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『剣聖・塚原卜伝 ――鹿島立ちの剣、戦国を渡る』  作者: 常陸之介寛浩 ㊗️書籍刊行中✑本能寺から始める信長との天下統一


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第十七話 護る剣、通すなと決めた夜

 蔵の中は、外の喧騒とは別の冷たさを持っていた。


 川湊の表では、人足が怒鳴り、舟が着き、荷が動き続けている。だが蔵の扉を閉めると、その流れは一枚の板を隔てただけで急に遠くなる。残るのは、木と土の匂い、積まれた俵の乾いた気配、そして、今この場にある荷がただの荷ではないという重さだった。


 宗兵衛の裏蔵に置かれた木箱は、布をかけ直され、いまは奥に静かに収まっている。


 外から見れば、どこにでもありそうな荷だ。だが、一度その金具を見てしまえば、もう何でもない箱には見えない。鹿島の箱と同じ系統の意匠。由緒ある家や社に連なる細工。真壁の流れの中で、名前を変えられ、どこか別の土地へ流されるはずだったもの。


 それを今夜、通させない。


 そう決めた以上、もう「見るだけ」の段ではなかった。


「まず、蔵の出入りは何口ある」

 卜伝が問う。


 宗兵衛はまだ少し緊張を残しながら答えた。


「表が一つ、裏木戸が一つです。ただ、裏木戸の先はそのまま小さな舟着場へ降りられます」

「舟着場」

 新九郎が言う。

「やっぱりそこか」

「表から大きな荷を動かすより、裏から舟へ積むほうが早いのです」

 宗兵衛が言う。

「しかも夜なら、人目も少ない」


 道賢が小さく頷く。


「湊の悪さは、たいてい裏から動く」

「分かりやすくて助かるな」

 新九郎が言う。

「分かりやすいのは入り口だけよ」

 小夜がすぐ返す。

「問題は、相手が正面から来るとは限らないこと」

「蔵番は何人いる」

 卜伝が聞く。

「二人です」

「信用できるか」

 宗兵衛は一瞬だけ言葉に詰まった。


 その間が、もう答えだった。


「……一人は大丈夫です」

 やがて彼は言う。

「もう一人は、悪い人間ではありませんが、押しに弱い」

「つまり、脅せば喋るし、金を見せれば迷う」

 小夜が言う。

「そう、ですね」

 宗兵衛は苦く答えた。


 新九郎が鼻を鳴らす。


「こういう時に一番面倒なやつだな」

「悪人より始末が悪い場合もあるわ」

 小夜が言う。

「自分で悪いことをしている自覚が薄いもの」

「……」

「責めてるわけじゃないの」

 小夜は宗兵衛に向き直った。

「でも、今夜だけは、口が揃わないと全員死ぬかもしれない」

「分かっています」

「なら、その“押しに弱いほう”は今のうちに蔵から外して」

「外す?」

 宗兵衛が目を瞬く。

「どうやって」

「腹でも壊したことにして休ませなさい。仕事ができないなら、裏にも近づけない」

「そんな都合よく」

「都合よくじゃなくて、都合を作るのよ」

「……」

「できますね?」

「……やります」


 小夜はこういう時、躊躇がない。


 卜伝はその横顔を見て、以前よりもずっと頼もしく感じた。剣を振れぬからこそ、こうした“戦う前に崩すべきところ”へ先に手が届くのだろう。


 道賢は蔵の中を一回り見たあと、裏木戸を開けさせた。


 外へ出ると、そこは表通りの騒がしさとは別世界だった。細い水路に近い小さな舟着場があり、濡れた板が二枚、岸から水際へ渡されている。舟が一艘つけば、箱二つ三つを積み替えるには十分だ。しかも蔵の陰になっていて、表からは見えにくい。


 風に混じって、水の匂いが強くなる。


 昼の川湊は動きが目立つ。だが夜の水辺は、逆に静かすぎて小さな動きがよく見える。灯を消した舟が近づけば、その分だけ不自然になるはずだ。


「ここが主口だな」

 新九郎が言う。

「ええ」

 道賢が答える。

「今夜、動くならまずここだ」

「表からは?」

 卜伝が問う。

「囮か、時間稼ぎでしょう」

 小夜が先に答えた。

「あるいは、蔵の中にもう一枚手が入っているなら、表を騒がせて裏を抜く」

「……」

「何よ」

「いや」

 卜伝は小さく首を振った。

「あなたが言うと、全部ありそうに聞こえる」

「ありえるもの」

 小夜は平然と言った。


 蔵へ戻ると、四人はその場で簡単な見取りを作った。地面に木片で線を引き、蔵の位置、表口、裏木戸、水路、舟着場、隣の蔵との間の細道、さらにその先の抜け道まで書き込む。


 新九郎がその図を見ながら指を置いた。


「正面は俺が押さえる」

「表口か」

 卜伝が問う。

「表と、裏木戸に繋がるこの細道の入り口だ」

 新九郎が言う。

「人数をかけて押してくるなら、いちばん広いところで止めたほうがいい。蔵の戸口で揉み合うと、中の荷にも人にも当たる」

「そうね」

 小夜が頷く。

「あなたは、狭い場所で暴れるより、半歩広いところでぶつかったほうが強い」

「暴れるって言うな」

「違うの?」

「……半分違う」

「半分は合ってるのね」


 新九郎は不服そうにしたが、否定はしなかった。


 道賢は杖で裏木戸のあたりを示す。


「わしは水際を見る」

「ひとりで?」

 宗兵衛が思わず言う。


 道賢は薄く笑う。


「ひとりでよい。舟が寄るなら、寄る前に気づく」

「そんなことが」

「できる者がここにいるから、話が進んでおる」


 胡散臭いが、こういう時の道賢は言い切る。しかも、言い切るだけの何かを持っている。卜伝はそれをもう何度か見ていた。


「私は」

 小夜が言う。

「蔵番と人足の口を揃える。今夜、誰がどこにいて、誰が何を見ても、言うことが違わないようにする」

「嘘をつかせるのか」

 卜伝が聞く。

「必要なら」

 小夜は答えた。

「でも大事なのは、嘘そのものじゃないわ。“知らない”“見てない”“今夜は荷は動かない”を全員が同じ調子で言えること」

「調子?」

「そう。言葉が同じでも、顔が違えばすぐばれる」

「……」

「あなたはそういうの苦手でしょ」

「得意ではありません」

「でしょうね」


 新九郎がそこで笑った。


「卜伝は顔に出るからな」

「出ません」

「出る」

 小夜も即答する。

「少なくとも、昨日までよりはマシになったけど」

「それ、褒めてますか」

「半分は」

「また半分ですか」


 少しだけ空気が緩んだ。


 だが、そのゆるみの中でも、卜伝の頭は別のことを考えていた。


 自分の役目は何か。


 今までは、敵をどこで止め、誰から斬るか、そういう考え方が先に立っていた。だが今夜、守るべきものは“動く荷”だ。しかも、それは蔵にあるだけではない。相手が奪えば舟へ乗り、水へ出れば、もう追う形そのものが変わる。


 ならば考える順も変えねばならぬ。


 誰を倒すか、ではない。


 どこを通させないか、だ。


 卜伝は地面の見取り図を見つめながら、ゆっくりと言った。


「敵を倒す順では足りません」

 三人が顔を上げる。


「何だ?」

 新九郎が問う。

「今夜は、敵を何人倒したかでは終わらない」

 卜伝は指先で裏木戸と舟着場を結ぶ線をなぞった。

「守るべき荷がある時は、“敵を倒す順”ではなく、“敵を入れさせない順”で動かなければならない」

「入れさせない順」

 小夜が繰り返す。


「はい」

 卜伝は頷いた。

「たとえば、裏木戸に一人入っただけで荷へ手が届くなら、そいつは強くなくても先に止めるべきです。逆に正面で大声を出す者がいても、そこが時間稼ぎなら、真っ先に斬る意味は薄い」

「……」

「蔵の中へ近い者、舟へ近い者、荷へ触れられる者。その順で止める」

「なるほどな」

 新九郎が腕を組んだ。

「誰が強いかじゃなくて、誰が通しちゃいけねえか、ってことか」

「そうです」

「いいじゃねえか」

 新九郎はにやりとした。

「ようやく“守る戦い”の顔になってきた」

「昨日も似たようなことを言われました」

「昨日よりちゃんと分かって言ってる顔だ」

 小夜が言う。


 道賢は、卜伝を見て静かに頷いた。


「流れるものを守る剣、か」

「……」

「陸の上の守りと違い、水のそばでは少し目を離したものがすぐ流れる。ならば剣も、流れを断つために置かねばならぬ」

「流れを断つ」

 卜伝が低く繰り返す。


「そうだ」

 道賢は言った。

「斬るためだけの剣ではない。通すなと決めたものを、通させぬために立つ剣だ」

「……」


 その言葉は、妙に腑へ落ちた。


 鹿島を出てから、自分はずっと“追う剣”でここまで来た。奪われたものを追い、真壁の影を追い、その流れを追って川湊へ入った。だが今夜は違う。今夜は、ここで止めるための剣だ。


 流れるものを守る剣。


 通してはならぬ荷を、通させぬ剣。


 それは確かに、これまでとは少し違う剣の立ち方だった。


「では決まりね」

 小夜が言った。

「表の人間、蔵番、人足には、今夜荷は動かさないと伝える。ただし、その“動かさない”が本当か嘘かまでは顔に出させない」

「顔に出さない、ねえ」

 新九郎が笑う。

「俺には向かねえ」

「だからあなたは表で立ってるのよ」

「ひでえな」

「適材適所」

「そういうことだ」

 道賢も平然と乗る。


 宗兵衛は四人のやり取りを見ながら、少しずつ表情を変えていった。最初にここへ来た時の、怯えだけで形を保っていた顔ではない。不安は消えていない。だが、自分だけで抱えるしかないと思っていた荷に、ようやく別の手がかかった者の顔になっている。


「若旦那」

 卜伝が言った。

「はい」

「今夜、蔵の鍵は誰が持つ」

「私です」

「途中で誰にも渡さないでください」

「……分かりました」

「それと」

「まだありますか」

「あります」

 卜伝は宗兵衛をまっすぐ見た。

「怖くなっても、勝手に荷を動かさないでください」

「……」

「敵が来る前に自分で出してしまえば、戦わずに済むと思うかもしれない。ですが、それをした瞬間、今夜の守りは全部無駄になります」

「私は、そこまで」

「人は追い込まれると、自分でも思わぬことをします」

 卜伝は静かに言った。

「だから先に言っておきます」


 宗兵衛は一度、唇を噛んだ。


 その顔には少しだけ怒りも浮いた。自分をそこまで弱く見るのか、と言いたいのかもしれない。だが、その怒りはすぐに消えた。たぶん彼自身、自分が追い込まれた時どこまで持つか、まだ信じ切れていないのだろう。


「……分かりました」

 やがて宗兵衛は答えた。

「鍵は私が持つ。勝手には動かしません」

「お願いします」


 昼が傾くにつれ、川湊の風は少し冷たくなった。


 水路を渡る風は、陽があるうちは匂いを運ぶだけだ。だが夕方が近づくと、そこへ温度の差が混じり始める。蔵の土壁が冷え、板が湿り、足元の土も沈みやすくなる。夜に向けて、湊全体が別の顔へ変わっていく。


 小夜は宗兵衛とともに蔵番と人足の顔を見に行った。誰が嘘に弱く、誰が黙っていられるか、誰を蔵から外すべきかを見極めるためだ。新九郎は表口から細道へかけての位置を何度も歩き直し、どこなら二人を止められるか、どこなら相手を横に広げずに済むかを体で測っていた。道賢は水際へ消え、舟がつけられる位置と、暗がりで人が潜みやすい場所をひとつひとつ確かめている。


 卜伝は蔵の中で、箱と戸口と裏木戸の位置を何度も見た。


 蔵は広くない。だが広くないからこそ、誰か一人でも中へ入れば、箱まで届く。正面で何人斬ったかより、一人も中へ入れぬことのほうが大事だ。


 守る対象が荷なら、戦い方そのものが変わる。


 そのことを、卜伝は頭だけでなく、ようやく体で考え始めていた。


 日が落ちる前、小夜たちが戻ってきた。


「蔵番は一人外した」

 小夜が言う。

「腹を壊したことにして休ませたわ」

「うまくいきましたか」

「宗兵衛が“今日はもう出るな”って強めに言ったら、素直に引っ込んだ」

「押しに弱いだけはあるな」

 新九郎が言う。

「でも残ったほうは大丈夫」

 小夜は続けた。

「無口だけど、腹は据わってる。人足も二人だけこちら側につけた。あとは早めに帰した」

「帰した?」

 卜伝が問う。

「人が多いほど、口も多くなるから」

「正しい」

 道賢がいつの間にか戻ってきて言った。

「今夜、水際へ来る舟は一艘か二艘。灯を消して寄せるつもりだろう」

「見えたのか」

 新九郎が聞く。

「昼のうちに、妙に川下をうろつく小舟があった」

「……」

「来るな」

「来るわね」

 小夜が言う。


 日が沈み、蔵の周りから色が抜けていく。


 表の湊にはまだ灯が多い。だが裏は早い。蔵と蔵のあいだはすぐに黒くなり、水路の反射だけが細く残る。風も昼より湿り、音は逆に遠くまで通るようになった。


 卜伝は刀を確かめ、裏木戸の近くに立った。


 新九郎は細道の入り口へ。


 小夜は蔵番と宗兵衛の位置を最後にもう一度整えた。


 道賢は水際の闇へ消えた。


 四人の役割は、もうはっきりしている。


 誰がどこを見るか。

 誰が何を止めるか。

 誰が何を守るか。


 旅の一行としての形が、戦う前に整う感覚があった。


 そして、夜が更ける。


 表の喧騒がひとつ、またひとつと薄れていく頃。


 最初に気づいたのは、やはり音ではなく気配だった。


 川面の闇が、わずかに重くなる。


 水音に紛れるはずの小さな違和。

 櫂を止めた舟が、流れに逆らわず近づく時の、あの静かすぎる気配。


 卜伝は息を止め、裏木戸の隙間から水際を見た。


 灯を消した舟が、近づいてくる。

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