は違う。鹿島の外へ向けて歩き出すということは、自分が今まで立っていた地面から、一度身を剥がすということだ。


 見慣れた土地に背を向ける。


 戻ってくる時、今と同じままでいられるかは分からない。


 その重さを、ようやく旅支度の最中に知る。


 夕方、師筋の老人が顔を出した時、卜伝はちょうど刀の手入れを終えたところだった。


「顔が少し変わったな」

 老人が言う。

「そうでしょうか」

「少なくとも、今朝ほど尖ってはおらぬ」

「尖っていたつもりは」

「ないから言うとる」


 老人は相変わらず容赦がない。


 だがその目は、朝より幾分やわらかかった。卜伝が一人で突っ走るだけではなく、現実を見て支度を進めていることを認めているのかもしれない。


「同行人は決まったか」

「はい」

「口が達者な娘と、雑だが妙に生き残りそうな若造か」

「ずいぶんな言いようですね」

「外れておらぬだろう」

「……」

「その顔を見ると、外れておらぬらしいな」


 卜伝は返答を諦めた。


 老人はそこで、少しだけ真面目な顔になる。


「旅はお前を削る」

「はい」

「だが同時に、削られた先に何が残るかを見せる」

「……」

「剣だけを頼りにするな。剣を捨てろと言っておるのではない。剣に何を足すかを、道で知れ」

「はい」

「そして、生きて戻れ」

「戻ります」


 卜伝は即答した。


 その返事に、老人はふっと鼻を鳴らす。


「戻るつもりで出る者だけが、戻ってこられるわけでもないがな」

「縁起でもないことを」

「縁起を担いで勝てる相手なら苦労はせぬ」


 それでも、最後に老人は卜伝の肩へ一度だけ手を置いた。重くもなく、軽くもない。その一瞬の重みが、言葉より深く残る。


 夜が来る前に、支度はほぼ整った。


 発つのは明朝と決まった。


 その夜、卜伝は前の晩より少しだけ眠れた。悔しさが消えたわけではない。だが、行き先のない焦りではなく、明日へ向けて研がれた焦りに変わっていたからかもしれない。


 そして朝。


 鹿島の空気は、やはり音より先に気配で明けた。


 森を揺らす風。海から来る湿り気。社の木々の匂い。見慣れた朝だ。だが、その朝を今日は「発つ朝」として見ている自分がいる。


 卜伝が門の外へ出ると、小夜はすでに来ていた。旅向きの身軽な格好になっているが、どこかきちんとした雰囲気は消えない。社家筋の娘らしい芯が、その立ち方に残っている。


「遅い」

 開口一番そう言う。

「まだ約束の刻ではありません」

「待つ側は長く感じるの」

「理不尽です」

「旅に出る前から理不尽に慣れておきなさい」

「どういう理屈ですか」

「わたし理屈じゃなくて今の気分で言ったわ」

「なお悪い」


 そこへ新九郎が、背に荷を引っかけたまま大股でやって来る。


「おう、そろってるな」

「あなたが最後です」

 卜伝が言う。

「違うぞ。俺は景気づけに一杯飲んでから来た」

「本当に最後じゃないですか!」

「安心しろ、酔ってねえ」

「安心できません」

 小夜も呆れた顔になる。

「朝から何してるのよ」

「景気づけだって言ったろ」

「景気づけで済む話?」

「済む済む。外は面倒が多いんだ、少しくらい勢いが要る」


 ひどい話だが、この男に関しては妙に説得力があるのがまた腹立たしい。


 三人がようやく並ぶ。


 鹿島を出る道は、見慣れているはずなのに、今日は少し違って見えた。社の森が背にあり、前には道が続く。右を見れば海の気配。左には田や人家。ここから先へ踏み出せば、もう昨日までと同じ場所には立てない。


 卜伝はひとつ息を入れた。


「行きましょう」

「ええ」

 小夜が答える。

「おう」

 新九郎も言う。


 三人が最初の一歩を踏み出した、その時だった。


 卜伝はふと、遠くの木立の向こうに人の気配を感じた。


 振り向く。


 道から少し外れた場所、朝の薄い光と木々の影が重なるあたりに、一人の若侍が立っていた。


 まだ距離がある。顔立ちまではっきり見えるほどではない。だが、立ち方が妙に静かだった。ただ通りすがりにこちらを見たのではなく、最初から見ていた者の立ち方だ。


 衣の色は落ち着いている。派手ではない。だが、旅人とも百姓とも違う。腰のものの差し方にも、どこか武家の匂いがある。


「どうしたの」

 小夜が卜伝の視線を追う。


 その瞬間、若侍はすっと木陰へ半歩下がった。


 消えたわけではない。だが顔を見せる気はない、という引き方だった。


「誰かいるの?」

 小夜が低く問う。

「いた」

「知ってる顔?」

「知らない」


 新九郎も気づいたらしく、目を細める。


「ありゃ、見送りにしちゃ愛想がねえな」

「追いますか」

 卜伝が言う。

 だが新九郎は首を振った。

「今ここで追えば、向こうの思うつぼかもしれねえ」

「……」

「顔を見せたってことは、見られて困らねえか、あるいは見せることに意味があるかのどっちかだ」


 雑に見えて、こういう時だけ妙に勘が働く。


 卜伝は木立のほうを見つめた。若侍の姿はもう、朝の影に溶けて見えない。だが確かにいた。そしてこちらを見ていた。


 昨日までの鹿島立ちではない。


 踏み出す前から、こちらの動きを知る目がある。


 その事実だけで、道の温度が少し変わった気がした。


 卜伝は柄へ手を添えたが、抜きはしなかった。


「行きましょう」

 もう一度、今度は先ほどより低い声で言う。


 小夜と新九郎も、それ以上は問い返さない。


 三人は鹿島を背に、道へ出た。


 朝風が吹く。


 見知らぬ若侍の視線だけを背中に残して、鹿島立ちの旅は静かに始まった。

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