第三十九話 由緒を欲しがる家
小城下というものは、声の高さより、声の低さに本音が出る。
大きな城下なら、人は人に紛れる。港町なら、喧騒が沈黙を隠してくれる。だが、この町は違う。道は広すぎず、人の顔は見えすぎる。だから皆、大きな声では余計なことを言わない。その代わり、ふとした低いひと言や、言葉の切れ目や、目を逸らす一瞬に、その土地の腹の内が滲む。
小夜は、その“低い声”を拾うのが上手かった。
この日も朝から別れ、一行はそれぞれの持ち場へ散っていた。新九郎は港寄りの荷役場と魚場の男たちの輪へ。道賢は関所と城下の境を行ったり来たりしながら、通る者の顔と荷を見ている。卜伝は、昨日見かけた印付きの小荷駄の筋を追うつもりでいたが、昼前に小夜が「先に聞いてほしい話がある」と言ってきた。
場所は町外れに近い、小さな社の裏だった。
大きな神社ではない。旅人がついでに手を合わせる程度の小さな社で、木の皮もはがれ、賽銭箱も色が落ちている。だが、こういう土地にはこういう場所が却って都合がいい。人目がないわけではないが、長居する者も少ない。
小夜は先に来ていて、社の脇の石に腰を掛けていた。
風に吹かれて髪が少し乱れている。だが表情は妙に冴えていた。何か、町の奥にあるものへ指をかけた時の顔だ。
「何があった」
卜伝が問う。
小夜はすぐには答えず、まず周囲へ一度だけ目を走らせた。それから、やや低い声で言った。
「この町、やっぱり“欲しがってる”わ」
「何を」
「由緒よ」
小夜ははっきり言った。
卜伝は、その言葉の重さをすぐには測り切れなかった。
「由緒」
「ええ。前の町で見えていたのは、由緒ある品を受け取る流れだったでしょう」
「はい」
「でもこの町では、もっと露骨に“家そのものが由緒を欲しがってる”」
「……」
卜伝は小夜の顔を見た。
こういう時の小夜は、話を急がない。相手がどこまで分かっていて、どこから順に言葉を置けば一番深く届くかを知っている。卜伝はそれを黙って待った。
「今朝、社の宮司筋の年寄りと話したの」
小夜が言う。
「この町の外れに住んでる、もう半分隠居みたいな人」
「口は軽かったのか」
「軽くはない」
小夜は首を振った。
「でも、“嘘が嫌いな顔”をしてた」
「それで?」
「近ごろ、この土地じゃ“由緒書”とか“古い系図”とか、“どこそこの伝来”みたいな話を欲しがる家が増えてるって」
「家」
「ええ」
「商人ではなく?」
「商人も噛んでる。でも欲しがってるのは、家。特に新しく力をつけた家や、もともと中くらいだったのに、この乱世で一段上へ出たい家」
そこまで聞いて、卜伝は少しだけ分かった気がした。
庄蔵が言っていた。
由緒ある品が欲しいのは、骨董趣味だけではない。
“家の顔”を作るためだと。
小夜は、その先をさらに言葉にした。
「乱世って、力さえあればいいように見えるでしょう」
「……」
「でも、力だけで人は長く従わないの」
「そういうものか」
卜伝が問う。
小夜は頷く。
「力で従わせることはできる。でも、家を大きくしたいなら“顔”がいる」
「顔」
「この家は古い」
「……」
「この家には由緒がある」
「……」
「この家は、名のある流れを継いでいる」
「……」
「そういう“語れるもの”があると、人はそこに意味を見出すの。戦だけじゃない。縁組でも、主従でも、商いでも、見え方が変わる」
卜伝は、その言葉を頭の中で何度か並べ替えた。
剣で勝つこと。
城を守ること。
兵を持つこと。
それだけでは足りない。
それを“どういう家が持っているか”という顔まで要る。
そういうものか、と卜伝は思った。自分は鹿島で育ち、剣の理を学び、人を見て、間を知り、強いか弱いかで相手を測ることに慣れてきた。だが世は、剣の腕だけでは回らぬ。顔も、語りも、由緒も、また力なのだ。
「宮司筋の年寄りは」
小夜が続けた。
「露骨には言わなかった。でも、“近ごろは金よりも先に、古い名を欲しがる者がいる”って」
「金より先に」
卜伝が繰り返す。
「ええ。金はあとからついてくる。兵もあとからついてくる。でも、“この家は元からそれなりの家だった”って顔は、金だけじゃ作りにくい」
「だから買うのか」
「そう」
小夜は言った。
「由緒書や古箱や、古い兵法書や、そういうものを」
「……」
「本物ならなおいい。偽物でも、それらしく見せられるなら構わない」
「胸糞悪いな」
いつの間にか来ていた新九郎が、背後から言った。
小夜は振り向きもせずに返す。
「でしょうね」
「お前ら、難しい話してんな」
「盗みの先の話よ」
「分かってるよ」
新九郎は社の柱へもたれた。
「で、その“由緒欲しがり”は誰だ」
「名はまだはっきりしない」
小夜が言う。
「でも、増えてるらしい」
「一人じゃねえのか」
「ええ。一人じゃない」
「……」
「そして、それを商いにしてる者がいる」
「真壁か」
新九郎が言う。
小夜は少しだけ目を伏せ、それから答えた。
「真壁“だけ”じゃない。でも真壁は、その流れの要にいる」
「要」
卜伝が低く言う。
「ええ。欲しがる家は複数ある。御用商人も複数いる。流す道もいくつかある。でも、それがちゃんと“届く形”になってるなら、どこかでまとめてる者がいるでしょう」
「真壁だな」
新九郎が吐き捨てるように言う。
「たぶん」
小夜は頷く。
「少なくとも、あの男は“欲しがる側の顔”をよく知ってる」
「だから、箱や書をそのままじゃなく、由緒ごと売ってる」
卜伝が言う。
小夜は、その言葉に少しだけ目を細めた。
「そういうこと」
「……」
卜伝は、胸の中で静かな怒りがまた沈んでいくのを感じていた。
鹿島の兵法書や箱が奪われた時は、まず“盗られた”と思った。
だが今は違う。
あれらはただ失われたのではない。
誰かが、自分の家の顔にするために欲しがっている。
それは、ただの盗みよりずっと悪質だった。
力を得るために人を斬る。城を奪う。金を集める。そういう露骨な欲なら、まだ正面から見える。だが、古い名や由緒まで欲しがるとなれば、それは自分の身の丈を越えた顔を、他人の積み上げたものから買うということだ。
卜伝には、それがひどく卑しく思えた。
「剣で立てた家なら」
卜伝がぽつりと言った。
「剣で立てたまま背負えばいい」
「そう思うでしょう」
小夜が言う。
「私もそう思う」
「なら」
「でも、そうは思わない人間が多いのよ」
小夜の声は静かだった。
「剣で立てた顔を、書や箱や由緒で塗り固めたいの」
「……」
「そうすれば、自分たちの力が“最初から正しかった”みたいに見せられるから」
新九郎が鼻を鳴らした。
「結局、見栄か」
「見栄よ」
小夜は言った。
「でも、乱世の見栄は人を殺す」
「分かる」
新九郎が言う。
「そういう見栄のためなら、荷も人も黙らせるだろうな」
「ええ」
そこで道賢が、社の裏からゆっくり現れた。
最初からそこにいたのか、途中から来たのか、よく分からない現れ方だった。いつものことだが、この坊主は時々本当に気味が悪い。
「聞いておったか」
新九郎が言う。
「半分はな」
道賢が平然と返す。
「便利な言葉だなおい」
「便利なものは使う」
「本当に腹立つ坊主だ」
道賢は社の古びた柱を見上げ、それから四人のほうへ向き直った。
「名を欲しがる家、か」
「ええ」
小夜が言う。
「増えてるそうよ」
「だろうな」
道賢はあっさり言った。
「乱世では、昨日まで何者でもなかった者が、明日には城持ちになることもある」
「……」
「そういう時、一番足りぬのは金でも兵でもない。昔からそこにいた顔だ」
「だから買う」
卜伝が言う。
「そうだ」
道賢は頷く。
「そして、そういうものは金だけでは手に入らぬ。本物らしく見せ、納得させ、欲しがる者へ渡す者がいる」
「真壁」
「あるいは真壁の流れだ」
道賢は言った。
「お前さんらが今追っておるのは、盗人の背だけではない。乱世で“名を買う”者たちの欲そのものだ」
その言葉で、卜伝の中で何かがさらに定まった気がした。
敵の輪郭が、前よりはっきりする。
真壁を追う意味がまた一段重くなる。
すると小夜が、少しだけ声を落として言った。
「それと、もう一つ」
「何だ」
新九郎が問う。
「その年寄りが言ってたの」
小夜は答える。
「近々、この土地のある家で、小さな祝いの席があるらしいって」
「祝い?」
卜伝が問う。
「ええ。表向きはただの宴」
「ただの、ね」
新九郎が鼻を鳴らす。
「でも?」
「でも、その場で“由緒ある品”が人前に出されるかもしれない」
「……」
「つまり」
道賢が低く言った。
「買った名を、披露する場になるやもしれぬな」
「ええ」
小夜は頷いた。
社の周りを風が抜けた。
古びた鈴が小さく鳴る。
その音を聞きながら、卜伝は静かに思った。
ここから先は、盗まれたものを追うだけではない。
“誰がそれを自分の顔として飾ろうとしているのか”を見なければならない。
そして、それが人前へ出るなら、その瞬間は大きな継ぎ目になる。
小夜は、そういう継ぎ目を見つけるのが本当に上手い。剣を持たぬくせに、戦の始まる場所をよく知っている。卜伝は、そう思うと少しだけ小夜の横顔を見た。
小夜は気づいたらしく、すぐにこちらを見返した。
「何」
「いえ」
「何か言いたい顔」
「あなたは、よく見ています」
「知ってる」
小夜は平然と言った。
「今さら?」
「……今さらです」
「でしょうね」
新九郎が吹き出す。
「お前ら、最近そのやり取り好きだな」
「好きでしてるわけじゃない」
小夜が言う。
「見えてることを言ってるだけ」
「十分好きそうに見えるが」
「黙って」
「はいはい」
道賢はそのやり取りを見ながら、少しだけ笑ったようだった。
だが次の言葉は真面目だった。
「では、その宴までに」
「ええ」
小夜が頷く。
「どこから品が入るのか」
「誰が見せたがっているのか」
卜伝が続けた。
「そこを押さえる」
「そうだな」
道賢が言う。
海沿いの風は、町へ戻る頃には少し冷たくなっていた。
由緒を欲しがる家。
名を飾るための宴。
真壁の流れは、もうただの裏取引ではない。
人前へ出て、顔になるところまで来ている。
卜伝は歩きながら、自分の中の怒りが少し変わってきているのを感じていた。
熱いだけではない。
冷たく、深く、理屈を持ち始めている。
それは剣にとって、悪い変化ではないはずだった。




