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戦国異聞伝『塚原卜伝 ――鹿島立ちの剣、戦国を渡る』  作者: 常陸之介寛浩㊗️オリコン週間ランキング9位㊗️


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第二話 社の影、盗まれたもの

 闇の中で止まった影は、次の瞬間にはもうそこにいなかった。


 いや、いないように見えただけだ、と卜伝はすぐに悟った。黒々とした木の幹と、蔵の影と、夜気に沈む土の色。そのどれもに溶けるように、相手は低く身を沈めていた。人が立っているというより、闇そのものがわずかに位置を変えたような気配だった。


 並の者なら見失う。


 だが卜伝は、目だけで追う癖を持っていなかった。人は消えぬ。消えたように見える時ほど、足が土を押す。袖が風を裂く。息が空気を揺らす。そういう僅かなものが、形の代わりになる。


 蔵の陰に身を寄せたまま、卜伝は小さく囁いた。


「小夜殿、下がって」

「でも――」

「今は」


 小夜は一瞬だけ何か言い返しかけたが、卜伝の顔を見て言葉を呑みこんだ。こういう時の彼は、普段よりも声が低く、無駄がなくなる。押し返すより従ったほうが早いと、短い付き合いでも分かるものらしい。


 彼女は一歩、二歩と後ろへ下がり、蔵の角から見えぬ位置へ身を移した。卜伝はそれを横目で確かめると、そっと柄にかけた手へ力を込めた。


 影は二つ。


 ひとつは森寄り。もうひとつは蔵の裏へ回ろうとしている。


 見張りか、役目が分かれているのか。


 蔵の裏へ行かせるわけにはいかぬ――そう判断した時には、もう足が動いていた。


 卜伝は土を蹴った。駆ける、というより滑り込む踏み込みで、蔵の角を切る。夜目に慣れた視界の端で、裏へ回ろうとしていた影がこちらに気づく。相手が短く舌打ちしたのが聞こえた。


「誰だ!」


 低い声と同時に、ぎらりと刃が抜かれる。


 卜伝も抜いた。


 鞘走る音が夜に細く鳴る。そのまま間を詰め、相手の刃が上がる前に自分の剣を打ち込む。火花は散らぬ。だが金気を帯びた甲高い音が、静かな夜を裂いた。


 重くはない。


 若くもない。


 武家の手練というほどでもないが、ただの盗人の受け方でもなかった。まともに鍛えられた腕だ。


 相手が受ける。その受けへさらにねじ込むように角度を変え、卜伝は刃を滑らせた。手首を斬るつもりの入りだったが、相手はそこでようやく後ろへ跳ぶ。間合いが半歩空いた。


 だが、その半歩で十分だった。


 森寄りにいたもう一つの影が、背から回ろうとしている。


 卜伝は踏み込みを深追いせず、身を捌いて振り返った。背後から走ってきた刃が闇を切る。頬のすぐ前を風が走り、髪の端が揺れた。


「ちっ」


 今度は卜伝が舌打ちする番だった。


 一人を詰めれば、もう一人が差してくる。稽古場ならありえぬ入り方だ。いや、ありえぬのではない。自分がそこを重く見てこなかっただけだ。複数相手なら、最初の一人を崩した時点で終わりではない。


 夜盗ではなく、連れ立って事をなす者たちの動き。


 卜伝は二人の位置を見た。森側の者は短めの刀。蔵側の者は少し長い。長いほうが前に出る癖があり、短いほうは横から差す。呼吸は合っているが、絶妙というほどではない。ならば先に崩せる。


「小夜殿! 社の方へ人を呼んで!」

「分かった!」


 小夜の返事は早かった。女だからといって怯えて立ち尽くすような性ではない。足音が素早く離れるのを聞き、卜伝は少しだけ息を整えた。


 相手のひとりが鼻で笑う。


「一人残るか、小僧」

「一人ではない」

「ほう?」


 言い返しながら、卜伝は自分でもその言葉の意味を考えた。今ここには確かに自分しかいない。だが、社の近くで騒ぎを起こした以上、いずれ人は来る。小夜も動いている。ならば時間は味方になる。そう思うべきなのだろう。


 だが、その「いずれ」が来るまでを持たせるのが難しい。


 相手は夜目に慣れ、足元も分かっている。こちらは地の利があるはずだが、夜の実戦というだけで、昼の稽古とはまるで違う顔を見せていた。


 先に仕掛けたのは短いほうだった。


 低く走って脇腹を狙う。牽制ではない。確かに斬りに来ている。卜伝は左へ半歩開き、落とすように刃を打った。金属が噛み合う嫌な音。相手の刀身が下へ逸れる。そのまま肩口を取れる――はずだった。


 長いほうが、もう入っている。


 卜伝は追い打ちを捨てた。体を開き、肩を引く。切っ先が胸元の布を裂いた。浅い。だが、あと半呼吸遅ければ深く入っていた。


 稽古場なら、今のような受け捨てはしない。


 打ち勝てる。崩せる。そういう確信がどこかにある。


 だが、実際の刃は待ってくれぬ。一本を確実に取りに行った隙へ、もう一本が来る。見えていても、間に合わねば同じだ。


 相手の二人もまた、卜伝の太刀筋にただならぬものを感じたのだろう。最初の軽口は消え、目だけが冷えてきている。


「若いくせに」

「若いからだ」


 卜伝は答えたつもりはなかった。口が勝手に動いた。


 すると長いほうが喉の奥で笑った。


「違いない」


 その声に、妙な苛立ちが走る。


 若いのが何だというのか。若いから読みが浅いと言いたいのか。若いから経験が足りぬと言いたいのか。どちらも間違いではないのだろう。だが、そう言われて素直に頷けるほど出来た心でもない。


 ならば切り伏せる。


 そう思って踏み込んだ瞬間、森の奥から別の物音がした。


 卜伝の意識がそちらへ一度だけ流れる。


 それだけで十分だった。


 短いほうの賊が急に間を詰め、胸元目がけて体ごとぶつけるように来た。正面から斬る気ではない。押さえ、絡め、動きを止めるつもりだ。


 卜伝は剣を返して柄で打った。ごつ、と鈍い音。相手の頬骨に入る。男がよろける。だが、その一瞬の遅れで長いほうの刃が今度は足を狙って走る。


 低い。


 危ない、と頭より先に体が叫んだ。


 卜伝は跳ぶように身を引いたが、足袋の先が裂けた。土がはねる。危うい。胸ではなく足を切りに来たのは、走れぬようにするためか。相手は単に斬るだけでなく、確実に追い詰める手を選んでいる。


 そこで、蔵の奥からいやに軽い音がした。


 木の軋み。


 誰かが、開けている。


 卜伝ははっとした。目の前の二人は足止めか。ならば、ほかにいる。


「……しまった」


 低く漏らした時には遅かった。


 蔵の裏手、見えぬ位置にもう一人か二人いる。こちらを引きつけているあいだに、中を探っているのだ。


 相手はそれを悟られたと見たのか、今度はあからさまに時間を稼ぐ動きへ変えた。無理に深く来ない。ただ離しすぎもせず、卜伝が蔵のほうへ走ろうとすれば斬りかかれる位置を保つ。


 悔しさが腹の底を熱くする。


 分かっていたはずだ。二人だけで片がつくなら、夜の社の近くでこんな動きはしない。だが、目の前の刃に気を取られた。自分の剣が届く範囲ばかり見ていた。


 その時だった。


「おお、何だ何だ! 夜中に面白そうなことしてるじゃねえか!」


 場違いなほど明るい声が、道のほうから飛んできた。


 賊の一人が顔をしかめる。卜伝も思わずそちらを見た。


 暗がりの向こうから、肩幅の広い若者が駆けてくる。腰の刀を半ば抜きながら、まるで喧嘩場に面白半分で首を突っ込むような勢いだった。だが、その足運びは軽くない。土の踏み方に無駄がなく、夜道にも慣れている。


「おいおい、本当に斬り合ってるのかよ。祭りなら呼べっての!」


 言いながら、若者は躊躇なく横合いから賊の短いほうへ切り込んだ。


「なっ――」


 賊が驚いて受ける。


 その間に卜伝は息を整え直した。思わぬ乱入だが、これ以上ない助けだった。


「お前、何者だ!」

 賊が叫ぶ。


 若者は白い歯を見せる。


「犬塚新九郎だ! 地侍の次男坊! で、今は通りすがりの物好きだ!」


 名乗りが軽い。軽すぎる。だが、その太刀筋は軽くない。大振りに見えて、振り下ろしの最後だけ妙に速い。腕任せかと思わせて、体の軸は崩れない。押し込みの強さで相手に受けを強いながら、その受けた先でさらに肩を入れてくる。


 短いほうの賊は新九郎の勢いに押され、後ろへ下がった。


 卜伝は即座に動く。長いほうへ詰める。今なら一対一だ。


 相手もそれを悟り、舌打ちした。先ほどまでの冷静さが少し崩れている。卜伝はそこを逃さない。


 正面から打つと見せて、切っ先を半寸外へ逸らす。相手が受けにきた刃を空打ちにし、その内へ滑り込む。近い。相手の目が開く。そこで卜伝は刃ではなく、鍔元で相手の手首を打った。


 骨へ響く鈍い感触。


 賊の刀がぶれる。


 そこへ今度こそ本命の一撃を入れる。斜めに、浅くではなく深く。男は苦鳴を漏らし、後ろへ倒れた。


 だが倒しきる前に、蔵の奥からさらに二人、影が飛び出した。


 ひとりは小脇に包みを抱えている。もうひとりは抜き身で、それを守るようについている。


「ちっ、済んだぞ! 引け!」

「こっちも遊びは終わりだ!」


 新九郎が怒鳴りながら、短いほうの賊を蹴り飛ばした。男はたたらを踏み、仲間のほうへ下がる。


 四人。


 いや、倒れた一人を含めれば五人いたことになる。


 卜伝は包みを抱えた影を見た。大きくはない。だが雑に抱えてはいない。つまり中身は金目のものというより、壊したくないものか。


 その時、社のほうから人の声が近づいてきた。小夜が呼んだのだろう。灯りもいくつか見える。


 賊たちは一瞬で退く判断をした。長居はできぬと見たのだ。


「追うぞ!」

 新九郎が前へ出ようとする。


「待て!」


 卜伝は反射的に叫んだ。


 賊のうち一人が、それを待っていたかのように地へ何かを投げつけた。乾いた粉がふっと散る。土埃ではない。灰か砂か。夜目が一瞬だけ鈍る。


 その隙に影たちは森へ散った。


「くそっ!」


 新九郎が一歩追う。卜伝も追いかけかけた。だが、倒したはずの長いほうの賊がまだ完全には意識を失っていない。腕を引きずりながら、地を這うように森へ逃れようとしている。


 卜伝はそちらへ踏み込んだ。せめて一人は捕らえる。


 男は片腕を押さえながら振り返り、ぎらつく目で卜伝を見た。


「若造……」

「何を盗んだ」

「知るかよ、そんなものは……」

「なら誰の差し金だ」


 男は口元から血を垂らしながら、ふっと笑った。その笑い方は強がりだけではなかった。痛みに耐えてなお、まだ何かを知っている顔だった。


 後ろでは人の足音が近づいてくる。灯りが揺れている。社家の者たちが駆けつけるまで、あとわずかだ。


 卜伝は男の胸ぐらを掴み上げた。


「言え」

「……言っても、お前には分からねえよ」

「何がだ」

「鹿島の剣を……外へ出すな」


 男はそこで一度咳き込み、血を吐いた。


 卜伝の手に力が入る。だが次の言葉は、力を入れたところで止められるものではなかった。


「出れば、奪われる」


 その言葉を言い切ると同時に、男の体から急に力が抜けた。気を失ったのか、それともそれ以上喋る気がないのか、一瞬では分からない。卜伝が頬を打っても反応が薄い。


「おい!」

「駄目だ、もう落ちてる」


 横から新九郎がしゃがみ込み、男の顎を乱暴に持ち上げた。月明かりも乏しい中で様子を確かめ、舌打ちする。


「死んじゃいねえが、口を割らせるには面倒そうだな」

「お前……」

「犬塚新九郎だって言ったろ。お前は、さっきの顔だと塚原んとこの若いのか?」

「……卜伝」

「おう、卜伝か。名前は覚えやすいな」


 この場で覚えやすいも何もないだろう、と卜伝は思ったが、口にはしなかった。目の前の男は、今まさに命を拾った相手でもある。軽口を叩く余裕があるのか、それとも何も考えていないのか判断に迷うが、少なくとも腕は確かだった。


 そこへ灯りがいくつも近づき、社家の男たちと小夜が駆け込んできた。


「卜伝!」

「無事です」

「怪我は?」

「浅いです」

「浅い、って……足元、血が出てるじゃない」

「布を裂かれただけです」


 そう答えながらも、卜伝は自分の息が少し荒いことに気づいた。痛みより先に、気の昂ぶりがまだ引いていない。


 小夜は卜伝の無事を確かめるとすぐ、蔵のほうへ目を向けた。社家の男たちも顔色を変え、急いで中を確かめに走る。


 やがて、中から焦った声が上がった。


「荒らされている!」

「箱がひとつないぞ!」

「文書も……いや、全部じゃない、抜かれているのは一部だ!」


 その言葉を聞いた瞬間、夜の冷気とは別のものが場に満ちた。


 ただの夜盗ではない。


 狙ったうえで、要るものだけを取っている。


 小夜が唇を引き結ぶ。その横顔を見て、卜伝は自分の胸の中にも同じ冷たさが落ちるのを感じた。


 しばらくして蔵の中を確かめた社家の年長者が出てきた。顔色は青い。


「金銀はほとんど手つかずだ」

「では、何が」

 小夜が問う。


 年長者は周囲を一度見回し、声を抑えた。


「古い兵法書の一部だ。それと……由緒のある箱」

「やはり」

 小夜の声が低くなる。


 卜伝は眉を寄せた。


「何の箱です」

「詳しくはここで言えぬ。だが、鹿島に伝わる品だ」

「それを狙っていた……」

「そういうことになる」


 新九郎がそこで、ふん、と鼻を鳴らした。


「金を盗まず、古い箱と書付だけ持ってく賊か。面倒くせえ連中だな」

「面倒では済みません」

 小夜がきっぱり言う。

「分かってるよ、お嬢さん。だから言ってる」


 初対面のくせに妙に馴れ馴れしい。だが小夜も、今はその口の軽さに腹を立てている場合ではないらしい。


 卜伝は地に転がる賊を見下ろした。男はまだ息がある。だが目を覚ます気配は薄い。


 さきほどの言葉が耳の奥で何度も響く。


 鹿島の剣を外へ出すな。出れば、奪われる。


 剣そのものを言っているのか。兵法のことか。鹿島という土地に積もった武の伝えを指しているのか。いずれにせよ、相手はそれを知っている。しかも恐れているのか、欲しているのか、そのどちらともつかぬ口ぶりだった。


 社家の者たちが蔵の見張りと怪我人の手当てに分かれて動き始める。夜は一気に騒がしくなった。さっきまでの静けさが嘘のように、灯りが増え、人が行き交い、怒声と囁きが入り混じる。


 その渦の中で、卜伝だけが妙に冷えていた。


 剣を抜いた。斬り合った。敵を倒した。


 それなのに、守りきれていない。


 目の前にいた二人へ気を取られ、その裏で別の手が動くのを許した。稽古場で相手一人を見て勝っている時には気づけなかった未熟が、今ははっきり形になって突きつけられている。


「卜伝」

 小夜の声がした。


 振り向くと、彼女は怒っているようにも、心配しているようにも見えた。


「何です」

「ありがとう、と言うべきところなんでしょうね」

「そう思うなら、そう言ってください」

「言うわよ。ありがとう。でもそれ以上に、無茶をするなとも言いたいの」

「無茶をしなければ、もっと取られていたかもしれません」

「したから全部は止められなかったとも言えるでしょう」

「……」


 反論できない。


 小夜はほんの少しだけ目を伏せ、それから新九郎へ向き直った。


「あなたにも礼を。助かりました」

「おう。礼なら団子でも酒でも受け取るぜ」

「調子がいいわね」

「生きてる時は調子がいいくらいがちょうどいい」


 新九郎は肩をすくめた。だがその目は、軽口のわりに場の様子をよく見ている。蔵の出入り、人の数、怪我人の位置、逃げた賊の方向。何も考えていない男ではないらしい。


「通りかかった、というのは本当ですか」

 卜伝が聞くと、新九郎はにやりとした。


「半分本当だ。親父の使いでこっちへ来ててな。帰りが遅くなったところで、何やら面白く……いや、物騒な気配がした」

「面白いと言いかけたでしょう」

「お前、耳いいな」

「それくらいは」

「そりゃそうか」


 そこで新九郎は、地に転がる賊を顎で示した。


「で、そいつ、何か吐いたのか」

「少しだけ」

「何て?」

「鹿島の剣を外へ出すな。出れば、奪われる」

「……何だそりゃ」


 新九郎の顔から、ようやく軽さが少し引いた。


「ただの盗人の文句じゃねえな」

「ええ」

 小夜が頷く。

「最初から、そういう連中じゃなかったのよ」


 社家の年長者のひとりが近づいてくる。厳しい顔だった。


「今夜のことは、むやみに口外するな」

「ですが」

 小夜が言いかける。


「分かっている。黙って済む話ではない。だが、何が盗まれたかまで広く知れれば、相手を喜ばせるだけだ」

「……はい」

「卜伝」

「はい」

「お前は見たものを明朝、改めて話せ。今は怪我を手当てし、休め」

「休めません」

 卜伝は即座に言った。

「相手はまだ近くにいるかもしれない」


 年長者は卜伝の目を見た。その視線は叱責というより、値踏みするようだった。


「追うか」

「追えるなら」

「夜の森だぞ」

「だからです」


 そこで新九郎が口を挟んだ。


「だったら俺も行く」

「お前は関わりのない話だろう」

 社家の者が言う。


 新九郎は悪びれもせず答えた。


「さっき関わっちまった。今さら他人面もできねえよ。それに、こういう連中を見逃すと後でろくなことにならねえ」

「面倒ごとに首を突っ込みたいだけでは」

「それもある」


 堂々と言い切るのがすごいのか、呆れるべきか、卜伝には判断がつかなかった。


 小夜は二人を見比べ、ふっと小さく息を吐いた。


「追うなら、今夜はやめたほうがいい」

「なぜ」

 卜伝が問う。


「相手は夜に慣れてる。こっちは今、蔵を荒らされたばかりで心も足も乱れてる。追うなら明かりが差してから、跡を見たほうがいい」

「だが、時間が経てば」

「焦ってもう一度罠にかかるよりはましよ」


 その言葉は、卜伝の胸のいちばん痛いところを突いた。さっきも焦りで蔵の奥を見落とした。敵の用意した動きに乗せられたのだ。ここでまた夜の森へ飛び込めば、同じことを繰り返しかねない。


 黙った卜伝に代わって、新九郎が肩を回した。


「お嬢さんの言うとおりだな。今の顔で森に入っても、いいように振り回される」

「今の顔とは何だ」

「悔しくて頭に血が上ってる顔」

「……」

「図星か」


 腹立たしい。だがこれもまた、返す言葉がない。


 社家の者たちの判断で、その夜は蔵の周囲を固め、逃げた方角に見張りを置くことになった。卜伝も手当てを受けるよう言われたが、傷は浅く、布を巻くだけで済んだ。


 騒ぎの合間、空を見上げると、雲の切れ間から細い月が出ていた。白く、冷たい月だった。


 新九郎はその月を見て欠伸を噛み殺しながら言った。


「しかし、鹿島ってのは思ったより面白い土地だな」

「面白いで済ませる話ではありません」

 小夜が即座に言う。

「だから面白いんだろ」

「あなた、何でもそう言うの?」

「大体はな。そうじゃないと次男坊なんてやってられねえ」


 その物言いに、卜伝は初めて少しだけこの男のことが気になった。軽い。だが軽さの裏に、何か別の重みが隠れている気がする。


「お前は」

 卜伝が言う。

「何だ?」

「なぜ本当に飛び込んできた」

「さっきも言ったろ。気配がしたからだ」

「それだけで、刃のある場所へ?」

「それだけで十分だろ」


 新九郎はけろりとしている。


「誰かが斬られてるかもしれねえ音がして、知らん顔して帰ったら、家で寝つきが悪い。そんだけだ」

「……」

「お前は違うのか」


 違わない、と卜伝は思った。


 だからこそ、一人で飛び込んだ。


 違わないのに、自分はうまくやれなかった。


 その事実だけが、胸に重く残る。


 夜が更けるにつれ、騒ぎは少しずつ収まりを見せた。怪我人の手当ても終わり、蔵の中で失われたもの、残されたものの確認が進められる。古びた兵法書の一部と、由緒ある箱。狙われたのはそれだと、もはや疑いようがなかった。


 卜伝は最後にもう一度、賊が逃げた森のほうを見た。


 木々の黒い重なりの向こうへ、相手は消えた。だが完全に消えたわけではない。あの言葉も、動きも、狙いも、すべてどこかへ続いている。


 ただの夜盗なら、この夜で終わる。


 だがこれは違う。


 鹿島という土地に積もるものを知る者が、わざわざそこを狙ってきた。しかも、ただ盗んだだけではなく、こちらに言葉を残した。脅しなのか、警告なのか、挑発なのかも分からぬ言葉を。


 小夜が卜伝の隣へ立つ。


「眠れそう?」

「無理でしょう」

「そうでしょうね」

「あなたは」

「わたしもよ」


 少しの沈黙のあと、小夜は森を見たまま言った。


「今夜で終わりじゃないわ」

「ああ」

「むしろ始まりね」

「……ああ」


 それを認めるのは、どこか腹立たしかった。守れなかった夜が、始まりになる。そんな始まりは望んでいない。


 だが、望む望まぬに関わらず、物事は始まる時には始まる。


 鹿島の夜風が吹いた。


 森が鳴る。


 その音の向こうに、まだ見ぬ敵の気配があるように思えた。


 卜伝は包帯を巻いた足に体重をかけ、静かに拳を握る。


 稽古場の勝ちでは足りぬ。


 一人を打ち負かすだけでも足りぬ。


 守るべきものがあり、奪うべきでないものを狙う者がいるなら、剣はもっと別の強さを持たねばならない。


 そのことを、今夜の血の匂いが教えていた。


 そして胸の奥では、賊の残した言葉が、まるで呪いのように繰り返されていた。


 鹿島の剣を外へ出すな。出れば、奪われる。


 ならば何だ。


 鹿島の剣とは。


 奪われるものとは。


 そして、それを奪おうとするのは誰なのか。


 その答えを知らぬままでは、今夜は終われない。


 そう思いながらも、卜伝はまだ知らなかった。


 今夜盗まれたものが、自分を鹿島の外へ向かわせる最初の火になることを。

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