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『剣聖・塚原卜伝 ――鹿島立ちの剣、戦国を渡る』  作者: 常陸之介寛浩 ㊗️書籍刊行中✑本能寺から始める信長との天下統一


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第二十九話 武家の門は、剣で叩いても開かない

 城下へ続く道は、港の賑わいを半分だけ残したまま、急に口数が減る。


 魚市場の怒鳴り声は遠ざかり、塩問屋の粉っぽい匂いも薄れ、代わりに白壁と黒塀と、よく掃かれた道の乾いた匂いが前に出てくる。城下町というものは、騒ぎそのものを嫌うのではない。騒ぎがどこで起きるべきかを、はっきり決めているのだろう。港で起きる騒ぎは港のもの、町人町のざわめきは町人町のもの、そして武家屋敷の近辺には、それとは別の静けさがある。


 卜伝たちは、古道具商の庄蔵の話を聞いた翌朝、城下へ通じる通りを改めて見に出た。


 目的ははっきりしている。

 港と蔵を通ってきた“名を剥がされた品”が、最終的にどこへ流れるのか。

 その受け手の顔を、少しでも掴むこと。


 だが、その道は昨日までとは違って見えた。


 露骨に見張りが強い。


 門前に立つ雑兵。通りの角で箒を持ちながら、通る者の顔をよく見ている下働き。武家屋敷の裏手へ続く道にわざと荷車を置いて、人の流れを細くしている番頭風の男。いかにも「見張りです」と構えるのではなく、町の用の顔をしながら、しかし目だけは通りを測っている。


「分かりやすく嫌な感じね」

 小夜が低く言った。

「昨日より増えてる」

「ああ」

 卜伝も頷いた。

「港側で何かあったのが伝わったのか」

「それもあるでしょうけど」

 小夜は眉を寄せた。

「もともとこっちは、外から来た者に奥を見せない仕組みなんだと思う」


 新九郎はそのやり取りの横で、露骨に不機嫌な顔をしていた。


「ちまちましてやがるな」

「何が」

 小夜が聞く。

「全部だよ。立ってるやつも、見てるやつも、荷車の置き方も」

「つまり?」

「つまり、いっそ忍び込んだほうが早い」

 新九郎は言った。

「夜にでも塀越えて、蔵なり屋敷なりの裏を見りゃ済む話だろ」

「駄目よ」

 小夜が即答した。

「何でだ」

「それでは相手の理の中で賊になるだけ」

「賊?」

「そう。今こっちは“流れを追ってる側”でしょう。でもそこで忍び込めば、向こうから見ればただの不審者よ」

「不審者でいいじゃねえか」

「よくない」

 小夜はきっぱりと言った。

「真壁を追ってるはずが、こっちが“城下へ忍び込んだ怪しい旅人”になる。それじゃ話が逆転する」

「……」

「相手は武家の門の中にいるかもしれないのよ。そこへこっちが賊の真似をしてどうするの」

「でもな」

 新九郎はまだ食い下がる。

「こうやって見てるだけじゃ、何も割れねえだろ」

「割る必要があるなら、最初に割るのは門じゃなくて継ぎ目」

 小夜が言う。

「そういう町だって、もう分かってるでしょう」


 卜伝は、その言い方に少しだけ息を整えた。


 新九郎の言うことも分かる。目の前にある壁を前にして、正面から越えられぬなら、夜に越えたくなる気持ちはある。自分もまったく同じ考えを持たぬとは言えない。中に何があり、誰が受け取り、どこへ品が消えるのか。その先が見えぬまま、表から目を細めているだけでは、たしかに苛立つ。


 だが同時に、小夜の言うことも今はよく分かった。


 ここで剣を振れば、真壁ではなくこちらが追われる側になる。


 村での戦いは、村人を守るためだった。宿での夜襲も、火を止め、人を守るためだった。河口では、流れそのものを断つために立った。そこでは剣を抜く理由がこちらの手にあった。


 だが城下の門前は違う。


 ここでこちらから無理に入れば、その瞬間から理が変わる。相手は真壁の流れを隠す者であっても、表向きにはただ城下を守る側になれる。こちらは賊として追われ、問いただす側ではなく言い逃れをする側へ落ちる。


 その違いは大きい。


 卜伝は、前なら新九郎と同じことを思ったかもしれぬと考えた。だが今は、そこへすぐ足を向ける気にはなれない。剣を抜けば早い場と、抜いた瞬間に負ける場がある。その違いを、旅の中で少しずつ知ってきたからだ。


「ここでは駄目だ」

 卜伝が言った。


 新九郎が顔を向ける。


「お前もか」

「ああ」

 卜伝は答える。

「ここで剣を振れば、真壁を追うどころではなくなる」

「……」

「今はまだ、こっちが賊になってはいけない」

「分かっちゃいるが、気に食わねえ」

「それは同じだ」

 卜伝は言った。

「だが、気に食わぬからといって切り結べば、相手が喜ぶ」


 新九郎は露骨に嫌そうな顔をしたが、最後には鼻を鳴らしただけだった。


「分かったよ」

「本当に?」

 小夜が聞く。

「半分な」

「やっぱり」

「でも半分分かってりゃ十分だろ」

「半分だけ暴れるのはやめて」

「難しい注文だな」


 そのやり取りのあと、一行は城下へ続く道を少し離れた位置から見ることにした。正面から門へ寄るのではなく、荷の流れだけを目で追う。商人町から武家屋敷の近辺へ運ばれるもの。城下の奥から外へ出るもの。小荷駄、小者、下働き、御用聞きらしい男たち。


 見ていると、ひとつ分かることがある。


 この町では、“武家の門の前”がもっとも堅いわけではない。


 むしろ、そこへ至る手前――小さな控えの蔵、仕分けのための脇屋、荷を一度置き直す路地、そういうところのほうが人の気配が薄くなる瞬間がある。武家の門そのものは見せ場だ。そこは誰もが守る。だが、その門へ荷が届くまでの道筋には、どうしても継ぎ目が生まれる。


 卜伝は、昨日までよりその継ぎ目を見ることへ意識が向いていた。


 剣を抜けぬ場でどう進むか。


 それは、剣を捨てることではない。

 剣を抜くべき瞬間まで、何を見ているかの問題だ。


 そう考え始めている自分に、卜伝は少しだけ驚いていた。鹿島を出たばかりの頃なら、城下の門前でこんなふうに黙って我慢できたかどうか分からぬ。


 道賢は、その様子を見ながらぼそりと言った。


「ようやく、抜かぬ剣を覚え始めたか」

「何ですそれは」

 卜伝が問う。

「抜かぬまま場を進める剣だ」

 道賢は言う。

「斬らずに済むのではない。抜く前に見ておくべきものを見ておる、ということだ」

「……」

「もっとも、いざとなれば抜くのだろうがな」

「その時は」

 卜伝は小さく答える。

「たぶん迷いません」

「それでよい」


 午後も深まり、武家屋敷の影が少しずつ長くなり始めた頃だった。


 一行が一度、町人町との境に近い細道へ引こうとしたその時、卜伝の目に妙な場面が入った。


 城下の側から、ひとりの小役人らしい男が出てくる。


 歳は三十前後か。裾の長くない小袖に、書付を入れる細長い箱を背負っている。顔つきは地味で、武家というより“城下の仕事人”といった風だ。荷の控えや帳面でも扱っていそうな男だった。


 その男が、門前を少し離れたところで足を止めた。


 道の脇の木陰から、別の男がぬっと現れる。


 こちらは町人ふうだが、立ち方が違う。肩の入り方が浪人崩れに近く、しかもわざと力を抜いた顔をしている。言葉は聞こえぬ。だが、近づき方と距離の詰め方が“ただの知り合い”ではない。


 小役人の肩が、目に見えて強張った。


「……見た?」

 小夜が低く言う。

「ああ」

 卜伝は答える。


 男は小役人の前へ半歩出て、袖口の内から何かを見せた。書付か、印か、あるいは金か。小役人の顔がさらに青くなる。首は縦にも横にも振れず、ただ立ち尽くしている。


「脅されてるな」

 新九郎が低く言う。

「ええ」

 小夜が答える。

「しかも、あれはただの銭の話じゃない顔」


 小役人は最後に、小さく頷いた。


 それを見て、町人ふうの男は満足したように身を引き、また木陰へ消える。小役人だけがその場に残り、しばらく動けぬまま立っていた。


 卜伝は、その男の背負う細長い箱と、仕事着のような地味な身なりを見た。


 城下へ物を運ぶ小役人。

 帳面か、荷の控えか、通しの印か。

 そういうものを扱う立場に見える。


 そして今、何者かに脅されていた。


 武家の門は剣で叩いても開かない。

 だが門へ至る前に、こうして押さえられている人間がいる。


 卜伝は、無意識に一歩前へ出ていた。

 次に割るべき継ぎ目が、向こうから姿を見せたのだと感じていた。

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