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『剣聖・塚原卜伝 ――鹿島立ちの剣、戦国を渡る』  作者: 常陸之介寛浩 ㊗️書籍刊行中✑本能寺から始める信長との天下統一


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第十六話 若旦那の依頼――通してはならぬ荷

 若い男は、あたりを気にする癖がもう身についているようだった。


 問屋の若旦那と道賢が言ったその男は、細道の入口からこちらへ来るまでのあいだに三度、背後を振り返った。人目を避けるというより、人目に混じった“見てはならぬ目”を探している顔だ。肩の力も抜けていない。着物は上等すぎぬが汚れはなく、髪も乱れていない。町人としてはきちんとした身なりだ。だが、その整い方がかえって、今の張りつめた様子と噛み合っていない。


 気の休まらぬまま、無理にきちんとした顔をしている男。


 卜伝にはそう見えた。


「宗兵衛のところの若旦那だ」

 道賢がもう一度言う。

「名は?」

「宗兵衛、です」

 男は自分で答えた。

「問屋《宗兵衛屋》の……まだ若旦那と呼ばれるほどの器でもありませんが」

「そんな前置きはいらねえ」

 新九郎が言う。

「用があるから来たんだろ」

「やめなさい」

 小夜がすぐに刺す。

「急かせば話せることも話せなくなる」

「分かってるよ。半分はな」

「残り半分がいつも余計なのよ」


 若旦那――宗兵衛は、そのやり取りを見て少しだけ表情を緩めた。だがそれも一瞬だけで、すぐまた緊張が顔へ戻る。


「少し……場所を移しても?」

 彼は小声で言った。

「ここでも人目は避けておりますが、長く話すには」

「どこならいい」

 卜伝が問う。


 宗兵衛は細道のさらに奥、問屋筋の蔵裏へ続く曲がりを見たあと、道賢のほうをうかがった。


「先生」

「わしのせいにするな」

 道賢は平然として言う。

「お前さんが呼びに来たのだろう」

「……ですが」

「この者らは使える。少なくとも、お前さんのところの番頭よりは、腹が据わっておる」


 宗兵衛は苦いものを飲み込んだような顔をした。番頭を悪く言われて否定できぬ事情でもあるのだろう。


「分かりました」

 やがて彼は言った。

「蔵の裏へ。人の出入りが少ない場所があります」


 一行は宗兵衛のあとを追った。


 川湊の裏は、表よりずっと複雑だ。表は人と荷が行き交う大きな筋がある。だが裏には、蔵と蔵の間の細道、濡れた板を渡した小径、用水へ沿う抜け道、問屋ごとの裏口が入り組んでいる。初めて入る者なら、どこでどこへ抜けるのか分からぬだろう。真壁がこういう場所を使う理由も、歩けば分かる。


 人に見つからず、荷だけが動ける。


 そういう道が、表より多い。


 宗兵衛に案内された先は、二つの蔵に挟まれた狭い空き場だった。裏木戸がひとつあり、積み上げた空の樽が風除けになっている。水の匂いも薄く、人足の声もここまでは届きにくい。


 宗兵衛はそこでようやく振り返り、深く息を吐いた。


「助けていただきたいのです」


 言葉は、飾る前に出たようだった。


 小夜がすぐに聞く。


「何を?」

「荷です」

 宗兵衛は答えた。

「うちの蔵に預かった荷の中に……明らかに曰く付きの品が混じっている」

「曰く付き、とは」

 卜伝が問う。


 宗兵衛は唇を湿らせた。


「最初は、ただの積み替え荷だと思いました。川上から来た荷が、別の舟へ移るのは珍しくありません。荷札が変わることも、まったく無いわけではない。けれど、今回は違う」

「何が違う」

 新九郎が低く聞く。


「人が違うのです」

 宗兵衛は言った。

「荷そのものより、それを持ってくる者と、取りに来る者の目が」

「……」

「うちは大きな問屋ではありません。流れる荷を一時置きすることも多い。だからこそ、“あれこれ聞かない”で済ませることもあります。けれど、今回の荷だけは、皆があまりに口をつぐむ。中身を知ろうとした人足が、翌日には来なくなった」

「辞めたのか」

 卜伝が聞く。

「ええ。表向きはそうです」

 宗兵衛の答えは濁っていた。

「だが、本当は?」

 小夜が静かに促す。


 宗兵衛は目を伏せた。


「脅されたのでしょう。あるいは……それ以上かもしれません」

「真壁か」

 新九郎が言う。

「名は出しておりません」

 宗兵衛はすぐ言った。

「でも、その流れに逆らえば、家も人足も潰されると、そういう空気だけはあるのです」


 問屋の若旦那というものは、もっと強欲で太い神経をしているものかと、卜伝はどこかで思っていた。だが目の前の宗兵衛は違う。臆病というだけでもない。臆病なら、こうして近づいてこない。潰されると知りながら、それでもここへ来たのは、怯えながらも加担しきれぬ一線がまだ残っているからだろう。


「それを今夜、動かせと?」

 小夜が問う。


 宗兵衛は頷いた。


「はい。今夜のうちに、別の舟へ積み替えろと」

「誰が言ってきた」

 新九郎が聞く。

「顔を知る男ではありません。手代ふうの者でした。けれど、その後ろにいた人足崩れの男は……あの、腕に古い傷がありました」

 卜伝の目が細くなる。

「右腕か」

「そうです。やはり、あなたも見たのですか」

「見た」

「なら、同じ流れね」

 小夜が言った。


 宗兵衛はそこで、一段声を落とした。


「今夜の積み替えに応じれば、うちは見逃すと言われました」

「応じなければ?」

 卜伝が問う。

「蔵も、舟も、人足も、商いも、全部終わる……と」

「脅しだな」

 新九郎が吐き捨てる。

「ええ」

 宗兵衛は答えた。

「脅しです。けれど、あの手の脅しは、半分は本当にします」

「半分?」

 小夜が言う。

「全部じゃないの」

「全部を一度にやれば、湊の人間も怯えすぎて逆に目を覚まします。あの手の者は、見せしめを一つだけやる。そうして他を黙らせる」

「……」

「だから怖いのです。誰もが“次は自分かもしれない”と思いながら、それでも商いを止められない」


 その現実は、卜伝にはまだ慣れぬ重さだった。


 鹿島では守るべきものがはっきりしていた。宿場の火事でも、敵は外から来ていた。だがここでは違う。商いの流れの中に脅しが混ざり、働く者たちはそれを知りながら手を止められない。生活を握られた人間は、剣より先に銭と仕事で縛られる。


 真壁のやり方は、こういうところまで及んでいるのか。


「若旦那」

 卜伝が言った。

「お前は、なぜここへ来た」

「……」

「今夜の積み替えに応じれば、当座は無事かもしれない。なのに、なぜわざわざ話す」

「それは」

 宗兵衛は答えかけて、言葉を探すように黙った。

「怖いからです」

 やがて彼は言った。

「潰されるのが怖い。家が潰れるのも、人足が散るのも怖い。ですが、それ以上に……」

「以上に?」

 小夜が促す。


 宗兵衛はゆっくり顔を上げた。


「このまま“知らぬ顔”を続ければ、うちはもう問屋ではなくなる」

「……」

「何を預かり、何を流し、何に名をつけるか。それを見て見ぬふりしているうちに、うちの名そのものが、他人の悪事を通すための器になる。そんなのは、商いではありません」


 新九郎が意外そうに宗兵衛を見る。


「若旦那にしちゃ、骨があるな」

「褒められているのか分かりません」

「半分はな」

「また半分ですか」

「こいつ、何でも半分なんだよ」

 小夜が呆れたように言う。


 だがその軽いやり取りで、宗兵衛の肩の強張りが少しだけほどけた。


 卜伝は宗兵衛を見たまま、はっきりと言った。


「その荷を通させない」

 宗兵衛が息を止める。

「……本当に?」

「はい」

「相手は、ただの盗人ではないのですよ」

「知っています」

「川湊の中にも、目がある」

「知っています」

「それでも?」

「それでもです」


 卜伝は、自分の声が思っていたより低く、よく通ることに気づいた。


 守るものは、鹿島の箱だけではない。


 この宗兵衛のように、真壁の流れへ完全には飲まれたくないと思っている者の立場もまた、守るべきものだ。ここで荷を通せば、真壁の手がまた一つ、“逆らえぬ流れ”として強くなる。


 止めねばならない。


 それは追うための戦いでもあるが、同時に守るための戦いでもある。


「待て」

 新九郎が言った。

「止めるってのは、荷ごとか? 若旦那ごとか? 蔵ごとか?」

「全部です」

 卜伝は答えた。

「欲張るなあ」

「欲張りではない」

「いや、かなりだぞ」

「ですが、そうしなければ意味がない」


 小夜がそこで、静かに卜伝を見た。


「自分から“守る”ほうを選ぶのね」

「今さらです」

「ええ。今さらね」


 その言い方は少しだけ柔らかかった。


 道賢は壁にもたれたまま、面白がるでもなく言う。


「よい」

「何がです」

 卜伝が問うと、

「荷そのものだけを見ておらぬことだ。若旦那の蔵も、人足も、湊の流れも見えておるなら、ようやくこの章の剣になる」

「章?」

 新九郎が怪訝な顔をする。

「何の話だよ」

「こっちの話だ」

「胡散臭えな、ほんと」


 小夜はすでに別のことを考えている顔になっていた。


「若旦那、その荷は今どこに?」

「うちの裏蔵です」

「見せられる?」

「見せます。ですが、人目が」

「なら今すぐ動きましょう」

「今?」

 宗兵衛がたじろぐ。


「今よ」

 小夜ははっきり言う。

「今のうちに見ておかないと、夜の話が組めない」

「組む?」

「ええ。どう守るか。どこを押さえるか。誰を黙らせて、誰にだけ話すか。そういう話」

「……」

「大丈夫。怖いのは分かる。でも、怖いからって何も決めないでいると、相手の言う通りに動かされるだけ」


 宗兵衛はしばらく迷っていたが、やがて小さく頷いた。


「……分かりました。こちらへ」


 裏蔵は、表筋の蔵ほど大きくはなかった。だが板も鍵も新しく、宗兵衛がそれなりに気を使っている場所だと分かる。表向きは、細工物や小口の荷を一時置きするための蔵らしい。だからこそ、大きくない“曰く付きの荷”を紛れ込ませるにはちょうどよいのだろう。


 宗兵衛は木戸を開ける前にもう一度あたりを確かめ、低い声で言った。


「見たら、戻れなくなりますよ」

「もう戻っていません」

 卜伝が答える。


 宗兵衛は苦く笑った。


「そうでしたね」


 木戸が開く。


 中はひんやりしていた。木と土の匂い、わずかな湿り気、積まれた荷の影。表から見れば、どこにでもある問屋の蔵だ。だが宗兵衛はその奥、俵を少しどかした向こうを示した。


「これです」


 そこにあったのは、布をかけた木箱だった。


 大きさは、鹿島から奪われた箱とまったく同じではない。だが、布をめくった瞬間、卜伝の呼吸がわずかに止まる。


 金具。


 木地の線。


 角の収まり。


 鹿島の箱と、同系統の作りだ。


 ただの商い荷ではない。由緒ある品を収める箱に近い。あるいは、その箱そのものかもしれぬ。


 小夜もそれを見て、すぐに目つきを変えた。


「……これ」

「分かるのか」

 新九郎が聞く。

「鹿島そのものとは断言できない。でも、少なくとも普通の大工仕事じゃないわ。社家筋や由緒ある家で使う類の細工に近い」

「中身は」

 卜伝が問う。


 宗兵衛は首を横に振った。


「開けていません」

「なぜ」

「開けたら、本当に“知った者”になる」

「……」


 その言い分は、情けなくもあり、同時に川湊の現実でもあった。


 知らぬ顔をしていれば、まだ逃げ道がある。知ってしまえば、関わった者になる。宗兵衛はそのギリギリのところで、蔵へ入れ、しかし開けずにいたのだろう。


「中身を確かめるか」

 新九郎が言う。


 卜伝は箱を見つめた。


 開けたい。


 中身を見れば、鹿島から奪われたものかどうか、さらに確かな線がつくかもしれない。


 だが、それと同時に、今はもっと大事なことも分かっていた。


 この荷は今夜、動かされる。


 つまり守る対象は、中身だけではない。この“箱そのもの”が動く荷であり、流れの要だ。ここで開けて痕跡を残し、向こうに察されるより、今はどう通させないかを先に決めるべきだ。


「まだ開けない」

 卜伝が言った。

「今は“これを通させない”ことが先です」

 小夜がすぐ頷く。

「賛成」

「俺もだ」

 新九郎が言う。

「中身より先に、動きそのものを止めたほうがいい」


 宗兵衛はそこで初めて、ほんの少しだけ安堵の色を見せた。


「……ありがとうございます」

「礼はまだ早い」

 卜伝が言う。

「今夜を越えてからです」

「はい」


 蔵のひんやりした空気の中で、木箱の金具だけが鈍く光っていた。


 鹿島の箱と同系統の意匠。


 真壁の流れ。


 そして、今夜別の舟へ積み替えられるはずの荷。

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