第十一話 真壁又十郎、笑う
火は、人を試す。
燃え上がる時は容赦なく、消えかける時はなお始末が悪い。炎そのものより、熱と煙と、崩れかけた柱のきしみが人の足を止める。宿の裏手では、女中たちが水を運び、旅人たちが半ば我を失いながら荷を抱えようとして、小夜に怒鳴られていた。
「荷はあと! 命が先だって言ってるでしょう!」
「でも、あれは商いの――」
「燃えたら終わり! あなたまで燃えたらもっと終わり!」
その声が夜気に鋭く走る。
卜伝は一度だけそれを聞き、すぐまた火の向こうへ目を戻した。
さきほど見えた男の影は、もうそこにない。だが、いないからこそ確かだった。見間違いではない。あの火の向こうにいたのは、ただの火付け役でも、桐生のような使いでもなかった。場の真ん中にいながら騒がず、こちらを見て、それでいて自分だけは何も乱れていない者の気配。
あれが真壁又十郎だと、卜伝の勘はもう疑っていなかった。
「卜伝!」
新九郎が叫ぶ。
「裏の蔵口、まだ火が浅い! 通るなら今だ!」
その声で、卜伝は意識を現へ引き戻した。
宿の母屋は火に回ったが、裏手の離れと物置に近い一角はまだ生きている。真壁がそこから抜けるなら、追いつく道がある。だが、全員が無事に出たかを見届けぬまま走るのは、さきほど自分で否定した剣へ逆戻りだ。
「小夜殿!」
卜伝が怒鳴る。
「人は!」
「女中と宿の主、それに旅人七人! たぶん全部!」
「たぶんじゃ困る!」
「分かってるわよ! 今確認してる!」
小夜は煤だらけの顔で、裏口から出た者たちを数えている。宿の主も咳き込みながら頷いた。
「二階の客も……今、全部出た」
「間違いありませんね!」
「お、おう……!」
その返事を聞いた瞬間、卜伝の中でひとつの綱が切れた。
「新九郎殿! 裏へ!」
「待ってました!」
新九郎がにやりとした。その顔には、火の粉が散る中でも妙な頼もしさがある。荒っぽいが、こういう時に踏み込む足を持つ男だ。
道賢がその時、煤けた袖で口元を押さえながら言った。
「短く行け。長引けば、向こうの間になる」
「分かっています」
卜伝が答えると、
「分かっている顔になった」
と道賢は低く言った。
卜伝と新九郎は、宿の裏手へ回った。
裏は表より暗い。火の明かりがあるぶん影はかえって深く、塀の際、物置の陰、井戸端の黒さが妙に濃い。熱気はあるが、風が抜けるぶん煙は薄く、逃げるならこちらだと分かる道だった。
そして、その道の先に立っていた。
真壁又十郎。
月も見えぬ夜だというのに、その男の輪郭は不思議とはっきりしていた。
若い。
卜伝が思っていたより、ずっと若い。三十に届くかどうか、そのあたりに見える。だが若造の立ち方ではない。身なりは荒れていない。火付けや盗みを使う男にしては妙に整っていて、浪人というより、どこかの武家に仕える兵法者がそのまま夜へ出てきたようだった。
着物も帯も、派手ではないが安物には見えぬ。刀の差し方に癖がなく、立つ位置に迷いがない。何より、火を背にしているのに熱に煽られた様子がひとつもなかった。
真壁は、笑っていた。
口を大きく開けてではない。ほんの少し、口元だけで笑う。その笑みが、宿の炎よりも卜伝には不気味だった。
「ようやく顔を見せたな」
卜伝が言う。
真壁は卜伝より先に、新九郎へ一瞬目をやり、それから卜伝へ視線を戻した。
「鹿島の若いのは、お前か」
「真壁又十郎」
「そう呼ばれている」
声まで静かだった。落ち着いているというより、場をすでに自分の中へ収めている声だ。
「ずいぶん派手な迎えをする」
卜伝が言う。
「宿へ火をかけるとは」
「迎え、か」
真壁は少しだけ肩をすくめた。
「そういうつもりではない。こちらにも都合がある」
「人を焼いておいて都合とは」
新九郎が唸る。
「てめえ、思ったより小綺麗な面してんな。もっと下種の顔かと思ってた」
「下種、か」
真壁は気分を害した様子もなく笑った。
「お前のような男にそう言われるのは、あまり痛くないな」
「何だと」
新九郎が一歩出る。
だが卜伝は片手でそれを制した。
今は新九郎の勢いに任せる場ではない。目の前の男は、怒らせて斬り結べばそれで済む相手ではない。言葉もまた剣の一部として使ってくる。
「何が目的だ」
卜伝が問う。
「鹿島の兵法書か。由緒ある箱か。それとも、この宿場を通る品全部か」
「問いが多いな」
「答えろ」
「答えてどうする」
「斬る」
「そう来ると思った」
真壁はくすりと笑った。
その笑い方に、卜伝はかすかな怒りを覚えた。こちらの真っ直ぐさを、まるで稽古場で若い門弟を眺めるように見ている。年長ぶっているというより、自分の立っている位置が上だと疑っていない顔だ。
「お前の剣は悪くない」
真壁は言った。
「宿での動きも見た。村での働きも聞いた。若いにしては、思ったより考える」
「褒められて嬉しがるとでも」
「嬉しがれとは言わぬ。だが、お前は強い」
真壁はそこで、一拍置いた。
「だが、強い剣など、この世にはいくらでもある」
夜の火の音が、そこで急に遠くなったように感じた。
卜伝は黙って真壁を見る。
真壁もまた、卜伝の沈黙をよく見ていた。
「剣そのものは、所詮ひとつの道具だ」
真壁が続ける。
「強いか弱いかは大事だ。だが、それだけでは世は動かぬ。誰が持つか。どこへ差すか。何の名の下に振るうか。人はそこへ従う」
「だから、盗むのか」
卜伝が低く返す。
「兵法書も、由緒ある品も」
「盗む?」
真壁は少し首を傾げた。
「乱世に、元の持ち主などどこまで意味がある」
「意味はある」
「あると思いたい者にはな」
「貴様」
「怒るな。怒りは剣を狭めるぞ」
新九郎がもう一度前へ出かける。
「てめえ、ほんとに腹立つ野郎だな!」
「だろうな」
真壁はさらりと認めた。
「だが腹の立つ理屈ほど、人は後で思い出すものだ」
卜伝はそこで、ようやくはっきりと分かった。
この男は、ただ奪うことを楽しんでいるのではない。
自分の考えに、理があると本気で信じている。剣も、由緒も、家の名も、持つべき者が持てばよい。その“持つべき者”に自分が入っていると、迷いなく思っている。だから盗みも脅しも、ただの下劣ではなく、“世を渡る手”として平然と使えるのだ。
卜伝とは根のところで違う。
剣を何のために持つのか、その答えが、まるで違う。
「お前は」
卜伝が言う。
「剣を道具だと言うのか」
「言う」
「人を斬るための」
「人を動かすための、だ」
真壁は即座に返した。
「斬るだけでは足りぬ。名を持つ者を従え、品を持つ者を縛り、欲を持つ者に夢を見せる。そのために剣を持つ。兵法者とは、そういうものでもある」
「違う」
卜伝は一歩出た。
「少なくとも、私は違う」
「そうだろうな」
真壁は笑う。
「だから面白い」
そこまで言った時、真壁の右手がほんのわずかに動いた。
抜く。
そう思った瞬間には、卜伝も踏み込んでいた。
金属が夜を裂く。
たった一度の打ち合いで、空気が変わった。
真壁の刀は速い。だがそれだけではない。近い。抜いた瞬間にもう、こちらの中へ半歩入っている。卜伝はそれを受け、流し、返そうとした。だが真壁はそこで無理に押してこない。引きながらこちらの手元を見ている。試している。どこまで来るか、どこで止まるかを、剣そのもので量っている。
卜伝は二の太刀へ繋げた。
速く、深く。鹿島の稽古場なら、ここで相手の機を崩せるはずの踏み込み。だが真壁は斬り合わない。半身をひとつずらし、卜伝の太刀筋を紙一枚分で外した。
近い。
喉元へ寒気が走る。
真壁の切っ先が、もうそこまで来ていた。
卜伝は咄嗟に手首を返し、刃を合わせる。嫌な音。火花。距離が潰れる。
その一瞬の密度が異様だった。
長く斬り合っているわけではない。ほんの二合か三合。だがその中に、相手の癖、呼吸、踏み込み、殺気の薄さと深さ、全部が詰まっている。
真壁はそこで初めて、ほんのわずかに感心したような目をした。
「いい」
小さく言う。
「やはり、悪くない」
卜伝はその言葉に腹が立った。評価されたいのではない。斬り伏せたいのだ。だが、その怒りが前へ出すぎれば危ういと、もう体が知り始めている。
真壁はもう一歩だけ踏み込み、そして自分から引いた。
新九郎が横から斬りかかる。真壁はそれも受けず、後ろへ跳んだ。塀際へ下がり、闇と火のあいだに距離を作る。
「逃がすか!」
新九郎が吠える。
「待ってください!」
卜伝が言った。
「罠かもしれない!」
その制止に、新九郎は舌打ちしながらも止まる。成長したのは卜伝だけではないのかもしれぬ。以前より、この男もわずかに止まることを覚え始めている。
真壁は塀際に立ったまま、ふたたび笑った。
「追わぬか」
「追ってほしい顔をしている」
卜伝が言う。
「ほう」
「それに、今は宿の火が先だ」
「そうだな」
真壁はまるで、それで合格だと言うような顔をした。
その表情が、卜伝には何より腹立たしかった。
「鹿島の若いの」
真壁が言う。
「お前はまだ、剣に意味を求めすぎている」
「意味なく剣を持つ気はない」
「それが若さだ」
「違う」
「違わぬさ。だが、だからこそ伸びる」
新九郎がとうとう吐き捨てた。
「てめえ、ほんとに人を馬鹿にした笑い方するな」
「馬鹿にはしておらぬ」
真壁は静かに言う。
「見ているだけだ」
そこで真壁は、背後の物置の陰へ手を伸ばし、何かをぽんと地へ落とした。
木箱ではない。布に包まれた小ぶりの包みだ。
「置き土産だ」
真壁が言う。
「全部は持って行く。だが、全部を隠すほど子どもでもない」
「何だ、それは」
卜伝が問う。
「鹿島のものの一部だ」
真壁は答える。
「返してほしいなら、次へ来い」
その言い方で分かった。
わざとだ。
奪った品の一部だけを、わざと残す。すべてを奪い去るのではなく、追わせるために餌を置く。こちらの足を次の場へ向けさせるための、露骨な痕跡だ。
「ふざけるな!」
新九郎が叫ぶ。
「人を犬みてえに――」
「犬は悪くない」
真壁が軽く言う。
「追う価値のあるものだけを追う」
その直後、真壁の背後で短く笛が鳴った。
合図。
桐生か、別の配下か。
真壁はそれ以上長居する気はないらしかった。闇へ下がる前に、最後に卜伝だけを見た。
「次の行き先は、道が教える」
「待て!」
卜伝が踏み出す。
だが真壁は、今度こそ闇へ溶けた。追おうと思えば追えたかもしれない。だが、その先にはきっと別の刃がある。火もまだ完全には消えていない。新九郎もそれが分かったのか、今度は無理に出なかった。
残ったのは、火の粉と、夜の焦げた匂いと、地面に置かれた布包みだけだった。
卜伝はゆっくりそれへ近づいた。
罠の可能性はある。だが、ただの爆ぜる仕掛けではないと見えた。布を解くと、中から出てきたのは古い木札と、紙片だった。木札の意匠はたしかに鹿島に連なるものに近い。紙片には、墨で簡潔な荷印と地名が記されている。
小夜が後から駆けつけ、卜伝の手元を覗き込む。
「見せて」
「これです」
「……この荷印」
小夜の目が鋭くなる。
「知ってるのか」
新九郎が聞く。
小夜は頷いた。
「街道をさらに先へ行った先の川湊へ流れる印よ。物をまとめて、船に乗せる時に使うものに近い」
「川湊……」
卜伝が低く繰り返す。
「次は水か」
新九郎が言う。
「面倒ごとが陸から川に変わるだけだな」
「軽く言わないで」
小夜が言う。
「でも、道筋は見えた」
卜伝は布包みの中身を見つめたまま、真壁の笑いを思い出していた。
わざと残した。
わざと見せた。
こちらを追わせ、試し、次の場へ引っ張る気だ。
腹が立つ。だが同時に、これで終わりではないとはっきり分かった。
真壁又十郎はただ逃げたのではない。
次の場所を示しながら去ったのだ。そこに来られるなら来い、とでも言うように。
宿の火はまだ完全には消えていない。だが、人は守れた。奪われた品の一部も戻った。そして、次の行き先を示す痕跡が、卜伝たちの足元へ置かれている。
第一章の道は、もう後戻りできないところまで来ていた。
卜伝は包みを握り直す。
鹿島を出た若鷹は、まだ剣聖ではない。
だが、追うべき敵の顔を見た。
そしてその敵が、自分の剣に何を見ているかも知った。
夜の焼け跡の中、卜伝の胸の内には、悔しさだけではない熱が残っていた。
守るための剣。
追うための剣。
そして、真壁又十郎を越えるための剣。
そのどれもが、まだ完成ではない。だが未完成であることを、もう恥とは思わなかった。
恥ではなく、これから埋めるべき距離だ。
夜風が焼け跡を抜ける。
その先には、次の道が待っている。




