第十話 夜襲、守るものがある剣
夜というものは、昼よりも先に気配が動く。
宿の灯はまだ消えていない。土間では遅くまで飯を食う旅人の声が残り、どこかの部屋では鼾も混じり始めている。酒の匂い、味噌の残り香、油の灯の揺れ。宿場の夜としては何もおかしくない。むしろ、よくある夜だ。
だが、よくある夜ほど、異物は目立つ。
卜伝は部屋の隅に座ったまま、刀へ軽く手を置いていた。窓の外には細い闇があり、廊下の向こうには灯の気配が薄く伸びている。新九郎は柱にもたれているように見えて、片目は開いている。小夜は宿の女中に最後の段取りを伝えたあと、部屋へ戻ってきていた。道賢は何をしているのかと思えば、まるで寝ているような顔で胡坐をかいている。
全員が静かだった。
静かだが、休んではいない。
昼の裏道で桐生と会ってから、何も起こらぬはずがない。そう思って構えた夜だ。だからこそ、些細な違和も拾いやすい。
最初にそれへ気づいたのは、匂いだった。
卜伝の鼻が、かすかな油の臭いを捉える。
宿という場所に油の匂いがないわけではない。灯をともす以上、油はどこにでもある。だがこれは、灯の油とは違う。もっと生々しく、何かへ塗ったばかりの匂いだ。
卜伝はすっと顔を上げた。
「……来る」
声は小さかった。
新九郎の目が開く。
「どこだ」
「裏だ。廊下の外側」
「油?」
小夜がすぐ問う。
「ええ」
「火をつける気ね」
小夜の声が低くなる。
道賢がその時ようやく目を開け、まるで最初から起きていたような顔で立ち上がった。
「騒ぐ前に宿の者を動かせ」
「私が行く」
小夜が即答する。
卜伝は一瞬だけ小夜を見た。危ない、と言いかけるより先に、小夜の目が「分かってる」と返してきた。もう彼女は、ただ守られるだけの顔をしていない。
「女中には伝えてある。裏口から出せる人から出す」
「子ども連れや年寄りを先にだ」
道賢が言う。
「騒ぎを表へ漏らしすぎるな。火が出たと分かる前に、逃がせるだけ逃がす」
「分かった」
小夜は頷き、すぐ部屋を出た。
新九郎が立ち上がり、腰の刀を鳴らす。
「じゃあ、俺たちは火付け役を叩くか」
「いや」
卜伝は首を振った。
「まず廊下です」
「何でだ」
「火をつけるのが目的なら、すでに何手かに分かれている。外だけ見れば中を抜かれる」
「……なるほど」
新九郎の口元が歪む。面白がっているのではない。考えが通じた時の顔だ。
卜伝は刀を抜いた。鞘走る音は細く、短い。夜の部屋にはそれだけで十分だった。
「新九郎殿は前を」
「おう」
「私は横へ回ります」
「一人で抱えるなよ」
「抱えません」
「その顔は抱える顔だ」
「言ってる場合じゃない」
「違いねえ」
二人は部屋を出た。
宿の廊下は夜になると昼よりずっと狭い。灯があっても影が濃く、板の軋みひとつが耳につく。向こうから誰かが走れば、その音だけで距離が分かる。逆に言えば、間違えればすぐに詰まる。
角を曲がった先で、最初の影が動いた。
黒っぽい布で口元を隠した男が、油の入った壺を持っている。火付け役だ。卜伝が踏み込むより早く、新九郎が正面から突っ込んだ。
「おらっ!」
大声とともに体ごと当たる。男は壺を取り落とし、油が板に散った。そこへ卜伝が横から入り、手首を斬る。男が声を上げる前に、新九郎の拳が顔へ入った。
「一人!」
卜伝が言う。
「後ろにもいる!」
新九郎が即座に返す。
廊下の先、暗がりから足音が三つ。
多い。
しかも、外に火付け役がいるなら中にも入り込んでいる。宿ごと燃やし、混乱の中で狙った荷を取るつもりか、それとも最初から自分たちを焼き込めるつもりか。
卜伝はそのどちらでもおかしくないと思った。
次の影が廊下へ躍り出る。
刀。
その後ろにさらに二人。狭い廊下では一度に三人は並べぬ。だが、前を押さえている間に横の部屋や階段へ散られれば厄介だ。
卜伝は正面の男へ斬りかかった。
相手の刃を受け流し、喉へ入る。だが、そこで倒しきらずに半歩だけ外へずれた。今までなら、確実に一本を取りに行っていたはずだ。だが今は違う。後ろの二人を通さぬことが先だ。
「通すな!」
新九郎が叫ぶ。
言われずともそのつもりだ。
卜伝は倒れかけた男の体をわざと廊下の中央へ崩し、その向こうから来る二人の足を止めた。狭い場所では、倒れた人間ひとりが壁にもなる。
「ちっ!」
後ろの男が舌打ちする。
そこへ新九郎が斬り込んだ。荒い。だが荒いからこそ、相手は受けに回るしかない。押し込まれ、後ろの男までつかえる。
卜伝はすぐ別の音を聞いた。
階下だ。
誰かが土間へ入った。
「下へ回る!」
卜伝が言う。
「ここは俺が押さえる!」
新九郎が吠える。
「早く行け!」
新九郎のこういうところは頼もしい。真正面を預けるなら、この男は強い。
卜伝は廊下の外側へ身を滑らせ、階段へ向かった。宿の中はもう完全に静かではない。怯えた声、女中の足音、表ではまだ騒ぎに気づかぬ旅人の戸惑い。火の臭いもじわりと強くなる。
階段を下りた先で、小夜が二人の旅人を裏口へ押し出していた。
「急いで! 荷は後! 命が先!」
声が通る。迷っている者を動かす声だ。
小夜の隣には女中がひとりついており、もう一人の女中が奥の部屋から子を抱いた女を連れてきていた。段取りが早い。小夜はただ逃げ惑ってはいない。宿の動きを自分で回している。
「小夜殿!」
卜伝が声をかける。
「裏口は?」
「まだ使える! でも長くはもたない。外にも人がいる気配がする!」
その時、土間の奥の格子戸が激しく揺れた。
外からだ。
卜伝は反射的にそちらへ走った。格子の隙間から刃が突き込まれる。宿の主か誰かが中から抑えているらしいが、いつ破られてもおかしくない。
卜伝は格子戸の前へ入り、突き込まれた刃を横へ払った。そのまま、隙間へ逆に切っ先を差し込む。外で短い悲鳴。ひとりは退いた。
だが、そこで終わらない。
別の男が横から火のついた布を投げ込もうとする。卜伝は格子戸を蹴り開けるように押し、外へ半歩出た。庭先の闇に二人、いや三人いる。火付け役と、刀持ちと、後ろに控える影。
多い。
しかもこちらの背後には、まだ逃げきっていない宿の者がいる。
ここで外へ引きずり出されれば、裏口まで危ない。
卜伝は踏み込みかけて、止めた。
一人を斬るより、火を消すべきだ。
投げ込まれた火布を足で踏み潰し、そのまま格子戸の前を塞ぐ位置へ戻る。相手の刃が飛んでくる。受ける。押し返す。狭い出入り口を盾にして、三人が一度にかかれぬようにする。
「卜伝!」
小夜の声。
「あと三人!」
卜伝は振り向かずに叫ぶ。
「全員出せますか!」
「やる!」
「火は!」
「台所の水を回してる! でも、もう一ヶ所ついた!」
宿の奥で、ぱち、と木の爆ぜる音がした。
煙の匂いが一気に濃くなる。
火が上がった。
戦うだけでは足りない。守りながら、逃がしながら、火まで見ねばならぬ。これが守る戦いか、と卜伝は歯を食いしばった。
目の前の一人を斬ればいいわけではない。
誰を先に止め、どこを通さず、どこで時を稼ぐか。倒す順も、間合いも、今までとは違う。
正面の男が今度は無理に入り込んできた。背後の火に気づいたのか、早く片づけるつもりだ。卜伝はそれを待った。刃が深く入る前に半身になり、相手の袖口を斬る。男の腕がぶれる。そこへ肩でぶつかり、格子戸の柱へ叩きつけた。
倒したい。
だが今は、倒すより動けなくする。
そう決めた瞬間、剣の使い方が少し変わった気がした。
「ぐっ……!」
男が崩れる。
残る二人がたじろいだ。その隙に卜伝は格子戸を一度閉め、木の棒を噛ませる。
外から乱暴に叩く音がする。だが一息は稼げた。
振り向くと、小夜が最後の旅人を裏口へ押し出し、女中に「行って、走って、表へ回らないで!」と叫んでいた。顔に煤がついている。だが足は止まっていない。
「小夜殿! あなたも」
卜伝が言う。
「まだ宿の主がいる!」
小夜は即座に返す。
「あと、二階に一人足の悪い人が!」
そこまで聞いた瞬間、卜伝は階段へ向かった。
二階ではまだ新九郎が二人を相手に暴れていた。いや、暴れているようでいて、ちゃんと廊下を通さない位置を守っている。柱を背に、相手を重ね、広がらせない。
「遅え!」
新九郎が叫ぶ。
「下は?」
「逃がしてる!」
「じゃあこっちもさっさと片づけるぞ!」
その時、奥の部屋から老いた男の咳き込みが聞こえた。足の悪い客だろう。
卜伝は廊下の敵ふたりを見た。新九郎が前を押さえている。ならば自分は奥へ行くべきだ。
今までなら、目の前の敵へ加勢して早く倒すことだけを考えたかもしれない。だが、違う。ここで必要なのは勝ちではない。守り切ることだ。
「新九郎殿、持ちますか!」
「舐めんな! 早く行け!」
「頼みます!」
卜伝は廊下を抜け、奥の部屋へ飛び込んだ。そこには足を引きずる老人が一人、立ち上がろうとして倒れかけていた。煙がもう部屋へ入り始めている。
「動けますか」
「す、すまん……」
「掴まって」
卜伝は老人を片腕で支えた。重い。だが運べぬ重さではない。
問題は戻り道だ。
廊下ではまだ新九郎が戦っている。火の気配も近い。ならば窓か――と見た時、障子の向こうに小夜の影が現れた。
「こっち!」
声と同時に、障子が開く。
「裏庭に下ろせる!」
「危ない!」
「危ないのは分かってる!」
小夜は短い梯子のようなものをどこからか引っ張ってきていた。物置にあったのだろう。こういう時、即座に手段を拾えるのはこの娘の強さだ。
卜伝は老人を支えたまま窓際へ寄り、小夜と二人で裏庭へ下ろした。下では女中と宿の主が待っていて、老人を受け取る。
「これで最後?」
小夜が聞く。
卜伝は頷く。
「たぶん」
「たぶんじゃなくて確認して!」
「今します!」
その瞬間、廊下から大きな音がした。新九郎の怒鳴り声。誰かが階段を転げ落ちる音。
卜伝はすぐ戻った。
二階の廊下には、男がひとり倒れ、もう一人が手傷を負って退こうとしていた。新九郎の肩口にも浅く血が滲んでいる。
「大丈夫ですか」
「浅い! それより逃げるぞ、こいつ!」
負傷した男は後ろ向きに廊下を退き、階段の先へ飛んだ。卜伝が追おうとした、その時だった。
階下の火の向こう、崩れかけた格子戸の先に、一瞬だけ人影が立った。
高くも低くもない背丈。
動きに無駄がない。
騒ぎの中心にいながら、妙に静かだ。
火の明かりがその横顔を赤く照らす。
男は、こちらを見ていた。
ただ見ているだけで、刃を交えずとも分かる。あれが、桐生よりひとつ上の気配だ。使われる側ではない。使う側の目だ。
卜伝の背筋に、冷たいものが走る。
「……真壁」
思わず、その名が口をついた。
男はそれが聞こえたのかどうか、口元だけをごくわずかに動かした。笑ったようにも見えたし、そうでないようにも見えた。
次の瞬間には、火と煙の向こうへ姿を引く。
「待て!」
卜伝は階段へ踏み出した。
だが新九郎が腕を掴む。
「馬鹿! 今追うな!」
「今しか」
「今追えば、宿ごと死ぬ!」
その言葉で、卜伝は足を止めた。
火はまだ広がっている。逃げ遅れが本当にいないか確認も要る。今ここで真壁の背を追えば、自分はまた“自分だけ勝てばいい剣”へ戻る。
歯が軋むほど食いしばって、卜伝は階段を見下ろした。
真壁又十郎。
ついに姿だけは見えた。
だが、それだけだ。
追えない。ここでは追えない。
悔しさが胸を焼く。だがその焼ける胸の中で、別のものも育っていた。
守るためには、倒したい相手を追わぬ強さも要る。
それを、今この火の中で学ばされている。
「小夜殿!」
卜伝は階下へ向かって叫ぶ。
「全員出ましたか!」
「たぶん全員! でも、台所の火が回ってる!」
「分かりました!」
新九郎が刀を振って血を払い、肩で息をする。
「どうする、卜伝!」
「水を回して、広がりを止める! そのあと崩れる前に出る!」
「ようやく、いい顔になってきたな」
「何です」
「自分だけ前見てる顔じゃねえってことだよ」
言いながら、新九郎はもう走り出していた。
卜伝も続く。
火と煙と悲鳴の中で、剣の意味が少しずつ変わり始めている。
まだ境地には遠い。覚醒というには早い。だが、一歩手前までは確かに来ている。
夜襲の火は宿を焼きながら、卜伝という若い剣士の中にも、別の火を残し始めていた。




