第三十二話 桐生、再び道の上に立つ
離れ蔵を引いたあとの夜道は、行きに来た時よりも狭く感じられた。
道が狭くなったわけではない。海沿いの細道は、相変わらず風に削られたように細く、片側は黒い海気、もう片側は低い草と土の法面が続いているだけだ。だが、さっきまで見ていたもののせいで、道そのものが一段深く見えるのだ。
灯の下で、真壁の品が受け渡される。
御用商人じみた番頭が受け、武家の使いが見、桐生がその場の綻びを測っている。
町の笑顔の奥にあった“硬さ”が、今夜はとうとう形を持って見えた。
卜伝は歩きながら、その光景を何度か頭の中で並べ替えていた。
真壁本人は見えない。
だが、真壁の流れはここまで来ている。しかも、ただ盗んだ品が流れ着くだけではない。欲しい者の手に渡る直前のかたちまで、すでに整えられている。
ならば、追うべきはどこか。
離れ蔵か。
番頭か。
武家の使いか。
あるいは、その全部の継ぎ目か。
そこまで考えた時だった。
道賢が、前を歩きながらほんのわずかに杖の先を上げた。
「止まれ」
低い声だった。
四人はすぐに足を止める。
海風が横から吹き、草が擦れる。波の音が遠くで崩れる。その中に、人の気配がひとつだけある。隠れているつもりではない。むしろこちらが気づくよう、ぎりぎりのところで立っている気配だ。
新九郎が舌打ちした。
「またか」
小夜も眉を寄せる。
「この感じ……」
「ああ」
卜伝は低く答えた。
「桐生だ」
次の瞬間、道の先の暗がりから、すっと人影が現れた。
月は高くない。だが海の夜は完全な闇にはならない。湿りを帯びた光がわずかに漂い、人の輪郭だけをぼんやり浮かせる。その中で、桐生の立ち姿は以前と変わらず静かだった。余計な力がない。だが油断もない。立っているだけで、こちらとの距離を測っているのが分かる。
「ここまで来たか」
桐生は言った。
声は変わらず穏やかだ。穏やかだが、穏やかさの下に測るものがある。梶原兵庫のようなむき出しの敵意とは違う。こちらの反応を見て、次にどの手を使うかを決める男の声だ。
「見せたいものでもあったのか」
卜伝が問う。
桐生はわずかに口元を動かした。
「見せたい? 違うな。見られて困るなら、もっと手を打っている」
「では、見られてもよいと思っていたか」
「思っていた、というより」
桐生は少しだけ首を傾げる。
「お前たちならそこまで来るだろうと思っていた」
新九郎が鼻を鳴らす。
「いちいち気に食わねえ言い方する野郎だな」
「そうか」
桐生は新九郎へ目だけ向ける。
「お前は分かりやすいから、まだ楽だ」
「何だと」
「止めて」
小夜が即座に言う。
「ここで挑発に乗る必要はない」
桐生はそのやり取りを見て、ほんの少しだけ目を細めた。
「娘のほうがよく見えているな」
「褒めてるつもり?」
小夜が返す。
「半分は」
桐生は言った。
その言い方に、新九郎が「おい、こっちの癖を真似るな」と低く唸った。小夜は呆れたように息をつく。
だが卜伝は、桐生の目がそのやり取りの間にも自分へ戻ってくるのを見ていた。やはりこの男は違う。新九郎のような正面の圧ではなく、小夜のような理詰めでもない。場の流れの中で、一番崩れたところを見ている。
「何のために出てきた」
卜伝は真っ直ぐ聞いた。
「私たちを止めるためか」
「止める?」
桐生は小さく笑う。
「お前たちが今ここで止まる顔をしているなら、わざわざ出てこない」
「では何だ」
「確かめに来た」
「何を」
「どこまで見たかを」
やはりそうか、と卜伝は思った。
桐生はいつもそうだ。剣を振るうより先に、相手の目がどこまで届いているかを見に来る。真壁本人ではないが、真壁の流れがどこで綻びるかを測る役なのだろう。
「離れ蔵まで見た」
卜伝は答えた。
「番頭も、武家の使いも、あんたもな」
「そうか」
桐生は頷く。
「なら、だいぶ見えるようになってきた」
「褒められたいわけではない」
「そうだろうな」
「なら、何が言いたい」
「簡単だ」
桐生は言った。
「ここから先は、お前たちに不利な場へ入る」
風が吹いた。
海の匂いが一段強くなる。
卜伝は黙って桐生を見る。
「離れ蔵までは、まだ町の外れだ」
桐生は続ける。
「港と城下の継ぎ目に過ぎぬ。だが、ここから奥へ入れば違う。帳面も、蔵も、御用商人も、武家の門も、皆が皆、よそ者の理では動かぬ」
「だから何だ」
卜伝が言う。
「怖じて引けと?」
「言っても引かぬだろう」
「当然だ」
「だろうな」
桐生は少しだけ笑みを深くした。
「だから言う。奥へ入るほど、お前たちは“正しい者”ではいられなくなる」
「……」
「剣を抜けば賊。抜かねば見逃す者。黙れば同じ流れの中。喋れば消される者が増える。そういう場に入る」
その言葉は、脅しというより確認に近かった。
そして厄介なことに、かなり正しい。
第三章へ入ってからずっと感じていたものが、桐生の口からそのまま出てきたようだった。武家の門は剣で叩いても開かぬ。忍び込めばこちらが賊になる。だが黙って見ていれば、品はまた名を失う。どちらへ転んでも、こちらの理だけでは済まぬ場へ足を入れかけているのだ。
「それでも行く」
卜伝は言った。
桐生はその答えを予想していたらしく、驚きもしなかった。
「だろうな」
「ただし」
卜伝は続ける。
「前よりは分かっているつもりだ」
「何を」
「剣で斬るだけでは足りぬことを」
「……」
桐生の目が、ほんの少しだけ細くなる。
卜伝はそこで一歩、前へ出た。
「お前や梶原、真壁本人。剣の質は皆違う」
「ほう」
「真壁は流れを作る。お前は綻びを見る。梶原は押し潰す」
桐生は何も言わない。
「つまり、お前たちは同じ手では動いていない」
「当然だ」
「なら、こちらも同じ手だけで向かうつもりはない」
その言葉に、新九郎が後ろで小さく鼻を鳴らした。小夜は黙っている。道賢だけが、いかにも面白がっていないような顔で、しかしよく聞いていた。
桐生はやがて言った。
「少し、面白くなってきたな」
「面白がられる筋合いはない」
卜伝が返す。
「そう言うな。お前がどこまで来るかは、こちらにとっても無駄ではない」
「真壁のためか」
「真壁様のためでもあり、私自身のためでもある」
「……」
そこに、梶原兵庫とは違う桐生の厄介さがあった。
梶原は真壁に心酔し、真壁の前へ出る者を妬み、押し潰そうとする。だが桐生は違う。真壁に仕えながらも、自分で考えている。測り、比較し、何がどう動けば面白いかを見ている。だからこそ、単純な怒りでは崩れにくい。
卜伝は、桐生のような敵には、こちらの激情をそのままぶつけても意味が薄いのだと改めて思った。
「ひとつ聞く」
小夜が初めて割って入った。
「何?」
桐生が問う。
「離れ蔵の先、あなたたちはどこまで流すつもりなの」
「答えると思うか」
「思ってない」
「なら聞くな」
「でも、あなたって黙りきれない顔をする時がある」
小夜が言う。
「何かを試したい時」
桐生は初めて、小夜を正面から見た。
その視線は冷たいわけではない。だが、相手の言葉のどこまでが本気かを量る目だ。
「娘」
桐生は静かに言う。
「口が立つな」
「立たなきゃ、あなたみたいなのとは話せない」
「それもそうだ」
「で、どうなの?」
「一つだけ言おう」
桐生は少しだけ首を巡らせ、海のほうを見た。
「真壁様は、海へ出る前に最後の受け渡しをご覧になる」
その一言で、空気が変わった。
新九郎が思わず身を乗り出す。
「本当か」
「嘘を言って何になる」
桐生は言う。
「お前たちがそこまで来られるなら、会うこともあるだろう」
「そこまで来られるなら、か」
卜伝が低く繰り返す。
桐生は頷く。
「そうだ。そこまで来られるなら、な」
それだけ言うと、彼はもう十分だとばかりに半歩退いた。
卜伝は追わなかった。
追えば、たぶんまた桐生の望む形になる。こいつはそういう敵だ。言葉を置き、反応を見て、そこから相手の間合いまで測る。無理に掴みにいっても、指のあいだから滑っていくだけだろう。
桐生は最後にもう一度だけ、卜伝を見た。
「河口までは、お前たちの足で追えた」
「……」
「ここから先は、追うだけでは足りぬ」
「分かっている」
卜伝は答えた。
「本当に?」
「少なくとも、前よりは」
桐生はその返事に、ほんのわずかに笑った。
それは嘲りとも、感心ともつかぬ顔だった。
「なら、また会おう」
そう言い残して、彼は道の脇の暗がりへ消えた。足音はほとんどしない。だが、完全に気配を消そうとはしない。こちらに「もういない」と思わせぬまま去る。最後までそういう男だった。
新九郎が大きく息を吐く。
「何なんだあいつは」
「梶原兵庫とは、まるで違う」
卜伝が言った。
「だな」
新九郎が頷く。
「梶原は腹の中まで前に出てる。あいつは違う。ずっと半歩引いてやがる」
「引いてるんじゃないわ」
小夜が言う。
「こっちとの間合いを自分で決めてるの」
「同じじゃねえのか」
「違う」
「難しいな」
「難しいのよ」
道賢は杖を地に軽くついた。
「良い敵だ」
ぼそりと言う。
「良くはありません」
卜伝が即座に返す。
「敵としてだ」
道賢は平然としていた。
「お前さんが、怒りだけでは届かぬ相手を知るにはちょうどよい」
「……」
「梶原兵庫のような敵は、分かりやすい。押してくる。潰しにくる。だから返す形も見える。だが桐生のような敵は、こちらの心が前へ出すぎると、その分だけ測られる」
「ええ」
小夜が頷く。
「だからこそ、単純な怒りが通じにくい」
「気に食わねえけど、分かる」
新九郎が言う。
「殴る場所が見えにくいんだよな、ああいうやつは」
「殴ること前提で考えないで」
「いや、感覚の話だよ」
卜伝は海の方角を見た。
真壁は海へ出る前に最後の受け渡しを見る。
つまり、この町のどこかに、離れ蔵のさらに先、真壁本人が顔を出すだけの重要な継ぎ目があるということだ。
そこを見つけねばならぬ。
だが桐生の言う通り、そこから先は今まで以上に不利な場になるだろう。武家の理、商いの理、沈黙の理。どれもがこちらを容易には通さぬ。
それでも、もう引く気はなかった。
怒りだけでは届かぬ敵がいる。
ならば怒りを抱えたまま、もっと遠くを見るしかない。
「戻るか」
新九郎が言う。
「ええ」
小夜が答える。
「今夜のところは、十分に見た」
「十分以上だろ」
「そうね」
卜伝も頷いた。
桐生は、何かを隠しながら、同時にこちらへ道筋も見せた。
それは親切ではない。
試しだ。
測りだ。
だが、そこに乗るしかない場面もある。
宿へ戻る道すがら、卜伝は桐生の言葉を何度も反芻していた。
追うだけでは足りぬ。
たしかにそうだ。
河口までは、流れを追えた。
だがこの町では、流れを受ける顔まで見ねばならぬ。
そして海へ出る前の最後の継ぎ目では、おそらくそれ以上の何かがいる。
剣だけでは割れぬ壁。
だが、壁には必ず継ぎ目がある。
卜伝はその継ぎ目を見失わぬよう、歩きながら指先で刀の柄をひとつ撫でた。
まだ抜かぬ。
だが、抜く時は近づいている。




