第十三話 川へ向かう道、流れの先にあるもの
焼け跡の匂いは、朝になってもすぐには消えなかった。
火の気が落ち、黒く湿った柱が朝日に照らされても、昨夜の熱はまだそこに残っている。濡れた灰、焦げた木、煮えた油、火を消すためにぶちまけた水の生臭さ。宿場の朝は本来なら、人足の掛け声や、商いの支度や、飯を炊く匂いで始まるものだろう。だがこの日は違った。どこかひとつ、息の仕方が変わってしまったような朝だった。
卜伝たちは、その焼け跡を背にして街道へ戻った。
宿の主は、まだ煤のついた顔で何度も頭を下げた。女中たちも疲れ切った顔で見送った。救えた者がいる。その事実は確かだった。けれど、何も失わずに済んだわけではない。焼けた柱も、怯えた顔も、昨夜の悲鳴も、全部残っている。
だからこそ、そこに長く留まる気にはなれなかった。
真壁又十郎は去った。
去る前に、一部だけをわざと残した。
木札。紙片。荷印。川湊へ通じる痕跡。
まるで、追えるものなら追ってこいとでも言うように。
卜伝は歩きながら、そのことを何度も思い返していた。
鹿島を出たばかりの頃は、ただ追うつもりだった。盗まれたものを追い、賊を追い、真壁へ届く道を追う。それで十分だと思っていた。
だが、宿場の火を見たあとでは、それだけでは足りぬと分かる。
真壁は、剣で人を斬るだけの男ではない。
人の流れを使う。荷の流れを使う。噂を使う。脅しを使う。由緒や名や兵法書の意味を知ったうえで、それを自分の側へ引き寄せる。あれはただの盗人ではない。世の流れの中へ、刃とは別の手も伸ばしている男だ。
ならば、次に会うまでに要るものは何か。
卜伝はそれを考え続けていた。
ただ一対一で勝てる剣か。
違う。
守るべきものがあり、場が燃え、人が散り、敵が役目を分けて動く時、その中で届く剣だ。真壁のように“剣を持つ者の理屈”まで使う相手に対して、それでも折れぬものが要る。
その答えは、まだ言葉にはなっていなかった。
ただ、足りぬという実感だけが、以前よりはっきりと胸にあった。
「また考え込んでる」
横から小夜の声がした。
卜伝は前を向いたまま答える。
「歩いているだけです」
「その顔で?」
「顔は自分で見えません」
「見えなくても重い顔は分かるの。旅人にしては重すぎる顔」
「宿が燃えた翌朝に軽い顔をしているほうがどうかしています」
「それはそうだけど」
小夜は少しだけ笑って、それから空を見上げた。
宿場を離れてしばらく経つと、道の空気がまた変わり始めていた。人の多さはまだある。だが宿場近くの埃っぽさや、荷と銭の匂いは薄れ、代わりに土と草と水気のある風が混じってくる。街道の脇には低い野が広がり、ところどころに水をたたえた田や、小さな流れが見えた。
川へ向かっている。
そのことを、まず風が教える。
「この先は、もう宿場とは違う」
小夜が言った。
「川湊は?」
卜伝が問う。
「もっと流れる場所よ」
「流れる」
「ええ。物だけじゃない。噂も、人も、金も、名前も」
「名前もか」
「川のあるところって、昔からそうなの。人が集まるでしょう。荷が集まるでしょう。それを待つ人も、横取りしたい人も、便乗したい人も集まる」
「嫌な場所だな」
新九郎が前のほうで言う。
「まだ着いてもいねえのに面倒そうなのが分かる」
「面倒に決まってるでしょう」
小夜が返す。
「宿場よりもっと、“誰が何を運んでいるか分からない”場所なんだから」
「そりゃ俺が嫌いな種類の面倒だ」
「あなた、好きな面倒はあるの?」
「ある」
「何よ」
「殴れば静かになるやつ」
「最低ね」
「一番分かりやすいだろ」
そう言いながら、新九郎の声にはいつもの調子が戻っていた。宿場の火事のあとでも、この男はあまり長く沈まない。いや、沈まぬようにしているのかもしれない。軽口を叩ける間は、まだ動けるということなのだろう。
道賢は少し前を杖をついて歩いていたが、二人のやり取りを聞いて鼻を鳴らした。
「分かりやすいものほど、後で面倒が残る」
「坊主、毎回それっぽいこと言うな」
新九郎が振り返る。
「それっぽいのではない。そういうものだ」
「じゃあ、川湊ってのはどういうものだ」
卜伝が問う。
道賢は足を止めずに答えた。
「陸の道より、水の道のほうが人を隠す」
「隠す?」
小夜が目を細める。
「どういう意味」
「陸の道は、結局は足で行く。通れる道も限られる。村を通り、宿場を通り、関所を通る。目は多い」
「水は違うと?」
卜伝が聞く。
道賢は杖の先で道端の浅い流れを示した。
「流れに乗るものは、誰がどこから来てどこへ消えるか、陸より曖昧になる。舟を一艘替えれば名も変わる。荷をひとつ積み替えれば持ち主も曖昧になる。人も同じだ」
「だから真壁は川へ流す」
小夜が低く言う。
道賢は答えない。だがその沈黙自体が、肯定だった。
真壁又十郎。
その名を思い出すだけで、卜伝の中の熱はまだ冷めない。
火の向こうに立っていた姿。若く、落ち着き払い、盗人の頭というより武家の兵法者のような身なり。剣のことを認めながらも、「強い剣などこの世にはいくらでもある」と笑った声。
あの時の短い打ち合いを、卜伝はもう何度も頭の中で繰り返していた。
間は近かった。
抜きは鋭かった。
だが、それだけではない。斬る気配を全面へ出さぬまま、こちらの反応を見ていた。勝つための剣というより、“量るための剣”だった。どこまで来るか、どこで焦るか、どこで守るほうへ引くか。あの男は、打ち合いの中でそれを見ていた。
こちらはどうだったか。
届かぬ相手ではない、と思った。
だが届くとも言えぬ。
一対一なら手応えはある。けれど、真壁と戦う場はきっといつも一対一ではない。火を使い、人を散らし、役目を分け、流れを使う。そういう相手に、剣だけで勝つとはどういうことか。まだ答えは遠い。
「おい」
前を歩いていた新九郎が急に足を止めた。
卜伝と小夜も顔を上げる。
道は緩やかに低いほうへ下っており、その先に、まだ遠いが川の気配があった。水面そのものは見えない。だが、風が違う。湿り気と、草の匂いと、魚のような微かな生臭さが混じり始めている。
新九郎はその風を受けた顔で、露骨に嫌そうな顔をしていた。
「何だその顔」
小夜が言う。
「川だ」
新九郎が低く答える。
「見れば分かるわよ」
「嫌なんだよ」
「何が?」
「川も船も」
小夜が目を瞬いた。
「……あなた、船が苦手なの?」
「苦手って言うな」
「じゃあ何」
「相性が悪い」
「同じよ」
「違う。苦手ってのは気持ちの問題だろ。相性が悪いのは身体の問題だ」
「つまり酔うのね」
「酔わねえ」
「酔うの?」
「ちょっとだけだ」
「酔うじゃない」
新九郎は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
卜伝は思わず新九郎を見た。あの男にも、こういう苦手があるのかと思うと少し意外だった。荒事に強く、宿場でも村でも妙に場慣れしている男だから、川でも船でも平気な顔をするものと思っていた。
「笑うなよ」
新九郎が言う。
「笑っていません」
「目が少し笑ってる」
「気のせいです」
「いや、お前いま絶対ちょっと面白がったろ」
「少しだけです」
「正直だなおい!」
小夜はもう隠す気もなく肩を震わせていた。
「だって、あなたいつも偉そうなのに」
「偉そうじゃなくて頼もしいんだよ」
「はいはい」
「おい、その“はいはい”は何だ」
「そのままの意味よ」
新九郎はぶつぶつ言いながら歩き出したが、どうにも足取りが普段よりわずかに慎重だった。まだ川湊に着いてもいないのにこれでは先が思いやられる、と卜伝は思ったが、それを口に出すのはやめておいた。
人には人の不得手がある。
自分にもある。剣以外のこと、旅のこと、人の流れのこと。鹿島を出てから、その不得手を散々思い知らされている。ならば新九郎にだけ強がれとは言えぬ。
そう思うと、少しだけこの男が人間らしく近く見えた。
昼を過ぎる頃には、街道の景色はさらに変わった。
低い地が増え、土の色も水を含んだ黒さを帯びてくる。道端には葦に似た草が揺れ、細い流れがあちこちに枝分かれしていた。鳥も、山のほうにいるものとは違う声で鳴く。高く鋭く、あるいは水辺に低く響く声だ。
風が渡るたび、葉ではなく草が大きく波を打つ。遠くで水がきらりと光るのが見え、卜伝はようやく「川へ向かっている」という実感を目で掴んだ。
「ここから先は、もう地面の顔も違うわ」
小夜が言う。
「同じ道に見えます」
卜伝が答えると、
「見えてるなら、まだ鹿島の顔が残ってる」
と小夜は言った。
「どう違う」
「足を取られるの。陸は踏めば返ってくる。でも水辺は、返るようで返らない」
「それ、剣の話みたいだな」
新九郎が横から言う。
「まっすぐ踏み込んだら、そのまま持っていかれるってことだろ」
「そういうこと」
小夜が頷く。
卜伝はその言葉を胸の中で反芻した。
踏み込んだ足が返ってこない地。
それは、真壁と短く打ち合った時の感覚にも少し似ていた。こちらの剣は入る。だが、相手の場にそのまま持っていかれそうになる。自分の勝ち筋だけで押し切れる相手ではない。
ならば次に要るのは、もっと別の踏み方だ。
状況を見て、守るものを見て、相手の流れごと読んで、それでも届く足。
そこまで考えた時、前を行く道賢がふと手を上げた。
「止まれ」
短い声だった。
一行が足を止める。
街道の少し先、道が緩く曲がるところから、荷駄の一団がこちらへ向かってきていた。馬ではなく牛に引かせた荷車が二つ、その脇を人足風の男が四人、後ろに荷札をまとめた手代らしき者が一人ついている。
別に珍しい光景ではない。
川湊が近いなら、荷駄はいくらでも行き交う。
だが、道賢の声には理由があるはずだ。
「何だ」
新九郎が小さく言う。
「静かに見ておれ」
道賢は答えた。
卜伝は荷駄へ目を向けた。
布をかけた木箱。樽。縄で縛られた俵。荷姿に特別不自然なところはない。だが、先頭の荷車の側面に下がった荷札が風でめくれた瞬間、卜伝の視線が止まった。
意匠。
鹿島のものに似ている。
まったく同じではない。だが、木札の端へ刻まれた流れるような線と、小さな金具の形が、鹿島神宮の蔵で見た意匠にひどく近い。あれがただの商い荷に使われるものとは思えなかった。
「……小夜殿」
卜伝が低く言う。
「見ましたか」
「ええ」
小夜の目も細くなっている。
「鹿島そのものじゃない。でも、寄せてる。あるいは、同じ系統の手から出た印かもしれない」
新九郎が舌打ちした。
「こんなところでか」
「静かに」
道賢がまた言う。
荷駄の一団は、こちらを通り過ぎる時に一瞬だけ目を向けてきた。人足風の男たちの目は普通だ。だが、後ろについていた手代風の男だけが、卜伝たちを見た瞬間にほんの僅か、視線の置き方を変えた。
測った。
そういう目だった。
卜伝の背中に、宿場で感じたものに似た冷たさが走る。
やはり見られている。
追っているつもりでいて、こちらもまた流れの中で見定められている。
荷駄はそのまま川湊の方角へ進んでいく。追えば追える距離だ。だが今ここで迂闊に動けば、向こうにこちらの熱が見えるだけだろう。
「どうする」
新九郎が低く問う。
卜伝は、荷駄の消えていく先を見た。
第二章の道は、もう始まっている。
焼け跡を出た旅の空気は、ここで完全に陸から水へ切り替わった。
そしてその流れの先には、真壁の手がすでに伸びている。
卜伝は静かに答えた。
「まずは川湊へ入る」
「それから?」
小夜が聞く。
卜伝の目は、荷駄が消えた先をまっすぐ見ていた。
「流れの中で、あれが何なのか見極める」
風が水の匂いを運んでくる。
川はまだ見えない。
だがその流れは、もう卜伝たちの足元まで来ていた。




