第十二話 鹿島立ちの剣、最初の一歩を越える
火の気がようやく落ち着いた頃には、夜はもう半ばを過ぎていた。
宿の母屋はかなり焼けた。柱の何本かは黒く焦げ、屋根の一部も落ちている。だが、裏手と離れはどうにか残り、宿の者も旅人も命を落とさずに済んだ。焦げた木の匂いと、濡れた灰の匂いが夜気に混じり、火事のあとの静けさだけが妙に耳へ残る。
騒ぎが収まると、人は急に疲れを思い出すものらしい。
助かった旅人たちは、声を張る力もなくへたり込み、宿の主は焼け残った柱に手をついたまま何度も礼を言った。女中たちも煤だらけの顔で水桶を抱えたまま、ようやく息を吐いている。
小夜は最後まで人数を数え、怪我の軽重を見て回り、ようやく腰を下ろした。新九郎は肩口の浅手を布で縛りながら、ようやく「腹が減った」と言い出した。道賢だけは、最初からこの結末を半ば読んでいたような顔で、焼け残った板の上に胡坐をかいている。
卜伝は、少し離れた場所で一人、真壁が残した布包みを見ていた。
木札。
紙片。
荷印。
そして川湊へ通じる地名。
ただの置き土産ではない。追うならここまで来い、と真壁がわざわざ残していった痕跡だ。奪った品を全部隠すのではなく、一部だけ返し、残りは持っていく。そのやり方には、こちらを嘲る意図もあるだろう。だが、それだけではない。
試しているのだ。
鹿島から出てきた若い剣士が、ここで足を止めるか、さらに先へ来るか。
卜伝はそれが癪で仕方なかった。
だが同時に、認めざるを得ないこともあった。
一対一なら、手応えはあった。
ほんの短い打ち合いだった。けれど、真壁の刃の運びも、間の詰め方も、こちらは確かに受けている。まるで届かない相手ではない。どこに入り、どこで外し、どこで殺す気配を薄くするのか、その片鱗だけなら見えた。
だがそれは、一対一の話だ。
火が上がる宿。
逃がすべき人。
狭い廊下。
複数の襲撃者。
火付け役、見張り役、足止め役。
その中で、ただ“相手に勝つ”ことだけを考えていては足りぬ。目の前の敵を斬るより先に、火を踏み消すべき時がある。深追いしたい相手を見送ってでも、逃げ遅れを助けるべき時がある。倒す順も、間合いも、勝ち方も、守るものがある時は変わる。
師筋の老人の言葉が、今になってまた胸へ落ちてきた。
お前は勝つ剣しか知らぬ。
その通りだった。
鹿島を出る前までの自分は、一人を打ち負かす強さばかりを見ていた。だが旅に出てたった幾日かで、剣の足りなさはもう嫌というほど見せつけられている。
足りない。
けれど、足りないからといって引く気はなかった。
引けるようなら、最初から鹿島を出ていない。
「難しい顔」
小夜の声がして、卜伝は顔を上げた。
彼女は煤を拭ったあとでも、まだ頬の端に黒い筋が残っていた。だがその顔には疲れより先に、妙な冴えがある。大きな騒ぎをくぐった後の人間特有の、気持ちだけが妙に澄んでいる顔だ。
「考え事です」
卜伝が答える。
「見れば分かる」
「なら聞かないでください」
「聞きたいから聞くの」
小夜はそのまま、卜伝の隣へ腰を下ろした。少し遅れて新九郎もやって来る。
「おう、難しい顔の会か」
「違います」
卜伝が即座に言う。
「何だよ、つれねえな」
「あなたは難しい顔が続かないでしょう」
「まあな。腹減った顔なら続く」
「さっきも言ってたわね、それ」
「こういう後は腹が減るんだよ。生きてる証拠だ」
新九郎はそう言って、焼け残った板へどかりと座った。肩の傷は浅いが、布の隙間から赤がにじんでいる。それでも本人は気にする様子もない。
小夜がちらりとその肩を見る。
「痛くないの?」
「痛い」
「平然としすぎ」
「平然としないと余計痛くなる」
「変な理屈」
「生き残る理屈だ」
卜伝はその言葉に、少しだけ口元が緩みそうになった。新九郎はこういう時、力んだ空気を一段だけ崩す。それがどれほどありがたいか、今夜はよく分かる。
しばらくの沈黙のあと、小夜が布包みの中身を見ながら言った。
「次は川湊ね」
「ああ」
卜伝が答える。
「真壁が向かう先、か」
新九郎が言う。
「あるいは、向かったように見せたい先」
「どっちにしても、道はつながってる」
小夜が静かに言う。
卜伝は頷いた。
この第1章で得たものは、少なくない。
鹿島の蔵を荒らした賊の存在。
“真壁”の名。
真壁又十郎という男の顔。
兵法書や由緒ある品を集める理由の一端。
宿場の裏の流れ。
そして、川湊へ続く痕跡。
同時に、失ったものもある。いや、失ったというより、自分の中の思い込みが剥がれたと言うべきかもしれない。
強ければ足りる、という思い込み。
一人で追えばよい、という思い込み。
目の前の敵に勝てば事が済む、という思い込み。
それらはもう、旅の最初の一歩の中で焼け落ちた。
「逃げる気はないんでしょう」
小夜がふいに言った。
卜伝はその問いに、少しも迷わなかった。
「ない」
「でしょうね」
「ありますか」
「わたしもない」
小夜はあっさり言う。
「ここまで来て、真壁の顔まで見て、はい終わりなんて、そんな気持ちの悪いことできないわ」
「気持ちの悪い、か」
「ええ。だってあの男、わざと残したでしょう。わざと見せたでしょう。人を試すみたいに」
「試してるんだろうな」
新九郎が言う。
「そういう手合いは、相手が怒る顔まで勘定に入れてる」
「腹立たしい」
卜伝が言うと、
「今さら?」
小夜が少し笑った。
その笑いは、疲れの中でも確かに生きていた。
新九郎は片膝を立て、夜空の見えぬ暗さを見上げる。
「俺も行くぞ」
「聞いてません」
卜伝が言う。
「聞かなくても分かるだろ」
「分かっていましたが」
「じゃあいい」
「いいの?」
小夜が横から言う。
「軽いわね」
「軽くねえよ。ちゃんと理由はある」
新九郎は珍しく少しだけ真面目な顔になった。
「真壁みたいなのは、放っとくともっと面倒になる。ああいうのは一つ潰さねえと、村も宿場も何度でも食い荒らす」
「義侠心?」
小夜が問う。
「半分」
「残り半分は?」
「面白くねえからだ」
「やっぱりそれなのね」
「それも大事だぞ。気に食わねえ相手を見逃すと、寝覚めが悪い」
新九郎らしい理由だった。
だが卜伝には、その半分の本気がよく分かる。理屈だけで人は長く走れない。腹の底で“気に食わぬ”と思える相手だからこそ、刃も足も鈍らない時がある。
「小夜殿も」
卜伝が言う。
「本当に来るのか」
「今さら何を聞いてるの」
小夜は呆れたように言った。
「ここまで一緒に来て、火事の中まで走って、次は帰ると思う?」
「思いません」
「なら聞かないで」
「確認です」
「じゃあ、改めて答えるわ。行く」
「危ない」
「知ってる」
「剣は振れない」
「でも、人は動かせる」
「……」
「今夜だって、ただ守られてただけじゃないでしょう」
それもまた、言い返せなかった。
小夜は自分の役目をもう分かっている。剣を振れぬことを劣りだとは思っていない。何を見て、何を拾い、誰を動かし、どこで場を繋ぐか。それを彼女は彼女なりに掴み始めている。
旅の中で一番変わったのは、自分だけではないのかもしれない。
そこへ、少し離れたところにいた道賢が、杖をついて近づいてきた。
「ようやく旅の顔になってきたな」
それは、以前も言われたようでいて、今はもっと重みがあった。
道賢は四人の前に立つと、焼け跡と、救われた人々と、手の中の布包みをひとつながりに見るような目をした。
「鹿島を出た時のお前さんらは、まだ“鹿島から来た者”の顔が強かった」
「今は違うと?」
卜伝が問う。
道賢は頷く。
「今は、道の上で得たものと失ったものを、少しは自分の中で並べられる顔をしておる」
「顔顔って、坊主は顔ばっか見てんな」
新九郎が言う。
「人は大体、顔に出る」
「お前も胡散臭え顔してるけどな」
「それは元からだ」
道賢は涼しい顔で返した。
小夜がそこで小さく笑う。
「否定しないのね」
「否定しても無駄だろう」
「そこは確かに」
少しだけ空気がほぐれた。
だが道賢はすぐ、真面目な目に戻る。
「次の土地へ行けば、今度は水と荷と人の流れがもっと速くなる。川湊は宿場よりもさらに、“何が表で何が裏か”が曖昧な場所だ」
「面倒ですね」
卜伝が言う。
「面倒だ」
道賢はあっさり答えた。
「だが、真壁が先へ進むなら、お前さんらも進むしかあるまい」
「ああ」
卜伝は言った。
「行く」
その声は、自分でも少し前より低くなっていると分かった。
鹿島を出たばかりの時は、悔しさが先に立っていた。今は違う。悔しさはまだある。腹立たしさもある。だが、それだけではない。自分に足りぬものを知り、それでもなお進むと決めた者の声になりつつある。
「卜伝」
小夜が言う。
「何です」
「さっきから、ずっと真壁のこと考えてるでしょう」
「考えています」
「一対一なら、どうだった?」
「……」
卜伝は少しだけ黙った。
逃げずに答えるべき問いだと思った。
「手応えはあった」
「勝てそう?」
新九郎が聞く。
卜伝は首を横に振る。
「まだ分からない」
「珍しく弱気だな」
「弱気ではありません。届かぬ相手ではない。だが、届くともまだ言えない」
「ふむ」
道賢が鼻を鳴らす。
「ようやく、剣を大きく言わずに済むようになったか」
「以前なら違ったと」
「以前なら、“勝つ”と言っておったろうな」
「……たぶん」
「今は?」
「今は」
卜伝は真っ直ぐ前を見た。
「勝つだけでは足りないと思っている」
「何が足りない」
小夜が静かに問う。
卜伝は答えた。
「守ることだ。読み切ることだ。相手の策ごと越えることだ」
「それでいい」
道賢が言った。
「ようやく剣が、腕の中だけに収まらなくなってきた」
夜がさらに深くなる。
宿場の騒ぎも、ようやく遠くなっていく。救われた人々の安堵の声、焼けた木の崩れる音、誰かが泣く声、誰かが生きていることに笑う声。その全部が、卜伝の耳へ静かに残った。
旅とは、ただ敵を追うだけのものではない。
人を助け、火を消し、逃げる者を見送り、守るべきものを数えながら、それでもなお前へ進むものだ。
そういう旅の中でこそ、剣の意味も変わっていく。
やがて東の空が、ほんのわずかに白み始めた。
夜通しの騒ぎだった。だがもう出立の時を遅らせる理由はない。真壁が残した痕跡は、時間が経つほど薄れる。こちらが立ち尽くせば、そのぶん向こうは先へ進む。
四人は宿場の外れで、荷を整えた。
小夜は包みを確認し、新九郎は肩の布を締め直し、道賢は杖を持つ手をいつも通りに戻す。卜伝は刀を差し直し、川湊へ通じる方角を見た。
鹿島を出た時より、景色はもう違って見える。
道は同じように土の上へ伸びている。空も同じように明ける。だが、自分の目が違う。見えるものが増えた。見えぬものの恐ろしさも知った。それでも足を止めぬ理由もまた、前よりはっきりしている。
「行くわよ」
小夜が言う。
「おう」
新九郎が答える。
「さて」
道賢が杖を鳴らした。
「川の顔を見に行くか」
卜伝は、最後に一度だけ宿場を振り返った。
焼け跡はまだ黒い。だが、その黒さの中で、人は立ち直ろうとしている。守れたものがある。守り切れなかったものもある。だが、その両方を抱えて進むしかない。
卜伝は前を向いた。
その目は、鹿島を出た時よりも明らかに遠くを見ていた。
鹿島の剣は、もう土地の中だけでは収まらない。
乱世の道が、その刃を待っていた。




