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戦国異聞伝『塚原卜伝 ――鹿島立ちの剣、戦国を渡る』  作者: 常陸之介寛浩㊗️オリコン週間ランキング9位㊗️


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第十一話 真壁又十郎、笑う

火は、人を試す。


 燃え上がる時は容赦なく、消えかける時はなお始末が悪い。炎そのものより、熱と煙と、崩れかけた柱のきしみが人の足を止める。宿の裏手では、女中たちが水を運び、旅人たちが半ば我を失いながら荷を抱えようとして、小夜に怒鳴られていた。


「荷はあと! 命が先だって言ってるでしょう!」

「でも、あれは商いの――」

「燃えたら終わり! あなたまで燃えたらもっと終わり!」


 その声が夜気に鋭く走る。


 卜伝は一度だけそれを聞き、すぐまた火の向こうへ目を戻した。


 さきほど見えた男の影は、もうそこにない。だが、いないからこそ確かだった。見間違いではない。あの火の向こうにいたのは、ただの火付け役でも、桐生のような使いでもなかった。場の真ん中にいながら騒がず、こちらを見て、それでいて自分だけは何も乱れていない者の気配。


 あれが真壁又十郎だと、卜伝の勘はもう疑っていなかった。


「卜伝!」

 新九郎が叫ぶ。

「裏の蔵口、まだ火が浅い! 通るなら今だ!」


 その声で、卜伝は意識を現へ引き戻した。


 宿の母屋は火に回ったが、裏手の離れと物置に近い一角はまだ生きている。真壁がそこから抜けるなら、追いつく道がある。だが、全員が無事に出たかを見届けぬまま走るのは、さきほど自分で否定した剣へ逆戻りだ。


「小夜殿!」

 卜伝が怒鳴る。

「人は!」

「女中と宿の主、それに旅人七人! たぶん全部!」

「たぶんじゃ困る!」

「分かってるわよ! 今確認してる!」


 小夜は煤だらけの顔で、裏口から出た者たちを数えている。宿の主も咳き込みながら頷いた。


「二階の客も……今、全部出た」

「間違いありませんね!」

「お、おう……!」


 その返事を聞いた瞬間、卜伝の中でひとつの綱が切れた。


「新九郎殿! 裏へ!」

「待ってました!」


 新九郎がにやりとした。その顔には、火の粉が散る中でも妙な頼もしさがある。荒っぽいが、こういう時に踏み込む足を持つ男だ。


 道賢がその時、煤けた袖で口元を押さえながら言った。


「短く行け。長引けば、向こうの間になる」

「分かっています」

 卜伝が答えると、

「分かっている顔になった」

 と道賢は低く言った。


 卜伝と新九郎は、宿の裏手へ回った。


 裏は表より暗い。火の明かりがあるぶん影はかえって深く、塀の際、物置の陰、井戸端の黒さが妙に濃い。熱気はあるが、風が抜けるぶん煙は薄く、逃げるならこちらだと分かる道だった。


 そして、その道の先に立っていた。


 真壁又十郎。


 月も見えぬ夜だというのに、その男の輪郭は不思議とはっきりしていた。


 若い。


 卜伝が思っていたより、ずっと若い。三十に届くかどうか、そのあたりに見える。だが若造の立ち方ではない。身なりは荒れていない。火付けや盗みを使う男にしては妙に整っていて、浪人というより、どこかの武家に仕える兵法者がそのまま夜へ出てきたようだった。


 着物も帯も、派手ではないが安物には見えぬ。刀の差し方に癖がなく、立つ位置に迷いがない。何より、火を背にしているのに熱に煽られた様子がひとつもなかった。


 真壁は、笑っていた。


 口を大きく開けてではない。ほんの少し、口元だけで笑う。その笑みが、宿の炎よりも卜伝には不気味だった。


「ようやく顔を見せたな」

 卜伝が言う。


 真壁は卜伝より先に、新九郎へ一瞬目をやり、それから卜伝へ視線を戻した。


「鹿島の若いのは、お前か」

「真壁又十郎」

「そう呼ばれている」


 声まで静かだった。落ち着いているというより、場をすでに自分の中へ収めている声だ。


「ずいぶん派手な迎えをする」

 卜伝が言う。

「宿へ火をかけるとは」

「迎え、か」

 真壁は少しだけ肩をすくめた。

「そういうつもりではない。こちらにも都合がある」

「人を焼いておいて都合とは」

 新九郎が唸る。

「てめえ、思ったより小綺麗な面してんな。もっと下種の顔かと思ってた」

「下種、か」

 真壁は気分を害した様子もなく笑った。

「お前のような男にそう言われるのは、あまり痛くないな」

「何だと」

 新九郎が一歩出る。


 だが卜伝は片手でそれを制した。


 今は新九郎の勢いに任せる場ではない。目の前の男は、怒らせて斬り結べばそれで済む相手ではない。言葉もまた剣の一部として使ってくる。


「何が目的だ」

 卜伝が問う。

「鹿島の兵法書か。由緒ある箱か。それとも、この宿場を通る品全部か」

「問いが多いな」

「答えろ」

「答えてどうする」

「斬る」

「そう来ると思った」


 真壁はくすりと笑った。


 その笑い方に、卜伝はかすかな怒りを覚えた。こちらの真っ直ぐさを、まるで稽古場で若い門弟を眺めるように見ている。年長ぶっているというより、自分の立っている位置が上だと疑っていない顔だ。


「お前の剣は悪くない」

 真壁は言った。

「宿での動きも見た。村での働きも聞いた。若いにしては、思ったより考える」

「褒められて嬉しがるとでも」

「嬉しがれとは言わぬ。だが、お前は強い」


 真壁はそこで、一拍置いた。


「だが、強い剣など、この世にはいくらでもある」


 夜の火の音が、そこで急に遠くなったように感じた。


 卜伝は黙って真壁を見る。


 真壁もまた、卜伝の沈黙をよく見ていた。


「剣そのものは、所詮ひとつの道具だ」

 真壁が続ける。

「強いか弱いかは大事だ。だが、それだけでは世は動かぬ。誰が持つか。どこへ差すか。何の名の下に振るうか。人はそこへ従う」

「だから、盗むのか」

 卜伝が低く返す。

「兵法書も、由緒ある品も」

「盗む?」

 真壁は少し首を傾げた。

「乱世に、元の持ち主などどこまで意味がある」

「意味はある」

「あると思いたい者にはな」

「貴様」

「怒るな。怒りは剣を狭めるぞ」


 新九郎がもう一度前へ出かける。


「てめえ、ほんとに腹立つ野郎だな!」

「だろうな」

 真壁はさらりと認めた。

「だが腹の立つ理屈ほど、人は後で思い出すものだ」


 卜伝はそこで、ようやくはっきりと分かった。


 この男は、ただ奪うことを楽しんでいるのではない。


 自分の考えに、理があると本気で信じている。剣も、由緒も、家の名も、持つべき者が持てばよい。その“持つべき者”に自分が入っていると、迷いなく思っている。だから盗みも脅しも、ただの下劣ではなく、“世を渡る手”として平然と使えるのだ。


 卜伝とは根のところで違う。


 剣を何のために持つのか、その答えが、まるで違う。


「お前は」

 卜伝が言う。

「剣を道具だと言うのか」

「言う」

「人を斬るための」

「人を動かすための、だ」

 真壁は即座に返した。

「斬るだけでは足りぬ。名を持つ者を従え、品を持つ者を縛り、欲を持つ者に夢を見せる。そのために剣を持つ。兵法者とは、そういうものでもある」

「違う」

 卜伝は一歩出た。

「少なくとも、私は違う」

「そうだろうな」

 真壁は笑う。

「だから面白い」


 そこまで言った時、真壁の右手がほんのわずかに動いた。


 抜く。


 そう思った瞬間には、卜伝も踏み込んでいた。


 金属が夜を裂く。


 たった一度の打ち合いで、空気が変わった。


 真壁の刀は速い。だがそれだけではない。近い。抜いた瞬間にもう、こちらの中へ半歩入っている。卜伝はそれを受け、流し、返そうとした。だが真壁はそこで無理に押してこない。引きながらこちらの手元を見ている。試している。どこまで来るか、どこで止まるかを、剣そのもので量っている。


 卜伝は二の太刀へ繋げた。


 速く、深く。鹿島の稽古場なら、ここで相手の機を崩せるはずの踏み込み。だが真壁は斬り合わない。半身をひとつずらし、卜伝の太刀筋を紙一枚分で外した。


 近い。


 喉元へ寒気が走る。


 真壁の切っ先が、もうそこまで来ていた。


 卜伝は咄嗟に手首を返し、刃を合わせる。嫌な音。火花。距離が潰れる。


 その一瞬の密度が異様だった。


 長く斬り合っているわけではない。ほんの二合か三合。だがその中に、相手の癖、呼吸、踏み込み、殺気の薄さと深さ、全部が詰まっている。


 真壁はそこで初めて、ほんのわずかに感心したような目をした。


「いい」

 小さく言う。

「やはり、悪くない」


 卜伝はその言葉に腹が立った。評価されたいのではない。斬り伏せたいのだ。だが、その怒りが前へ出すぎれば危ういと、もう体が知り始めている。


 真壁はもう一歩だけ踏み込み、そして自分から引いた。


 新九郎が横から斬りかかる。真壁はそれも受けず、後ろへ跳んだ。塀際へ下がり、闇と火のあいだに距離を作る。


「逃がすか!」

 新九郎が吠える。


「待ってください!」

 卜伝が言った。

「罠かもしれない!」


 その制止に、新九郎は舌打ちしながらも止まる。成長したのは卜伝だけではないのかもしれぬ。以前より、この男もわずかに止まることを覚え始めている。


 真壁は塀際に立ったまま、ふたたび笑った。


「追わぬか」

「追ってほしい顔をしている」

 卜伝が言う。

「ほう」

「それに、今は宿の火が先だ」

「そうだな」


 真壁はまるで、それで合格だと言うような顔をした。


 その表情が、卜伝には何より腹立たしかった。


「鹿島の若いの」

 真壁が言う。

「お前はまだ、剣に意味を求めすぎている」

「意味なく剣を持つ気はない」

「それが若さだ」

「違う」

「違わぬさ。だが、だからこそ伸びる」


 新九郎がとうとう吐き捨てた。


「てめえ、ほんとに人を馬鹿にした笑い方するな」

「馬鹿にはしておらぬ」

 真壁は静かに言う。

「見ているだけだ」


 そこで真壁は、背後の物置の陰へ手を伸ばし、何かをぽんと地へ落とした。


 木箱ではない。布に包まれた小ぶりの包みだ。


「置き土産だ」

 真壁が言う。

「全部は持って行く。だが、全部を隠すほど子どもでもない」

「何だ、それは」

 卜伝が問う。


「鹿島のものの一部だ」

 真壁は答える。

「返してほしいなら、次へ来い」


 その言い方で分かった。


 わざとだ。


 奪った品の一部だけを、わざと残す。すべてを奪い去るのではなく、追わせるために餌を置く。こちらの足を次の場へ向けさせるための、露骨な痕跡だ。


「ふざけるな!」

 新九郎が叫ぶ。

「人を犬みてえに――」

「犬は悪くない」

 真壁が軽く言う。

「追う価値のあるものだけを追う」


 その直後、真壁の背後で短く笛が鳴った。


 合図。


 桐生か、別の配下か。


 真壁はそれ以上長居する気はないらしかった。闇へ下がる前に、最後に卜伝だけを見た。


「次の行き先は、道が教える」

「待て!」

 卜伝が踏み出す。


 だが真壁は、今度こそ闇へ溶けた。追おうと思えば追えたかもしれない。だが、その先にはきっと別の刃がある。火もまだ完全には消えていない。新九郎もそれが分かったのか、今度は無理に出なかった。


 残ったのは、火の粉と、夜の焦げた匂いと、地面に置かれた布包みだけだった。


 卜伝はゆっくりそれへ近づいた。


 罠の可能性はある。だが、ただの爆ぜる仕掛けではないと見えた。布を解くと、中から出てきたのは古い木札と、紙片だった。木札の意匠はたしかに鹿島に連なるものに近い。紙片には、墨で簡潔な荷印と地名が記されている。


 小夜が後から駆けつけ、卜伝の手元を覗き込む。


「見せて」

「これです」

「……この荷印」

 小夜の目が鋭くなる。

「知ってるのか」

 新九郎が聞く。


 小夜は頷いた。


「街道をさらに先へ行った先の川湊へ流れる印よ。物をまとめて、船に乗せる時に使うものに近い」

「川湊……」

 卜伝が低く繰り返す。

「次は水か」

 新九郎が言う。

「面倒ごとが陸から川に変わるだけだな」

「軽く言わないで」

 小夜が言う。

「でも、道筋は見えた」


 卜伝は布包みの中身を見つめたまま、真壁の笑いを思い出していた。


 わざと残した。


 わざと見せた。


 こちらを追わせ、試し、次の場へ引っ張る気だ。


 腹が立つ。だが同時に、これで終わりではないとはっきり分かった。


 真壁又十郎はただ逃げたのではない。


 次の場所を示しながら去ったのだ。そこに来られるなら来い、とでも言うように。


 宿の火はまだ完全には消えていない。だが、人は守れた。奪われた品の一部も戻った。そして、次の行き先を示す痕跡が、卜伝たちの足元へ置かれている。


 第一章の道は、もう後戻りできないところまで来ていた。


 卜伝は包みを握り直す。


 鹿島を出た若鷹は、まだ剣聖ではない。


 だが、追うべき敵の顔を見た。


 そしてその敵が、自分の剣に何を見ているかも知った。


 夜の焼け跡の中、卜伝の胸の内には、悔しさだけではない熱が残っていた。


 守るための剣。


 追うための剣。


 そして、真壁又十郎を越えるための剣。


 そのどれもが、まだ完成ではない。だが未完成であることを、もう恥とは思わなかった。


 恥ではなく、これから埋めるべき距離だ。


 夜風が焼け跡を抜ける。


 その先には、次の道が待っている。

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