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戦国異聞伝『塚原卜伝 ――鹿島立ちの剣、戦国を渡る』  作者: 常陸之介寛浩㊗️オリコン週間ランキング9位㊗️


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第十二話 鹿島立ちの剣、最初の一歩を越える

 火の気がようやく落ち着いた頃には、夜はもう半ばを過ぎていた。


 宿の母屋はかなり焼けた。柱の何本かは黒く焦げ、屋根の一部も落ちている。だが、裏手と離れはどうにか残り、宿の者も旅人も命を落とさずに済んだ。焦げた木の匂いと、濡れた灰の匂いが夜気に混じり、火事のあとの静けさだけが妙に耳へ残る。


 騒ぎが収まると、人は急に疲れを思い出すものらしい。


 助かった旅人たちは、声を張る力もなくへたり込み、宿の主は焼け残った柱に手をついたまま何度も礼を言った。女中たちも煤だらけの顔で水桶を抱えたまま、ようやく息を吐いている。


 小夜は最後まで人数を数え、怪我の軽重を見て回り、ようやく腰を下ろした。新九郎は肩口の浅手を布で縛りながら、ようやく「腹が減った」と言い出した。道賢だけは、最初からこの結末を半ば読んでいたような顔で、焼け残った板の上に胡坐をかいている。


 卜伝は、少し離れた場所で一人、真壁が残した布包みを見ていた。


 木札。


 紙片。


 荷印。


 そして川湊へ通じる地名。


 ただの置き土産ではない。追うならここまで来い、と真壁がわざわざ残していった痕跡だ。奪った品を全部隠すのではなく、一部だけ返し、残りは持っていく。そのやり方には、こちらを嘲る意図もあるだろう。だが、それだけではない。


 試しているのだ。


 鹿島から出てきた若い剣士が、ここで足を止めるか、さらに先へ来るか。


 卜伝はそれが癪で仕方なかった。


 だが同時に、認めざるを得ないこともあった。


 一対一なら、手応えはあった。


 ほんの短い打ち合いだった。けれど、真壁の刃の運びも、間の詰め方も、こちらは確かに受けている。まるで届かない相手ではない。どこに入り、どこで外し、どこで殺す気配を薄くするのか、その片鱗だけなら見えた。


 だがそれは、一対一の話だ。


 火が上がる宿。


 逃がすべき人。


 狭い廊下。


 複数の襲撃者。


 火付け役、見張り役、足止め役。


 その中で、ただ“相手に勝つ”ことだけを考えていては足りぬ。目の前の敵を斬るより先に、火を踏み消すべき時がある。深追いしたい相手を見送ってでも、逃げ遅れを助けるべき時がある。倒す順も、間合いも、勝ち方も、守るものがある時は変わる。


 師筋の老人の言葉が、今になってまた胸へ落ちてきた。


 お前は勝つ剣しか知らぬ。


 その通りだった。


 鹿島を出る前までの自分は、一人を打ち負かす強さばかりを見ていた。だが旅に出てたった幾日かで、剣の足りなさはもう嫌というほど見せつけられている。


 足りない。


 けれど、足りないからといって引く気はなかった。


 引けるようなら、最初から鹿島を出ていない。


「難しい顔」

 小夜の声がして、卜伝は顔を上げた。


 彼女は煤を拭ったあとでも、まだ頬の端に黒い筋が残っていた。だがその顔には疲れより先に、妙な冴えがある。大きな騒ぎをくぐった後の人間特有の、気持ちだけが妙に澄んでいる顔だ。


「考え事です」

 卜伝が答える。

「見れば分かる」

「なら聞かないでください」

「聞きたいから聞くの」


 小夜はそのまま、卜伝の隣へ腰を下ろした。少し遅れて新九郎もやって来る。


「おう、難しい顔の会か」

「違います」

 卜伝が即座に言う。

「何だよ、つれねえな」

「あなたは難しい顔が続かないでしょう」

「まあな。腹減った顔なら続く」

「さっきも言ってたわね、それ」

「こういう後は腹が減るんだよ。生きてる証拠だ」


 新九郎はそう言って、焼け残った板へどかりと座った。肩の傷は浅いが、布の隙間から赤がにじんでいる。それでも本人は気にする様子もない。


 小夜がちらりとその肩を見る。


「痛くないの?」

「痛い」

「平然としすぎ」

「平然としないと余計痛くなる」

「変な理屈」

「生き残る理屈だ」


 卜伝はその言葉に、少しだけ口元が緩みそうになった。新九郎はこういう時、力んだ空気を一段だけ崩す。それがどれほどありがたいか、今夜はよく分かる。


 しばらくの沈黙のあと、小夜が布包みの中身を見ながら言った。


「次は川湊ね」

「ああ」

 卜伝が答える。

「真壁が向かう先、か」

 新九郎が言う。

「あるいは、向かったように見せたい先」

「どっちにしても、道はつながってる」

 小夜が静かに言う。


 卜伝は頷いた。


 この第1章で得たものは、少なくない。


 鹿島の蔵を荒らした賊の存在。


 “真壁”の名。


 真壁又十郎という男の顔。


 兵法書や由緒ある品を集める理由の一端。


 宿場の裏の流れ。


 そして、川湊へ続く痕跡。


 同時に、失ったものもある。いや、失ったというより、自分の中の思い込みが剥がれたと言うべきかもしれない。


 強ければ足りる、という思い込み。


 一人で追えばよい、という思い込み。


 目の前の敵に勝てば事が済む、という思い込み。


 それらはもう、旅の最初の一歩の中で焼け落ちた。


「逃げる気はないんでしょう」

 小夜がふいに言った。


 卜伝はその問いに、少しも迷わなかった。


「ない」

「でしょうね」

「ありますか」

「わたしもない」

 小夜はあっさり言う。

「ここまで来て、真壁の顔まで見て、はい終わりなんて、そんな気持ちの悪いことできないわ」

「気持ちの悪い、か」

「ええ。だってあの男、わざと残したでしょう。わざと見せたでしょう。人を試すみたいに」

「試してるんだろうな」

 新九郎が言う。

「そういう手合いは、相手が怒る顔まで勘定に入れてる」

「腹立たしい」

 卜伝が言うと、

「今さら?」

 小夜が少し笑った。


 その笑いは、疲れの中でも確かに生きていた。


 新九郎は片膝を立て、夜空の見えぬ暗さを見上げる。


「俺も行くぞ」

「聞いてません」

 卜伝が言う。

「聞かなくても分かるだろ」

「分かっていましたが」

「じゃあいい」

「いいの?」

 小夜が横から言う。

「軽いわね」

「軽くねえよ。ちゃんと理由はある」


 新九郎は珍しく少しだけ真面目な顔になった。


「真壁みたいなのは、放っとくともっと面倒になる。ああいうのは一つ潰さねえと、村も宿場も何度でも食い荒らす」

「義侠心?」

 小夜が問う。

「半分」

「残り半分は?」

「面白くねえからだ」

「やっぱりそれなのね」

「それも大事だぞ。気に食わねえ相手を見逃すと、寝覚めが悪い」


 新九郎らしい理由だった。


 だが卜伝には、その半分の本気がよく分かる。理屈だけで人は長く走れない。腹の底で“気に食わぬ”と思える相手だからこそ、刃も足も鈍らない時がある。


「小夜殿も」

 卜伝が言う。

「本当に来るのか」

「今さら何を聞いてるの」

 小夜は呆れたように言った。

「ここまで一緒に来て、火事の中まで走って、次は帰ると思う?」

「思いません」

「なら聞かないで」

「確認です」

「じゃあ、改めて答えるわ。行く」

「危ない」

「知ってる」

「剣は振れない」

「でも、人は動かせる」

「……」

「今夜だって、ただ守られてただけじゃないでしょう」


 それもまた、言い返せなかった。


 小夜は自分の役目をもう分かっている。剣を振れぬことを劣りだとは思っていない。何を見て、何を拾い、誰を動かし、どこで場を繋ぐか。それを彼女は彼女なりに掴み始めている。


 旅の中で一番変わったのは、自分だけではないのかもしれない。


 そこへ、少し離れたところにいた道賢が、杖をついて近づいてきた。


「ようやく旅の顔になってきたな」


 それは、以前も言われたようでいて、今はもっと重みがあった。


 道賢は四人の前に立つと、焼け跡と、救われた人々と、手の中の布包みをひとつながりに見るような目をした。


「鹿島を出た時のお前さんらは、まだ“鹿島から来た者”の顔が強かった」

「今は違うと?」

 卜伝が問う。


 道賢は頷く。


「今は、道の上で得たものと失ったものを、少しは自分の中で並べられる顔をしておる」

「顔顔って、坊主は顔ばっか見てんな」

 新九郎が言う。

「人は大体、顔に出る」

「お前も胡散臭え顔してるけどな」

「それは元からだ」

 道賢は涼しい顔で返した。


 小夜がそこで小さく笑う。


「否定しないのね」

「否定しても無駄だろう」

「そこは確かに」


 少しだけ空気がほぐれた。


 だが道賢はすぐ、真面目な目に戻る。


「次の土地へ行けば、今度は水と荷と人の流れがもっと速くなる。川湊は宿場よりもさらに、“何が表で何が裏か”が曖昧な場所だ」

「面倒ですね」

 卜伝が言う。

「面倒だ」

 道賢はあっさり答えた。

「だが、真壁が先へ進むなら、お前さんらも進むしかあるまい」

「ああ」

 卜伝は言った。

「行く」


 その声は、自分でも少し前より低くなっていると分かった。


 鹿島を出たばかりの時は、悔しさが先に立っていた。今は違う。悔しさはまだある。腹立たしさもある。だが、それだけではない。自分に足りぬものを知り、それでもなお進むと決めた者の声になりつつある。


「卜伝」

 小夜が言う。

「何です」

「さっきから、ずっと真壁のこと考えてるでしょう」

「考えています」

「一対一なら、どうだった?」

「……」


 卜伝は少しだけ黙った。


 逃げずに答えるべき問いだと思った。


「手応えはあった」

「勝てそう?」

 新九郎が聞く。


 卜伝は首を横に振る。


「まだ分からない」

「珍しく弱気だな」

「弱気ではありません。届かぬ相手ではない。だが、届くともまだ言えない」

「ふむ」

 道賢が鼻を鳴らす。

「ようやく、剣を大きく言わずに済むようになったか」

「以前なら違ったと」

「以前なら、“勝つ”と言っておったろうな」

「……たぶん」

「今は?」

「今は」

 卜伝は真っ直ぐ前を見た。

「勝つだけでは足りないと思っている」

「何が足りない」

 小夜が静かに問う。


 卜伝は答えた。


「守ることだ。読み切ることだ。相手の策ごと越えることだ」

「それでいい」

 道賢が言った。

「ようやく剣が、腕の中だけに収まらなくなってきた」


 夜がさらに深くなる。


 宿場の騒ぎも、ようやく遠くなっていく。救われた人々の安堵の声、焼けた木の崩れる音、誰かが泣く声、誰かが生きていることに笑う声。その全部が、卜伝の耳へ静かに残った。


 旅とは、ただ敵を追うだけのものではない。


 人を助け、火を消し、逃げる者を見送り、守るべきものを数えながら、それでもなお前へ進むものだ。


 そういう旅の中でこそ、剣の意味も変わっていく。


 やがて東の空が、ほんのわずかに白み始めた。


 夜通しの騒ぎだった。だがもう出立の時を遅らせる理由はない。真壁が残した痕跡は、時間が経つほど薄れる。こちらが立ち尽くせば、そのぶん向こうは先へ進む。


 四人は宿場の外れで、荷を整えた。


 小夜は包みを確認し、新九郎は肩の布を締め直し、道賢は杖を持つ手をいつも通りに戻す。卜伝は刀を差し直し、川湊へ通じる方角を見た。


 鹿島を出た時より、景色はもう違って見える。


 道は同じように土の上へ伸びている。空も同じように明ける。だが、自分の目が違う。見えるものが増えた。見えぬものの恐ろしさも知った。それでも足を止めぬ理由もまた、前よりはっきりしている。


「行くわよ」

 小夜が言う。

「おう」

 新九郎が答える。

「さて」

 道賢が杖を鳴らした。

「川の顔を見に行くか」


 卜伝は、最後に一度だけ宿場を振り返った。


 焼け跡はまだ黒い。だが、その黒さの中で、人は立ち直ろうとしている。守れたものがある。守り切れなかったものもある。だが、その両方を抱えて進むしかない。


 卜伝は前を向いた。


 その目は、鹿島を出た時よりも明らかに遠くを見ていた。


 鹿島の剣は、もう土地の中だけでは収まらない。

 乱世の道が、その刃を待っていた。

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