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『剣聖・塚原卜伝 ――鹿島立ちの剣、戦国を渡る』  作者: 常陸之介寛浩 ㊗️書籍刊行中✑本能寺から始める信長との天下統一


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第十八話 川面の影、舟着場の刃

 灯を消した舟は、闇の中を流れてくるというより、川そのものの黒さが形を持って寄ってくるように見えた。


 月は薄い。雲も低い。水面は光らず、ただ風が触れたところだけがわずかに皺を立てる。そんな夜に、櫂の音を極力殺して近づく舟は、見慣れぬ者の目にはただの影にしか見えないだろう。


 だが卜伝には、それが「何かある夜の影」だと分かった。


 流れ任せではない。

 水に逆らいすぎてもいない。

 人が、見つからぬように、それでいて確実に、寄せている。


 裏木戸の隙間からそれを見た卜伝は、静かに息を吸った。


「……来ました」


 声はほとんど呟きに近い。だがこの場ではそれで十分だった。


 蔵の内側では、宗兵衛が喉を鳴らす音がした。残した蔵番は無言のまま頷き、手にした棒を握り直している。小夜はその二人を一瞥したあと、すぐに低く言った。


「声を立てないで。言うことは変えない。荷は動かない、誰も知らない、それだけ」

「……は、はい」

 宗兵衛が答える。声がかすれていた。

「もし表で騒ぎが起きても、勝手に戸を開けないで」

「分かっております」

「本当に?」

「……分かっております」


 小夜はそれ以上は言わず、卜伝のほうへ目を向けた。その目だけで、「行くのね」と伝わる。


 卜伝は頷いた。


 新九郎は細道の入り口に立っている。道賢はすでに水際の闇へ消えた。ならば自分が見るべきは、裏木戸と舟着場、そのあいだの板場だ。


 守るべき荷がある時は、敵を倒す順ではなく、敵を入れさせない順。


 そう決めたばかりだ。


 卜伝は裏木戸をそっと押し開き、夜の水気の中へ出た。


 外は思った以上に冷えていた。昼の湿りを含んだ板は夜になると一段冷たくなり、足の裏へぬるりとした感触を返す。舟着場へ渡した板は二枚。幅は狭く、しかも岸側の木に苔が薄くついている。踏み損ねればすぐに滑る。鹿島の土とも、宿の廊下とも違う。地が返してこない戦場だ。


 その感触に、卜伝は一瞬だけ足を止めた。


 舟はもうかなり近い。


 影が三つ、四つ。舟の上にも、人の気配がある。しかも舟着場へ真っ直ぐ着けるのではなく、少し下流側へずらしながら寄せている。正面から突っ込んでくるつもりではない。着ける位置をずらして、こちらの守りの角度を崩す気だ。


「……やはり」


 正面は囮だ。


 表から騒ぎを起こすか、細道へ人を出して目を引き、そのあいだに舟着場で荷を動かす。敵が欲しいのは蔵そのものではない。箱を、流れへ乗せることだ。


 その瞬間、細道の入り口から新九郎の怒鳴り声が上がった。


「おう、来たな! 通りたきゃ俺を踏み越えてみろ!」


 わざと大きな声だ。


 表へも、裏へも聞こえる。相手に「ここが正面だ」と思わせるための怒鳴りだろう。豪快すぎるようでいて、ちゃんと役目を分かっている叫び方だった。


 同時に、細道の向こうで人が走る音がした。二人、いや三人か。新九郎の前へ敵が集まり始めている。


 卜伝は舟へ視線を戻す。


 やはりだ。舟の上の影が、細道の騒ぎに合わせて動いた。正面へ目が行く、その一瞬に寄せ切るつもりだ。


 卜伝は板場へ踏み出した。


 冷たい。滑る。

 足の裏の感触が、土とはまるで違う。

 踏み込んでも返りが鈍い。

 半歩のつもりが、少し伸びる。


 そのわずかな違いが、剣を持つ身にはひどく大きかった。


「誰だ!」


 舟の上から低い声が飛ぶ。


 卜伝は答えず、そのまま間を詰めた。最初の一人が板場へ飛び移ろうとする。足が着く、その刹那を狙って卜伝は刀を振った。


 だが、宿の廊下の時のようにはいかなかった。


 踏み込みが、わずかに流れる。


 斬りの角度が浅くなり、相手の肩口ではなく袖口を裂いただけで終わる。男は「ちっ」と舌打ちして半身になり、そのまま舟の縁へ戻る。足場が悪いのは向こうも同じだろうが、向こうは最初からそれを当てにした動きだ。


 卜伝はすぐに息を整えた。


 焦るな。


 この場では、土の理で踏み込むな。


 そう頭では分かる。だが体がまだ追いつかない。


 次の男が板へ出た。今度は刀ではなく、短い棍棒を持っている。打ち合いより、足を払う気か。卜伝はその手元を狙う。だが相手も板場に慣れている。上を見せて下を払う。卜伝は刃で受けながら片足を引いたが、板の湿りで足が半寸流れた。


「っ……!」


 危ない。


 相手の棒が脛をかすめる。あと少し深く入っていれば、足を持っていかれていた。


 水辺はこういう戦いか、と卜伝は歯を食いしばった。


 正面から一人ずつ斬るのではない。

 崩し、払い、滑らせる。

 相手を水へ落とすだけでも勝ちになる。


 その時、細道の向こうから新九郎の吠える声と、ぶつかり合う鈍い音が聞こえた。


「おらあっ!」


 新九郎は、本当に正面を押さえているらしい。怒鳴り声に混じって、男たちのうめきが返る。あの男が前を食っているあいだに、こちらで抜かせぬことが肝だ。


 卜伝は板場で半歩下がり、今度は無理に斬り込まず、舟から上がってくる角度を潰すことへ意識を移した。


 男が一人、二人と出ようとする。

 そこで斬るのではない。

 板の細い線へ、立たせない。


 卜伝は切っ先を低く置き、相手の足元を制した。水際の戦いでは、刀の届く先が少し違う。胴や肩より、まず足を置く場所だ。そこを押さえれば、相手は出られぬ。


「……なるほど」


 自分でそう呟いた時には、もう体が少しその理に寄り始めていた。


 一本目の板には出させない。

 二本目へ乗り換える前を崩す。

 舟と岸のあいだ、その“流れの喉”を塞ぐ。


 守る戦いとはこういうことか。


 倒すより先に、通さぬ。


 その時、舟の後ろ側で小さな水音がした。


 別だ。


 もう一艘いる。


「小夜殿!」

 卜伝が振り向かずに叫ぶ。

「裏、水際、もう一つ来る!」

「見えてる!」

 小夜の声がすぐ返る。

「宗兵衛! 蔵番! そのまま動かないで! 誰が何を言っても戸は開けない!」


 彼女もただ蔵の中にいるだけではないらしい。裏木戸の陰から水際を見て、蔵側の人間を押さえ、さらに表へ漏れる混乱を抑えている。あの声は、怯えた者を立ち止まらせる声だ。


 道賢の姿は見えない。


 だがその時、下流側の暗がりで短く誰かが息を呑む音がした。続いて、どぼん、と水へ落ちる音。


 逃げ道を一つ潰したのだと、卜伝は悟った。


 見えぬ場所で、見えぬまま、あの坊主は仕事をしている。


「坊主のくせに」

 卜伝は小さく吐き、すぐまた板場へ意識を戻した。


 今度は舟の上の男が苛立ったように怒鳴る。


「何してやがる! たかが一人だぞ!」

「たかが、ではありません」

 卜伝は思わず答えていた。


 すると相手は一瞬だけ黙った。


 その隙に、卜伝は板へ半分乗り出してきた男の手首を打った。刃ではなく鍔元で叩く。男が棒を落とす。そこへ肩を入れ、板の外へ押す。男はそのまま水へ落ちた。大きな音。水しぶき。


 初めて、この場の勝ち方が少し分かった気がした。


 斬らなくてもよい。

 落とせばいい。

 通させなければいい。


「おい、卜伝!」

 新九郎の声が飛ぶ。

「こっち、三人目だ! ほんとに囮だぞこれ!」


 細道のほうでは、敵が次々と新九郎へかかっているらしい。つまり向こうも、正面で時間を稼いでいる。


 囮。


 やはりそうだ。


 真の狙いは蔵ではなく、荷の積み替え。


 箱さえ舟へ乗れば、あとは川が隠してくれる。


 卜伝は板場の中央で踏ん張り、舟の動きを見た。二艘目はまだ寄りきっていない。だが一艘目の男たちが出られぬと見るや、棹で舟を横へずらし始めた。別の角度から板へ乗せる気だ。


「ずらすな!」


 卜伝は踏み込んだ。


 だがこの一歩が、まだ甘かった。


 濡れた板が足を返さず、斬りがほんの少し遅れる。男の刃がこちらの袖を裂いた。浅い。だが、自分の遅れがはっきり分かる一太刀だった。


 悔しい。


 土なら入れていた。


 宿の廊下なら、もっと鋭く止められた。


 だがここは川面だ。

 ここで勝たねば意味がない。


 卜伝はすぐに刀を返し、今度は深く入らず、板の幅そのものを使って相手を押し戻した。舟へ。岸へではなく、舟へ返す。男は受けながら体勢を崩し、背後の仲間とぶつかる。


「今だ!」

 新九郎の吠え声とともに、細道のほうで大きな衝突音がした。敵の一人が吹き飛ばされたらしい。新九郎の豪快さは、こういう時ほんとうに前衛向きだ。細かい理屈ではなく、相手の前へ立ち続ける力がある。


 その一瞬、蔵の中から宗兵衛の悲鳴に近い声が聞こえた。


「ち、違う! それは触るな!」


 卜伝の背筋が冷える。


 中だ。


 誰かがもう入っている。


「小夜殿!」

「見えてる!」


 小夜の声は近かった。どうやら裏木戸の内側へ回ったらしい。


 卜伝は板場を離れるか、一瞬迷う。


 ここを空ければ舟が着く。

 だが中へ手が入れば箱に届く。


 その迷いの刹那、舟の上の男が叫んだ。


「荷はもう半分出た!」


 半分。


 その言葉が夜気を裂いた。


 卜伝の中で、何かが一気に張り詰める。


 もう半分出た、ということは――この蔵の箱だけが狙いではない。別の流れ、別の荷が、もうどこかで動いている。あるいは、今この夜の騒ぎそのものが、“半分”を隠すための騒ぎかもしれない。


 川湊の流れは、一つではない。


 そう思い知らされたところで、卜伝は一歩だけ、さらに深く水辺の闇へ意識を向けた。

 この戦いは、まだ板場の上だけでは終わらない。

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