第三十四話 潮騒の刃、流れの喉を断て
海前の蔵は、近くで見ると遠目よりさらに厄介な顔をしていた。
正面から見れば、海辺の商い蔵にすぎない。塩や干魚や荒物でも置いていそうな、どこにでもありそうな板壁と土壁のつくりだ。だが脇へ回れば、海へ落ちるような小さな入り江があり、そこへ細い桟橋が伸びている。大きな海船をそのまま着ける場所ではない。だが沖に待たせた船へ、小舟で荷を渡すにはちょうどいい。しかも町の表筋からは死角が多く、海風と潮騒が人の声を削っていく。
まさに、最後の積み替えをするための場所だった。
一行は、蔵を見渡せる岩混じりの低い斜面に身を伏せていた。草は短く、ところどころ塩を含んだ白い砂がのぞく。海はまだ真昼の青を残しているが、陽が傾くにつれてその色も少しずつ鈍くなる。沖には帆影が二つ。漁の船か、それとも待っている船か、遠目にはまだ判じきれぬ。
「数は」
卜伝が低く問う。
小夜は蔵の前と、脇の入り江と、海側の桟橋を交互に見ながら答えた。
「表に人足ふうが五人。あれは半分くらいは本職じゃない」
「同感だ」
新九郎が言う。
「肩が荷役じゃねえ」
「番頭ふうが二人」
小夜が続ける。
「それと蔵の戸口に一人、いかにも“帳面を見てます”って顔の手代」
「武家の使いは?」
卜伝が問う。
「まだ見えない」
「見えなくてもいるだろうな」
道賢がぼそりと言う。
「こういう場は、顔を見せる時刻まで決まっておる」
卜伝は蔵の周りをもう一度見た。
正面の広さは限られている。蔵前の空地、脇の細い通路、入り江へ下る板敷き。戦場として見れば広くはないが、河口とは違う厄介さがある。こちらは海の風が強いぶん、声や足音が散る。逆に言えば、合図も乱れやすい。しかも海船へ渡る小舟が出てしまえば、流れはそのまま沖へ逃げる。
止めるなら、積み替えの一瞬だ。
荷が蔵から出る時。
札と帳面が最後に噛み合う時。
そして、小舟へ渡る前。
「来るわ」
小夜が言った。
町側の道から、小荷駄が二つ入ってくる。前に人足ふうが三人、後ろに番頭、さらに少し離れて武家の小者が二人。荷は大きくない。だが数がある。木箱、細長い包み、布で巻かれた平たい荷。それぞれが、“ただの商い荷”に見えるよう整えられているのが逆に不自然だった。
「やっぱり最後にまとめる気だな」
新九郎が低く言う。
卜伝は頷く。
辰之助の帳面、庄蔵の話、離れ蔵で見た受け渡し。全部がここへ繋がっている。名を剥がされた品は、この海前の蔵で海へ出る最後の顔になるのだ。
「動くなら、どこだ」
新九郎が聞く。
「札」
小夜が即答した。
「最後の帳面合わせと荷札の整理が絶対ある」
「それは蔵の中か」
「たぶん戸口の近く。中だけで全部やると、海へ渡す時に手間が増える」
「小夜」
卜伝が言う。
「そこを頼めるか」
「もちろん」
小夜は目を細めた。
「今度こそ、最後の名を消させない」
道賢は海側を見ていた。
「沖の帆影、片方は漁ではない」
「分かるの?」
新九郎が聞く。
「止まり方が違う」
道賢が答える。
「待っておる」
「海船か」
卜伝が問う。
「おそらくな」
「なら小舟が動く」
「うむ。私が海側の喉を押さえる」
「一艘止めれば足りるか」
「足りるように乱す」
胡散臭いが、頼もしい答えだった。
新九郎は肩を回しながら、もう半歩前へ出る顔をしている。
「じゃあ俺は正面だな」
「正面の護衛を受け止めて」
小夜が言う。
「ただし前へ出すぎないで。蔵から離れたら意味がない」
「分かってる。今日は“目立って暴れる”だけじゃねえんだろ」
「そう」
「なら、ちゃんと蔵前で食う」
卜伝は、そのやり取りを聞きながら、刀の柄へ手を置いた。
第三章に入ってから、何度も剣を抜けぬ場があった。抜けばこちらが賊になる場。怒りだけで前へ出れば、相手の理に落ちる場。だからこそ見てきた。だからこそ今、ここは抜くべき場所だと分かる。
海へ出る前の最後の喉。
ここを断てば、真壁の流れは確かに一つ止まる。
「行くぞ」
卜伝が言った。
最初に動いたのは小夜だった。
蔵の脇、帳面持ちの手代が荷札を見ながら控えを合わせている位置へ、風に紛れるように近づく。女の足でここまで音を消せるのかと、初めて見た者なら驚いただろう。だが小夜は、こういう場では自分の役目をよく分かっていた。剣はなくとも、継ぎ目へ指を入れるのは早い。
次に新九郎が正面から出た。
「おう! 今日はえらく丁寧な荷運びだな!」
相変わらず声が大きい。
だが今度の大きさは、河口の時よりも計算されていた。正面の人足ふうの男たちが一斉にそちらを見る。怒鳴り返す者がいる。番頭が眉をしかめる。蔵前の目が、新九郎へ集まる。
その一瞬に、小夜が手代の手元へ滑り込んだ。
「っ!」
手代が気づくより先に、小夜は帳面を抱え込み、札を二つ引きちぎる。
「何だこの娘!」
「その札じゃ海へ出せないわよ」
小夜は言い捨て、さらに別の荷の結び目を外した。
「これで、どの荷がどの名か分からなくなる」
手代が取り返そうと腕を伸ばす。その腕を卜伝が払った。
ここだ。
卜伝は蔵前へ踏み込み、刃を抜く。だが最初の一太刀は、敵を斬るためではない。手代と小夜の間へ入る“道”を切るための一太刀だ。木箱の前へ飛び込もうとする人足崩れの足元を制し、相手の動きを半歩止める。
「通すな!」
卜伝が叫ぶ。
「分かってる!」
新九郎が吠え返す。
正面では、護衛役の浪人崩れが新九郎へ二人、三人とかかる。新九郎はそれを真正面から受けた。受けて、押し返す。河口の湿地とも離れ蔵の前とも違い、ここは乾いた地面と板敷きが混じる。足場はまだマシだ。そのぶん新九郎の荒さが活きる。
「おらっ!」
最初の一人の刃を弾き飛ばし、肩でぶつかり、二人目の胸を蹴る。三人目が横から入る。だが新九郎はそこで下がらない。半歩前へ出て、あえて三人を狭い位置へ押し込む。蔵前の空き場を広く使わせぬためだ。雑に見えて、ちゃんと“蔵へ近づけぬ位置”を選んでいる。
卜伝はその正面の奮戦を視界の端で捉えながら、蔵前の荷へ意識を集中した。
今は敵を倒すことではない。
最後の積み替えを止めること。
札と帳面を崩し、荷が“海へ出る顔”になれぬようにすること。
そこへ、低い声が落ちた。
「やはり来たか」
桐生だった。
蔵の横手、海へ下る細い板道の脇に立っている。最初からそこにいたのか、それとも乱れの中で出てきたのか分からぬほど自然に場へ溶けている。だが、その刃だけは最初から卜伝へ向いていた。
「ここまで来ると思っていた」
「なら止めに来たか」
卜伝が言う。
「当然だ」
桐生は静かに抜いた。
梶原兵庫のような露骨な殺気はない。だが、そのぶん厄介だ。相手の崩れを待ち、自分は必要以上に前へ出ない。測る兵法。こちらの呼吸を見て、どこで刃を差し込めば一番効くかを探る剣。
卜伝は一歩踏み出し、今度は迷わず正面から入った。
桐生の剣は、最初の合わせが薄い。だが薄いまま、こちらの刃筋へ絡みついてくる。受けたつもりが、いつの間にか間合いをずらされている。以前の自分なら、そのずれに苛立って深く入っただろう。だが今は違う。
桐生が測るなら、こちらは“止める位置”を先に決める。
蔵へ向かう板道。
海へ下る喉。
ここを桐生に通させぬ。
卜伝は桐生そのものを倒しに行くのではなく、桐生が入りたい線を潰しながら刃を返した。相手の手元より、足の置き場。肩の向きより、板道への角度。桐生のような相手に対し、初めて“人ではなく流れを止めるつもりで”剣を振るう。
桐生の目がわずかに動いた。
「……なるほど」
低く言う。
「前より、ようやく場を見る」
「お前のおかげではない」
「そうだろうな」
言いながらも、桐生の剣は緩まない。測る兵法は、相手が成長してもなおその成長を測る。こちらが流れを止めようとしていることを、すぐに理解している顔だ。
その時、蔵の奥から別の怒声が響いた。
「取り返せ!」
梶原兵庫だ。
案の定、いた。
梶原は蔵の戸口から出てくるなり、まず小夜へ向かった。札と帳面を崩している者が誰か、あの男には一目で分かったのだろう。押し潰す兵法の持ち主らしく、考えより先に前へ出る。
「娘ァ!」
吠える。
「そこをどけ!」
だがその前へ新九郎が割って入る。
「残念、そっちは俺だ!」
梶原の重い一撃を、新九郎は真正面から受けた。木が鳴るような音。だが新九郎は下がらない。梶原の剣は押し潰す。ならば真正面から押し返すのが、この男には一番合う。
「おらあっ!」
新九郎は肘と肩で梶原を押し込み、蔵前の戸口から半歩ずらした。小夜はその隙に、帳面の控えと札を抱えて脇へ退く。さらに、箱のひとつをわざと倒した。中身が何かまでは見えない。だが、倒れた箱の金具には削り跡があった。やはりここも、名を剥がされた品の最後の寄り場なのだ。
「全部読めなくしてやる!」
小夜が叫ぶ。
海側では、ついに小舟が動き出していた。
沖の帆影へ向かうための舟だ。だが、そこで綱が一気に引かれる。道賢だ。いつの間にか桟橋の下へ回り込んでいたらしい。小舟の艫綱が別の杭へ絡み、海風に煽られて舟体が横を向く。
「何だ!?」
「綱が!」
「切れ、切れ!」
小舟の男たちが怒鳴る。
完全には止まらぬ。だが一艘が乱れれば、その後ろもつかえる。海へ渡る流れが、そこで一気に痩せる。
「今だ、卜伝!」
小夜の声が飛ぶ。
卜伝は桐生と鍔迫り合いに近い位置で刃を押し合っていた。だがその声で、自分が今どこを見るべきかがさらに研ぎ澄まされる。
真壁を探すのではない。
桐生を倒すことでもない。
この場で海へ抜ける流れを断つこと。
卜伝は刃を外し、桐生の力をわざと前へ落とした。桐生がわずかに前へ出る。その半歩のあいだに、卜伝は横へ入り、板道の入り口へ立つ。桐生と小舟のあいだだ。
「そこか」
桐生が言う。
「そうだ」
卜伝は答えた。
「今は、お前を越えればいい」
「私を倒すのではなく?」
「海へ出る道を断つ」
桐生の口元が、少しだけ動いた。
笑ったのだろう。
「やっと、そこまで来たか」
その直後、卜伝の刃が桐生の袖を裂いた。深くはない。だが十分だ。桐生はその一太刀で、卜伝が本当に“人を倒しに来ていない”ことを知ったはずだ。こちらはあくまで流れを断つために立っている。桐生のような相手には、それが何より厄介なのだろう。
正面では新九郎と梶原が土埃と木片を散らしながら押し合い、側面では小夜が札を崩し、海側では道賢が小舟を止める。
全員の役割が、噛み合っていた。
これまでの旅で、ようやくここまで来たのだと卜伝は感じた。
誰か一人が強いだけではない。
それぞれが違う場所で、同じ流れを断とうとしている。
「退け!」
蔵の中から、ついに別の声が飛んだ。
「この場は捨てる!」
番頭ふうの男だ。判断は早い。止められたと見れば、全部を守らず切り捨てる。真壁の流れらしい退き方だった。
梶原が舌打ちする。
「ちっ……!」
新九郎が吠える。
「逃がすか!」
「追うな!」
卜伝が即座に言った。
自分でも驚くほど迷いなく出た声だった。
以前なら、ここで真壁本人の影を追っていたかもしれない。だが今は違う。海へ抜ける荷を止め、札と帳面を押さえた。目的はそこだ。深追いしてこの場を崩せば、また相手の理に戻される。
梶原はその叫びを聞いて、逆に苦い顔をした。
「……本当に変わったな」
吐き捨てるように言う。
「気に食わん」
「それでいい」
卜伝は答えた。
梶原は今度こそ引いた。新九郎が追いたそうにしたが、ぎりぎりで止まる。小夜は抱えた札を離さず、道賢は小舟の綱を最後まで切らせなかった。
真壁本人の姿は、ついにこの場では見えなかった。
だが、その場にいた気配だけは残っていた。蔵の奥、海側のさらに先、一瞬だけ空いた視線の先に、誰かが立っていたような感覚。卜伝がそちらへ目を向けた時には、もう風と灯だけだった。
届かなかった。
その悔しさはある。
だが今夜は、それだけではない。
海前の蔵で最後の積み替えを止めた。
札を崩し、小舟を止め、流れの喉へ確かに刃を入れた。
それは、第二章の河口よりさらに深いところへ達した一撃だった。
戦いが収まり始めると、蔵前には乱れた荷と、読み切れぬ札と、湿った海風だけが残った。
卜伝は刀を収め、ゆっくり息を吐いた。
海へ出る流れは広い。
だが、その広さの手前には、やはり断つべき喉がある。
そして今夜、その喉に自分たちは確かに手をかけたのだ。




