第一話 鹿島の若鷹、まだ名を知られず
鹿島の朝は、音より先に気配で明ける。
夜の冷えがまだ土の上にうっすら残っている。だが東の空が白み始める頃には、海から来る湿り気を帯びた風が、社の森をゆっくりと揺らし始める。高く伸びた杉の梢がさざめき、葉擦れの音が頭上で細く走る。その下では、夜露を吸った草が静かに身を起こし、踏めば柔らかく沈んだ。
鹿島は不思議な土地だ、と卜伝は幼い頃から思っていた。
潮の匂いがする。森の匂いがする。土の匂いがする。だが、それだけではない。神前に供えた榊の青い匂い、拝殿にこもる古い木の匂い、武具蔵に並ぶ革と油の匂い、朝早くから槍や木太刀を手にする男たちの汗の匂い――そういうものがこの土地では一つに重なっている。
祈る土地であり、戦う土地でもある。
神宮の鳥居をくぐる者の足取りは自然と改まり、木太刀を握る者の目つきは知らず鋭くなる。神と武が同じ息遣いの中にある。鹿島とは、そういう場所だった。
その朝もまた、社に近い一角の稽古場には、まだ若い門弟たちと、年かさの男たちの姿があった。踏み固められた土の庭に朝日が斜めに差し込み、白い息が細くたなびく。木太刀を構える手には夜の冷えが残っているはずなのに、打ち合いが始まれば、それもすぐに消えた。
乾いた音がひとつ、鳴る。
続いて、二つ。
三つ目は、打ち合いではなかった。
相手の木太刀が高く弾かれた音だった。
「――っ」
息を呑んだのは、弾かれた側ではない。周りで見ていた門弟たちのほうだ。
土の上に立つ少年は、弾いた木太刀をもう引いていた。
構えは大きくない。勝ち誇るような顔もしない。ただ相手が次にどう出るかを見ている。踏み込みが深く、だが足は流れない。体は前に出ているのに、どこか冷えて見える。それが余計に、見ている者をざわつかせた。
「……参った」
木太刀を弾かれた年長の門弟が、苦笑混じりにそう言って片手を上げた。
周囲がどっと息を吐く。
「またか」
「三本目までは取ってたのに」
「最後で持っていくのが、あいつなんだよな……」
ひそひそと囁く声が流れる中、少年――塚原卜伝は静かに木太刀を下ろし、一礼した。
「ありがとうございました」
年長の門弟は額の汗を拭いながら、まじまじと卜伝を見た。
「まったく、お前の太刀は年を食わん。こっちが息を読もうとした時には、もう半歩中にいる」
「そう見えただけです」
「その言い方がいちいち可愛げがない」
周囲がくすりと笑う。
卜伝は少しだけ眉を動かした。笑わせるつもりはなかった。だが、どう返せば角が立たぬかを考えるより先に口が動く。そういうところがある。
また一人、別の門弟が前へ出た。先ほどの男より若いが、体つきはがっしりとしている。
「次、俺だ」
「休まなくていいんですか」
「お前が言うな。こっちが休んだところで、待ってくれる顔じゃないだろ」
それもそうか、と卜伝は思ったが、口には出さなかった。
木太刀を構える。
相手は正眼。隙の少ない構えだった。腕力に任せて押してくるタイプではない。踏み込みの機を探る目をしている。
卜伝は相手の肩を見た。いや、肩だけではない。足、腰、息、握り、目の揺れ。人は動く前に、わずかに動く。そのわずかを見逃さねば、次は早い。
「始め!」
声が飛ぶ。
相手が動く。いや、動こうとする。
その一瞬前に、卜伝は土を蹴っていた。
速い、というより早い。
相手の木太刀がまだ中途に上がったところへ、自分の木太刀を重ねるように入れる。打つというより押し崩す一撃。相手がたまらず引いたところを追わず、半歩だけ外へずれる。そこでようやく本命の二の太刀が走った。
乾いた音。
相手の脇が空いた。
「……そこまで!」
見役の声が割って入る。
卜伝の木太刀は寸前で止まっていた。相手の胴に触れるか触れぬかという位置で。
若い門弟は歯を食いしばり、悔しそうに唇を噛んだ。
「何で今のが入るんだ……」
「最初の一歩が半分遅かった」
「半分で分かるか」
「分かります」
「だから可愛げがないって言ってるんだ!」
今度は笑いが少し大きくなった。
だが、その笑いは面白がっているだけではない。そこには、悔しさと、半ば呆れたような感心が混じっている。
卜伝は若い。まだ誰もがその名を広く知るわけではない。だが、この稽古場にいる者たちは、彼の木太刀が並の若造のものではないことを知っていた。
打ち込まれれば重い。受ければ嫌なところへ滑り込んでくる。離れたと思えばもう次が来る。しかも、本人に威張る気がないのが余計に質が悪い。勝つべくして勝っている者の顔だ。悪気なく、それをやる。
見役の老人が腕を組んだまま唸った。
「速いな」
「速いだけではありません。入る前に、もう相手の中へ入っている」
「目もいい」
「いや、目だけではないでしょう。あれはたぶん、息を見ておる」
年長者たちの低い声は、若い門弟たちの耳にははっきり届かない。だが、言われている当人には何となく分かった。
誉められているのだろう。だが、それだけでもない。
案の定、先ほど卜伝に敗れた男が木太刀を肩に担いで言った。
「強い。そりゃ認める」
「ありがとうございます」
「だがな、卜伝」
「はい」
「その勝ち方じゃ、人はついてこぬぞ」
「……ついてくる、とは」
「そういう顔をするだろうと思った」
男は苦笑し、稽古場の外に広がる森を顎でしゃくった。
「剣ってのはな、一人で勝って終わる時ばかりじゃない。下の者に見せる時もあれば、臆した者を立たせる時もある。勝つにしても、勝ちようってもんがある」
「手を抜けと?」
「そうじゃない。力を見せるにしても、見せ方があるってことだ」
「……よく分かりません」
「だろうな」
また笑いが漏れる。
卜伝は少し不服だった。勝負は勝負だ。相手がある以上、隙を逃さず取るのは当たり前である。そこに見せ方がどうとか言われても、何をどう変えろというのか。分からぬものは分からぬ。
だが、その「分からぬ」がそのまま顔に出ていたのか、見役の老人が遠くから低く言った。
「若い」
ひと言だった。
それだけで、稽古場の空気が少し締まる。
卜伝はそちらへ視線を向けた。老人はそれ以上説教めいたことを口にしない。ただ白い眉の下の目だけが、よく見ていた。
若い。
確かにそうだろう。卜伝も自分が未熟でないとは思っていない。だが、未熟と知るのと、どこが未熟か分かるのとは別だった。
朝稽古はその後も続いた。二人、三人と手合わせし、卜伝は一度も遅れを取らなかった。だが、最後のころになると、勝っているのに胸の内は晴れなかった。
木太刀が当たる。
相手が崩れる。
そこに間違いはない。
なのに、見役の老人も、年長の門弟たちも、どこか同じところを見ている気がした。腕はある。だが、それだけでは足りぬ、と。
稽古が終わる頃には、朝の光もすっかり高くなっていた。森の影が短くなり、風に混じる潮の匂いが少し強くなる。遠くで鳥が鳴き、社へ向かう参詣の足音も増えていた。
木太刀を拭い終えた卜伝が井戸端で手を洗っていると、背後から気の強そうな声が飛んだ。
「相変わらず、可愛げのない勝ち方をしてるわね」
振り返る前に、誰だか分かった。
「……小夜殿」
鹿島神宮に仕える家の娘、早瀬小夜は、朝の光の中でも目立つ女だった。
派手な装いをしているわけではない。社に近い家の娘らしく、むしろ身なりはきちんと収まっている。だが、立っているだけで空気がさっと変わる。目がよく動き、声に張りがあり、相手が誰であれ引かない。顔立ちは整っているのに、おしとやかという言葉だけでは収まらぬ強さがあった。
その日も、浅い色の小袖に身を包み、袖口を軽く押さえながらこちらを見ていた。呆れ半分、面白がり半分という顔である。
「見ていたのですか」
「途中からね。年上相手に遠慮なくへし折っていくところから」
「へし折ってはいません」
「心をよ」
「そんなつもりは」
「ないでしょうね。だからなお悪いのよ」
言われて、卜伝は口をつぐんだ。
稽古場の外で聞いていた門弟たちが、またくすくす笑う。どうも自分は、勝っても負けても、誰かの笑いを買うらしい。
小夜はそんな空気など気にせず、井戸端までまっすぐ歩いてきた。
「手が空いてるなら、ちょうどいいわ」
「何がです」
「話があるの」
「今ここで?」
「今ここで。むしろ今がいい」
卜伝は手を拭い、居住まいを正した。小夜は用があって来る時、回りくどい前置きを好まない。つまり急ぎだ。
「何かありましたか」
「ええ。あったわ。しかも、嫌なことが」
その声音が少し低くなったのを、卜伝は聞き逃さなかった。
小夜はあたりを一度だけ見回した。稽古上がりの門弟たちはそれとなく距離を取っていたが、耳をそばだてている者もいる。小夜はそれを承知のうえで、声を落とした。
「近ごろ、社家筋のまわりを妙な者がうろついているの」
「妙な者」
「鹿島の者じゃない。少なくとも、わたしは見覚えがない」
「旅人ではなく?」
「旅人なら旅人の歩き方をするわ。参詣なら参詣の顔をする。あれは違う」
小夜がそう言うのなら、そうなのだろう。彼女は幼い頃から社の内外を見て育っている。参詣人、武家の使者、行商、修験者、流れ者――人の種類ごとの空気を読むのがうまい。
「どのあたりに?」
「神宮の裏手、社家町の外れ、それから蔵の近く」
「蔵……」
卜伝が眉をわずかに動かすと、小夜は頷いた。
「そう。だから嫌だって言ってるの」
「何を狙っていると?」
「そこまではまだ分からない。でも、ただ賽銭泥棒や夜盗の目ではなかったわ。もっと、何かを探しているみたいだった」
風が吹いた。森の葉が鳴る。
井戸の水面が小さく揺れ、その向こうに神宮の森の濃い緑が見えた。
鹿島の蔵に納められているものは、金銀だけではない。古い文書、由緒ある品、武にまつわる伝え。人によっては価値を見いださぬものでも、欲しがる者がいれば話は別である。
「誰かに伝えましたか」
「父には言った。けれど、確かなものを見たわけではないから、すぐに大騒ぎにはできないとも」
「それはそうでしょう」
「だから、あなたにも言いに来たの」
卜伝は少し黙った。
「私に?」
「嫌?」
「嫌ではありません。ただ、なぜ私なのかと」
「強いからよ」
あまりに即答だったので、卜伝は返す言葉を失った。
小夜は腕を組み、さも当然という顔で続ける。
「それに、余計な口が軽くない。こういう話は、騒ぎたがる人より、先に見に行く人のほうが役に立つの」
「褒められている気がしません」
「半分は褒めてるわ」
「半分は?」
「半分は、その融通の利かなさを当てにしてる」
卜伝はますます返答に困った。
見ていた門弟の一人が肩を震わせている。どうやら笑いを堪えているらしい。卜伝はそちらを見なかったことにした。
「では、何をすれば」
「今夜、様子を見てほしいの」
「今夜」
「ええ。ここ数日、気配が出るのは日が落ちてからなの。昼のうちは、まるで何事もないみたいに静か。でも夜になると、森の気配が少し変わる」
「変わる、ですか」
「言葉にしづらいけど。見られてる感じ、かしら」
卜伝はその表現を、軽く扱わなかった。
武を学ぶ者は、目に見えぬものを軽んじない。背に立つ気配、音の消え方、鳥の飛び立つ方角、人が息を止める間。そのどれもが理屈の前にまず体へ届くことがある。
「分かりました」
「本当に?」
「見に行きます」
「一人で?」
「そのつもりです」
「そう言うと思った」
小夜はため息をついたが、反対はしなかった。ただ、少しだけ真顔になった。
「卜伝」
「はい」
「あなた、強いわ」
「……はあ」
「でも、強いからって、一人で何でも片がつくわけじゃない」
「それは」
「今朝も言われていたでしょう」
「聞いていたのですか」
「聞こえるもの」
まったく返す言葉がない。
小夜はそこで、ふっと笑った。いつもの張った笑いではなく、ほんの少しだけ柔らかい。
「だから死なないで。まだ名も広まっていないうちに、鹿島の土に埋まられたら寝覚めが悪いわ」
「埋まるつもりはありません」
「ならいいの」
その言い方が妙に軽いくせに、言葉の芯は軽くなかった。
卜伝は頷いた。冗談めいていても、小夜は本気で警戒している。そういう時の彼女は、声より目のほうが先に知らせる。
話を終えた小夜は、ではまた夕刻に、と言って去っていった。その背を見送りながら、卜伝は井戸の水に映る自分の顔を見た。
若い顔だと思う。まだ、世に名を知られるような顔ではない。
だが今朝の稽古で感じた薄い引っかかりが、胸の内でまだ残っていた。強い。それはきっと間違っていない。けれど、それで足りぬのなら、足りぬ先には何があるのか。
その問いに、夜が何かを持ってくる気がした。
日が傾くにつれ、鹿島の空気は朝とはまた違う顔を見せた。
参詣人の数が減り、社家町の家々からは夕餉の支度の匂いが流れ始める。薪の煙、煮える汁、焼ける魚。森の緑は次第に色を深め、海からの風も少し冷たさを増した。人の動きが静まるほど、逆に鳥や虫の声が耳につくようになる。
卜伝は日が落ちる前に木太刀ではなく実際の佩刀を確かめ、足音の出にくい履物に替えた。大げさなことをするつもりはない。まずは見るだけだ。だが、見るだけで済まぬこともある。そういう備えだった。
夕暮れの終わり、小夜が約束通り現れた。
「来たわね」
「あなたこそ」
「案内するのはわたしのほうよ」
言いながらも、小夜は普段より目立たぬ格好をしていた。灯りの少ない中で浮かぬ色を選んでいるあたり、ただ気が強いだけではない。
二人は社家町の裏手へ回った。表の参道からは見えにくい道である。森の縁をなぞるように細い道があり、その先に蔵や物置が点在していた。昼に来れば何でもない場所だ。だが夜の入口に立つと、木々の黒さが急に深くなる。
「このあたり」
小夜が囁く。
卜伝は頷き、耳を澄ました。
風がある。枝が鳴る。どこかで虫が鳴いている。遠くに、人の話し声。すぐ近くには――何もない。
いや、と卜伝は思った。
何もないのではない。静かすぎるのだ。
森の端というものは、もう少し小さな音がする。獣が草を踏む、鳥が枝を移る、風が低い葉を撫でる。そういう細かな乱れがどこかにある。だが今は、それが不自然に薄い。
「感じる?」
小夜が声もなく唇だけで問う。
卜伝はわずかに顎を引いた。
二人は蔵の陰へ身を寄せた。木の壁は昼の熱を失い始めていて、触れると冷たい。
時が少し流れる。
卜伝は呼吸を浅くした。待つのは嫌いではない。むしろ、打ち込むより前に待てぬ者は、結局どこかで焦る。
やがて。
ほんの小さな音がした。
草ではない。土でもない。乾いた木の感触に、布か革がかすったような音。
卜伝の視線が暗がりへ吸い寄せられる。
いた。
人影が一つ。
神宮近くの森と蔵のあいだ、その細い闇の中を、誰かが低く身を運んでいる。鹿島の者なら選ばぬ歩き方だった。道を知っているようでいて、土地に馴染んだ者の歩きではない。知らぬ者が、知らぬことを悟られぬようにしている足運びだ。
さらにもう一つ、影が揺れた。
卜伝の背筋に、冷たいものがすっと通る。
小夜も息を呑んだ気配を見せたが、声は立てない。
夜の鹿島で、神宮近くをうろつく者たち。
ただの迷い人ではない。
卜伝はそっと柄へ手を置いた。
その瞬間、闇の中の影の一つが、こちらを振り向いた気がした。
目が合ったかどうかも分からない。だが、向こうもまた何かを感じ取ったように、ぴたりと動きを止める。
風が森を揺らした。
社の木々がざわりと鳴る。
鹿島の夜が、静かに牙を剥こうとしていた。




