第三十話 脅される小役人、沈黙する帳面
木陰から現れた男が去ったあとも、小役人はしばらくその場を動けずにいた。
城下へ続く道の脇、白壁の影が少し長く落ちる場所で、彼はまるで足元だけが別の土に沈んでしまったように立ち尽くしている。背に負った細長い箱が、その背中を余計に細く見せていた。武家でも町人でもない、ああいう役目の者はたいてい中途半端な位置にいる。上からは使われ、下からは嫌われ、どちらの顔色も見ねばならぬ。その苦しさが立ち姿に出ているようだった。
「どうする?」
小夜が小声で言った。
「今なら、まだ一人よ」
「追いかけるか?」
新九郎が聞く。
「木陰へ消えたやつ」
「違う」
卜伝は首を振った。
「追うなら、あの小役人だ」
「そっちか」
新九郎が鼻を鳴らす。
「まあ、そりゃそうだな」
「今の男を追っても、尻尾だけでしょう」
小夜が言う。
「でも、脅された側は何を握ってるか分からない」
「ええ」
卜伝は頷いた。
「しかもあれは、ただの下働きではない」
小役人はようやく歩き出した。だが足取りは重く、振り返ることもできぬ顔をしている。卜伝たちは少し間を置いて、その後を追った。
城下へ続く表の道ではまずい。人の目がある。追う形が露骨すぎる。だが小役人は、少し歩いたあと、大通りから外れて細い横道へ入った。裏手へ回る近道なのだろう。卜伝はそこで一気に距離を詰めた。
「待ってください」
声をかけると、小役人はびくりと肩を跳ねさせた。
振り向いた顔は、思った以上に青かった。まだ若い。三十にも届くかどうかというところだろう。きちんと髪は結い、着物も乱れていない。だが目の奥だけは、ずっと眠れていない者の色をしていた。
「な、何か」
小役人が言う。
「あなたは」
「少し、お話を」
「話すことなど……」
そう言いながら、視線がすぐ逃げる。
小夜がそこで一歩前へ出た。卜伝ではなく、小夜が出るほうがいいと判断したのだろう。そういうところの判断は、もう互いに言葉がいらなくなってきている。
「さっきの人」
小夜が静かに言う。
「お知り合いには見えなかったわ」
「……」
「脅されていたのでしょう」
「違う」
小役人は即座に言った。
「違いません」
小夜も即座に返す。
「あなた、今、そう言う声じゃなかった」
小役人は口を閉じた。
新九郎が横から言う。
「安心しろとは言わねえ。けど、俺たちは今の男の仲間じゃねえよ」
「……」
「むしろ逆だ」
「逆?」
小役人がかすかに目を上げる。
卜伝は、その一瞬を逃さず言った。
「城下へ入る荷のことを知っているのではありませんか」
「……っ」
それが図星だったのだろう。小役人の喉が強く動いた。否定しようとしたが、言葉がすぐには出ない。
道賢が後ろから、いかにも何でもない声で言う。
「怯えきる前に、座れる場所へ移ったほうがよい」
「ここではまずい」
小夜も言った。
「誰かに見られたら、あなたがもっと困る」
「……」
「それとも、黙ってまた脅されに戻る?」
小役人はしばらく迷っていたが、やがて諦めたように小さく頷いた。
「……少しだけなら」
案内されたのは、城下と町人町の境に近い、小さな祠の裏だった。古びているが、人がわざわざ寄るほどではない。話をするにはちょうどよい。小役人はそこでようやく背の箱を下ろし、深く息をついた。
「名は?」
卜伝が問う。
「辰之助です」
小役人は答えた。
「城下の小役人で……荷の控えを扱っております」
「やっぱり」
小夜が小さく言う。
辰之助はそのまま、もう隠しきれぬと悟ったらしく、少しずつ言葉を出し始めた。
「私は、城下へ入る荷の控えを見ます。どの問屋から、何が、どの蔵へ入るか。大きな荷ではなく、小口の荷や後から付け足された荷のほうを」
「小口の荷」
卜伝が繰り返す。
「ええ。大きな荷は皆が見ます。問題は、そこへ紛れて入るものです」
「怪しい荷、か」
新九郎が言う。
「……あります」
辰之助は答えた。
「何度も」
「何度も?」
小夜が問い返す。
辰之助は頷いた。
「検めの帳面と、実際に入ってきた荷の数や印が合わない時があります。ですが、それでも“検め済み”の印がついて、そのまま通る」
「なぜ」
卜伝が問う。
「本来なら止まるでしょう」
「止まるはずです」
辰之助の顔に、苦いものが浮かんだ。
「ですが、上役から“通せ”と言われるのです」
「上役」
新九郎が言う。
「お前のところのか」
「はい」
「だけ?」
小夜が静かに聞く。
辰之助は一瞬、口をつぐんだ。
そこが肝だと、小夜は分かっていたのだろう。声を少しだけ落として続ける。
「他にもいるのね」
「……御用商人です」
辰之助がようやく言った。
「名前までは……いや、知っています。でも、ここで口にしてよいものか」
「口にせぬでもよい」
道賢が言う。
「まずは仕組みを話せ」
「仕組み……」
辰之助は手を膝の上で握りしめた。
「表向きは普通の荷です。塩、干魚、反物、古道具。ですが途中で札が変わる。あるいは“検め済み”の印が先についている。そうなると、現場ではもう止めにくいのです」
「帳面にはどう記す」
卜伝が問う。
「そこです」
辰之助の顔がさらに苦くなる。
「帳面には、最初の名しか残らないことがある。あとから付け足された荷、途中で変わった札、そういうものは“付随品”とか“小口”とか、曖昧な書き方で済まされる」
「……」
「つまり、後から見返しても分かりにくい」
「そうです」
「意図的ね」
小夜が言う。
「はい」
辰之助は小さく頷いた。
「私は何度か、おかしいと思いました。ですが上役は、“お前は帳面を整えればいい、荷の中身までは役目ではない”と」
「そして御用商人は?」
小夜が聞く。
「“この町では皆が少しずつ目をつぶって回している”と」
辰之助は言った。
「……だから黙るしかなかった」
「黙らされた、が正しい」
新九郎が吐き捨てる。
「そうかもしれません」
辰之助は否定しなかった。
その顔には、自分でも分かっている苦さがあった。小さな役人一人に、上役と御用商人と、そして脅しに来る者たちを相手にしろというのは酷だ。帳面を扱う者は、たいてい剣を持たぬ。持たぬ者は、黙ることでしか生き残れぬ時がある。
卜伝は、そこへ妙な現実味を感じた。
今まで真壁の流れを追いながら、敵はどこか“向こう側の人間”だった。浪人、野武士、荷を運ぶ者、札を変える者。だが辰之助のような男は違う。流れに加わりたいわけではない。ただ、その流れを見てしまい、押しつけられ、黙らされているだけの人間だ。
こういう者まで含めて、真壁の兵法は働いているのだ。
「帳面は」
卜伝が言った。
「持っていますか」
「……あります」
辰之助は答える。
「いま背負っているのは、今日の控えです。ですが全部ではない」
「全部はいらないわ」
小夜が言う。
「まずは、怪しい荷が通った記録だけ見せて」
「ここで?」
「駄目?」
「いや……見せます」
辰之助は背の箱を開けた。中から細長い帳面が二冊出てくる。紙は何度もめくられて柔らかくなり、端が擦り切れている。役人の手の帳面だ。そこに記された墨は整っているが、ところどころ急いで書き足したような行もある。
辰之助はその一冊を慎重に開いた。
「これです」
指が止まる。
「この印。河口から上がったはずなのに、城下へ入る時には“検め済み”が先についている」
「……」
「それとこれ。荷数が合いません」
小夜がすぐ覗き込む。
「こっちの小口、数が一つ多い」
「そうです」
辰之助が頷く。
「ですが、上役は“見間違いだ”と」
「見間違いじゃないわ」
小夜はきっぱり言った。
「この書き方、わざと曖昧にしてる」
「やはりそう見えますか」
「ええ」
卜伝は帳面そのものより、辰之助の指の震えを見ていた。
この男はずっと、こういう記録を一人で見てきたのだ。おかしいと分かりながら、それを誰にも言えず、帳面だけが黙って溜まっていく。その苦しさは、剣で敵に向かう苦しさとは別の重さだろう。
「これも」
辰之助がページをめくる。
「何度か出ています。印は違うように見えますが、荷の筋は同じです」
「どこへ入る」
卜伝が問う。
辰之助の指が、ひとつの行で止まった。
「この行き先です」
彼は低く言う。
「城下の表ではなく……海沿いの外れにある離れ蔵」
「離れ蔵?」
新九郎が聞く。
「港じゃなく?」
「港に近いが、町の賑わいからは少し外れます。表向きは塩や古道具を一時置きする蔵ですが、夜にだけ小舟が着くことがあると聞きます」
「……」
「つまり」
小夜が帳面の行を指でなぞった。
「怪しい荷の行き先の一つは、そこなのね」
「はい」
辰之助は答えた。
「私は何度か見ました。昼には普通の荷、夜には数の合わぬ荷が、同じ蔵へ入るのを」
卜伝は帳面の行を見つめた。
帳面は、剣と違って嘘をつけぬ時がある。人は黙る。口は閉じる。だが記された墨だけは、どこかに綻びを残す。
これが足がかりだと卜伝は思った。
武家の門を剣で叩いても開かぬなら、こういう小さな綻びから中へ入るしかない。
脅される小役人。
沈黙する帳面。
そして、そこへ残った荷の行き先。
海沿いの離れ蔵。
町の硬さの中で、ようやくひとつ、現実に触れられる場所が見え始めていた。




