第十五話 流れる荷、消える荷
川湊の朝は、夜よりも隠しごとが多い。
夜には夜の闇がある。だが、闇に紛れる者はそれだけ目立つ。逆に朝は、人も荷も水も、全部が最初から動いている。最初から動いている中へ、一つ二つ余計な流れが混じっても、よほどよく見なければ気づけない。
卜伝はそのことを、川湊に入って二日目の朝にはもう感じていた。
湊の表筋は朝から忙しい。舟が着き、荷が降り、問屋の手代が札を見て怒鳴り、人足が汗を流し、飯屋の湯気が立つ。昨夜のうちに見た荷の一団が消えた蔵裏のあたりも、朝になればまた何事もなかったような顔へ戻っている。普通の荷が出入りし、普通の人足が運び、普通の問屋の顔で商いが回る。
だが、本当に普通なら、これほど目が泳ぐ者はいない。
卜伝は宿へ戻ってから、昨夜見たことを一通り話した。腕に傷のある男のこと。鹿島の意匠に似た荷札。荷そのものより周りが警戒していたこと。蔵裏へ消えたあと、すぐ表から見えぬ流れへ乗せ換えた気配があったこと。
それを聞いた小夜は、指先で膝を軽く叩きながら言った。
「やっぱり」
「何がです」
卜伝が問う。
「品そのものを湊へ置いてるんじゃないのよ」
「では?」
「流してるの。ここへ一度入れて、名目と荷札を変えて、別の荷へ紛れさせてる」
道賢も頷いた。
「そう考えると筋が通る」
「荷札と中身が合わぬ荷が増えておる、という話もな」
「……それ、もう拾ったんですか」
卜伝が聞くと、道賢は胡散臭く笑った。
「昨日のうちにな」
「早いわよね、この坊主」
小夜が言う。
「わたしも問屋筋の話をいくつか聞いたけど、似たようなことを言っていた」
「どういうことだ」
新九郎が腕を組んで聞く。
小夜は宿の卓へ簡単な印を書きながら説明した。
「本来なら、荷札っていうのは中身と行き先の印になるでしょう」
「まあそうだな」
「でも近ごろ、この川湊では“荷札と中身が合わない荷”が増えてるんですって」
「間違いじゃなく?」
卜伝が聞く。
「最初は間違いだと思われてたみたい。でも回数が多すぎるのよ。しかも、間違ってる荷ほど、なぜか早く流される」
「つまり」
新九郎が目を細める。
「わざとか」
「ええ」
小夜が頷く。
「たとえば表向きは干物、実際は書付や箱。あるいは反物の荷札がついているのに、中は細工物。そうやって一度“名前”を変えてしまえば、元が何だったかを追いにくくなる」
卜伝は、その言葉に妙な寒気を覚えた。
名前を変える。
鹿島の蔵から奪われた箱も、ここではもう鹿島の箱ではない。どこかの問屋の荷になり、あるいは別の村の年貢荷になり、あるいはただの木箱として川を下る。名を奪うというのは、こういうことか。
「真壁は」
卜伝が低く言う。
「ただ盗んでいるんじゃない」
「最初からそう言ってるでしょう」
小夜が言う。
「人も物も、“別の顔”に変えて流してるのよ」
「厄介だな」
新九郎が鼻を鳴らす。
「斬って終わりの手合いじゃねえ」
「ええ」
道賢が応じる。
「むしろ斬っても終わらぬ類だ。湊そのものの流れに指をかけておる」
新九郎はそこで少しだけ顔をしかめた。
「で、俺のほうでも似た話がある」
「何を拾ったの」
小夜が聞く。
新九郎は昨日、人足や荷駄崩れが集まる寄り合いへ顔を出していた。賭場そのものではないが、酒と銭と怒鳴り声が混ざる、半ば博打場のような場所だ。ああいうところでは、言葉の選び方を間違えると殴り合いになる。だがうまく混ざれれば、表では出ない本音が聞こえる。
「“真壁様の荷は問うな”ってよ」
新九郎が言った。
「誰も名前を大きくは出さねえが、そういう空気がある」
「……真壁様」
卜伝が繰り返す。
「やっぱり“様”付きなのね」
小夜が言う。
「まあな。嫌味ってより、ほんとにそう呼んでる感じだ」
「恐れてるのか」
「半分はな。残り半分は、逆らうと商いも仕事も干されるって打算だ」
「つまり、川湊の中にも味方がいる」
卜伝が言う。
新九郎は頷く。
「味方っていうより、“関わりたくねえから従う”やつも多い。けど、同じことだろ。人足にしても手代にしても、食うためなら目をつぶる」
「それが流れの怖いところね」
小夜が言う。
「一人二人悪いんじゃない。流れの中に悪さが混ざると、誰も止めにくくなる」
卜伝は黙っていた。
鹿島の中で起きた盗みなら、守る場所は見えていた。宿場の襲撃なら、守るべき宿と人があった。だが川湊は違う。人も物も動き続け、誰もが流れの一部になっている。敵はそこへ紛れて、見えぬように荷を消していく。
この相手には、ただ剣を抜くだけでは届かぬ。
だが届かぬからといって、見ているだけでいいわけもない。
「昨日の傷のある男」
卜伝が言った。
「あれをもう一度見ます」
「どこで?」
小夜が問う。
「荷揚げ場と、裏へ消えた蔵の周りです」
「見つけたら?」
「追います」
「昨日と同じく、ひとりで?」
「……いや」
卜伝はそこで少し言葉を切った。
以前なら、もう少し早く「自分が見る」と言っていたはずだ。だが今は違う。流れの中で何が起きているかを追うには、自分の目だけでは足りぬ。
「見つけたら、まず合図を出します」
卜伝が続けた。
「相手は一人ではない」
「よろしい」
小夜がすぐ言う。
「ようやく旅人の頭になってきた」
「言い方が気に入りません」
「でも前より正しいでしょ」
「……否定はしません」
新九郎が吹き出した。
「素直になったなあ」
「なっていません」
「いや、なってる」
「二人で揃って言わないでください」
それでも、言われること自体にはもう以前ほど腹が立たなくなっていた。自分が何を見落としやすく、何が足りぬかを、旅の中で嫌でも知ったからだろう。
その日の昼前、卜伝は再び荷揚げ場へ出た。
昨日よりもさらに人が多い。上流からの舟が二艘同時に着き、筏を解く者たちと荷降ろしの人足が入り乱れている。濡れた板の上を駆ける音。魚を積んだ桶が擦れる音。水気を帯びた風が肌へ当たる。川湊は、見ているだけで体の外側まで忙しくなる町だった。
卜伝は表の喧騒へ紛れながら、昨日と同じあたりへ目を向けた。
昨日、傷持ちの男がいた一団は見えない。だが蔵裏へ向かう人の流れの中に、妙に急ぎすぎる荷車がひとつある。荷は小ぶりの木箱が三つ。その上から干し草のようなものを雑に載せている。雑に見せているが、縄の結びだけがやけに丁寧だ。
卜伝はその荷車の後を、離れて追った。
蔵裏へ入る。
そこで一度、荷車は止まる。男たちが周囲を見る。表からは見えぬ位置だ。卜伝は物陰へ身を寄せた。
箱のうち一つの布がめくれた。
金具。
木地の線。
昨日よりはっきり見えた。
鹿島の蔵にあった箱と、同じ系統の意匠だ。まるきり同一かどうかまでは分からぬ。だが、少なくとも普通の商い荷ではない。
その箱は、すぐに別の荷へ紛れさせられた。
干し草の下から出されたあと、一度だけ蔵の中へ入り、少ししてから俵と樽に挟まれた別の荷車へ移される。荷札も違う。最初は木の札だったものが、次には墨書きの紙へ変わっている。
卜伝は息を浅くした。
こういうことか。
箱そのものを追うのではもう足りない。湊へ入った時点で、荷は名を変え、札を変え、別の荷に紛れる。目の前で“消えている”のではない。“別のものになる”ことで消えているのだ。
「……流している」
小さく呟いた瞬間、後ろから気配がした。
卜伝は即座に振り向く。だが敵ではなかった。道賢だ。
相変わらず胡散臭いほど自然な顔で、杖をついて立っている。
「坊主」
卜伝が低く言う。
「脅かさないでください」
「脅かしたつもりはない」
「ありました」
「そうか」
道賢はしれっと言ってから、卜伝の見ていた先へ視線を向けた。
「見えたか」
「ええ」
「どう見えた」
「鹿島の箱らしきものが、一度入って、別の荷へ紛れました」
「ふむ」
「荷札も変わった」
「そうだろうな」
「分かっていたのですか」
「予想はな」
道賢は、蔵裏の細道を吹き抜ける風の向こうに言った。
「湊では、物は消えぬ。消えるように見せるだけだ」
「……」
「どこかへ行ったのではなく、名前を変えた。持ち主を変えた。積み先を変えた。そうやって“元のものではなくなった”顔をさせる」
「真壁の手口か」
「真壁一人の手ではあるまい。だが、真壁の流れではある」
卜伝は、そこで初めて、自分が“見る”ことの意味を少し掴んだ気がした。
剣はまだ抜いていない。
誰も倒していない。
だが、敵が何をしているかは見えた。どうやって奪ったものを隠し、別の名へ変え、川へ流していくのか。そのやり方の輪郭が見えた。
見ることもまた、戦いのうちなのだ。
「お前さん」
道賢がふいに言う。
「少し、目が変わったな」
「そうですか」
「昨日までは、見たものをそのまま剣へ繋げる目だった。今は、その前に“どう流れているか”を見ようとしておる」
「……」
卜伝は返事をしなかった。
褒められたくてやっているわけではない。だが、そう言われて嫌ではなかった。剣しか知らぬと突きつけられて鹿島を出た自分が、少しでも違うものを掴み始めているなら、それは進んでいるということだ。
その時、細道の向こうから小夜が早足でやってきた。顔つきが少し違う。何か掴んだ時の顔だ。
「見つけた?」
彼女が小声で言う。
「荷のすり替え」
「ああ」
卜伝が頷く。
「そっちもか」
「ええ。問屋筋の若い手代が、かなり怯えた顔で変なことを言ったの」
「何を」
「“最近は、荷の中身が合ってるかなんて聞かないほうが長生きする”って」
「……」
「しかも、それを言ったあと、すぐ黙った。まるで誰かに聞かれるのを怖がるみたいに」
新九郎も少し遅れてやってきた。人足の輪から抜けてきたらしく、肩に埃がついている。
「こっちも似た話だ」
と彼は言った。
「荷を担ぐやつら、あからさまに“触るな”って荷があるらしい。中身は知らされねえ。札だけ変わる。行き先だけ変わる。で、“真壁様の荷は問うな”だ」
「全部、つながったわね」
小夜が言う。
卜伝は静かに頷いた。
鹿島から奪われた品。
宿場で見た怪しい一団。
川湊へ入る荷駄。
荷札と中身の食い違う荷。
蔵裏での積み替え。
“真壁様の荷は問うな”という人足たちの怯え。
情報が、一本の線になっていく感覚があった。
真壁配下は、ただ散らばっているのではない。かなり組織的に動いている。荷を運ぶ者、札を変える者、蔵を押さえる者、問屋筋へ圧をかける者、そしてそれを守る荒事役。川湊そのものを中継点として使い、由緒ある品を別の名目で流しているのだ。
卜伝は、その流れの太さに少し息苦しさを覚えた。
相手は大きい。
だが、大きいならこそ、どこかに綻びがあるはずでもある。
「……誰かいる」
新九郎が低く言った。
三人が同時に顔を上げる。
細道の入口のほうに、人影がひとつ見えた。年は二十代半ばほどか。上等すぎぬが、手入れのされた小袖。手代か若旦那かという身なりだが、立ち方には町人だけではない緊張がある。こちらへ来るべきか迷い、だが来ねばならぬという顔をしている。
道賢が小さく鼻を鳴らした。
「ようやく、向こうから来たか」
「知ってる顔?」
小夜が聞く。
「問屋の宗兵衛のところの若旦那だ」
「若旦那?」
新九郎が言う。
「そんなのが俺たちに何の用だ」
「それは、本人に聞け」
若い男はあたりを気にしながら近づき、卜伝たちの前で一度深く頭を下げた。
「……突然、失礼いたします」
声音は低い。だが、ひどく張っていた。
「あなた方が……鹿島から来た旅の方々でしょうか」
卜伝は相手の目を見た。
怯えている。
ただの好奇心ではない。
助けを求めに来た者の目だ。
川湊の流れの中で、ついに向こうから手を伸ばしてくる者が現れた。
第二章の戦いは、ここからさらにひとつ深い流れへ入っていく。




