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戦国異聞伝『塚原卜伝 ――鹿島立ちの剣、戦国を渡る』  作者: 常陸之介寛浩㊗️オリコン週間ランキング9位㊗️


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第一話 鹿島の若鷹、まだ名を知られず

 鹿島の朝は、音より先に気配で明ける。


 夜の冷えがまだ土の上にうっすら残っている。だが東の空が白み始める頃には、海から来る湿り気を帯びた風が、社の森をゆっくりと揺らし始める。高く伸びた杉の梢がさざめき、葉擦れの音が頭上で細く走る。その下では、夜露を吸った草が静かに身を起こし、踏めば柔らかく沈んだ。


 鹿島は不思議な土地だ、と卜伝は幼い頃から思っていた。


 潮の匂いがする。森の匂いがする。土の匂いがする。だが、それだけではない。神前に供えた榊の青い匂い、拝殿にこもる古い木の匂い、武具蔵に並ぶ革と油の匂い、朝早くから槍や木太刀を手にする男たちの汗の匂い――そういうものがこの土地では一つに重なっている。


 祈る土地であり、戦う土地でもある。


 神宮の鳥居をくぐる者の足取りは自然と改まり、木太刀を握る者の目つきは知らず鋭くなる。神と武が同じ息遣いの中にある。鹿島とは、そういう場所だった。


 その朝もまた、社に近い一角の稽古場には、まだ若い門弟たちと、年かさの男たちの姿があった。踏み固められた土の庭に朝日が斜めに差し込み、白い息が細くたなびく。木太刀を構える手には夜の冷えが残っているはずなのに、打ち合いが始まれば、それもすぐに消えた。


 乾いた音がひとつ、鳴る。


 続いて、二つ。


 三つ目は、打ち合いではなかった。


 相手の木太刀が高く弾かれた音だった。


「――っ」


 息を呑んだのは、弾かれた側ではない。周りで見ていた門弟たちのほうだ。


 土の上に立つ少年は、弾いた木太刀をもう引いていた。


 構えは大きくない。勝ち誇るような顔もしない。ただ相手が次にどう出るかを見ている。踏み込みが深く、だが足は流れない。体は前に出ているのに、どこか冷えて見える。それが余計に、見ている者をざわつかせた。


「……参った」


 木太刀を弾かれた年長の門弟が、苦笑混じりにそう言って片手を上げた。


 周囲がどっと息を吐く。


「またか」

「三本目までは取ってたのに」

「最後で持っていくのが、あいつなんだよな……」


 ひそひそと囁く声が流れる中、少年――塚原卜伝は静かに木太刀を下ろし、一礼した。


「ありがとうございました」


 年長の門弟は額の汗を拭いながら、まじまじと卜伝を見た。


「まったく、お前の太刀は年を食わん。こっちが息を読もうとした時には、もう半歩中にいる」

「そう見えただけです」

「その言い方がいちいち可愛げがない」


 周囲がくすりと笑う。


 卜伝は少しだけ眉を動かした。笑わせるつもりはなかった。だが、どう返せば角が立たぬかを考えるより先に口が動く。そういうところがある。


 また一人、別の門弟が前へ出た。先ほどの男より若いが、体つきはがっしりとしている。


「次、俺だ」

「休まなくていいんですか」

「お前が言うな。こっちが休んだところで、待ってくれる顔じゃないだろ」


 それもそうか、と卜伝は思ったが、口には出さなかった。


 木太刀を構える。


 相手は正眼。隙の少ない構えだった。腕力に任せて押してくるタイプではない。踏み込みの機を探る目をしている。


 卜伝は相手の肩を見た。いや、肩だけではない。足、腰、息、握り、目の揺れ。人は動く前に、わずかに動く。そのわずかを見逃さねば、次は早い。


「始め!」


 声が飛ぶ。


 相手が動く。いや、動こうとする。


 その一瞬前に、卜伝は土を蹴っていた。


 速い、というより早い。


 相手の木太刀がまだ中途に上がったところへ、自分の木太刀を重ねるように入れる。打つというより押し崩す一撃。相手がたまらず引いたところを追わず、半歩だけ外へずれる。そこでようやく本命の二の太刀が走った。


 乾いた音。


 相手の脇が空いた。


「……そこまで!」


 見役の声が割って入る。


 卜伝の木太刀は寸前で止まっていた。相手の胴に触れるか触れぬかという位置で。


 若い門弟は歯を食いしばり、悔しそうに唇を噛んだ。


「何で今のが入るんだ……」

「最初の一歩が半分遅かった」

「半分で分かるか」

「分かります」

「だから可愛げがないって言ってるんだ!」


 今度は笑いが少し大きくなった。


 だが、その笑いは面白がっているだけではない。そこには、悔しさと、半ば呆れたような感心が混じっている。


 卜伝は若い。まだ誰もがその名を広く知るわけではない。だが、この稽古場にいる者たちは、彼の木太刀が並の若造のものではないことを知っていた。


 打ち込まれれば重い。受ければ嫌なところへ滑り込んでくる。離れたと思えばもう次が来る。しかも、本人に威張る気がないのが余計に質が悪い。勝つべくして勝っている者の顔だ。悪気なく、それをやる。


 見役の老人が腕を組んだまま唸った。


「速いな」

「速いだけではありません。入る前に、もう相手の中へ入っている」

「目もいい」

「いや、目だけではないでしょう。あれはたぶん、息を見ておる」


 年長者たちの低い声は、若い門弟たちの耳にははっきり届かない。だが、言われている当人には何となく分かった。


 誉められているのだろう。だが、それだけでもない。


 案の定、先ほど卜伝に敗れた男が木太刀を肩に担いで言った。


「強い。そりゃ認める」

「ありがとうございます」

「だがな、卜伝」

「はい」

「その勝ち方じゃ、人はついてこぬぞ」

「……ついてくる、とは」

「そういう顔をするだろうと思った」


 男は苦笑し、稽古場の外に広がる森を顎でしゃくった。


「剣ってのはな、一人で勝って終わる時ばかりじゃない。下の者に見せる時もあれば、臆した者を立たせる時もある。勝つにしても、勝ちようってもんがある」

「手を抜けと?」

「そうじゃない。力を見せるにしても、見せ方があるってことだ」

「……よく分かりません」

「だろうな」


 また笑いが漏れる。


 卜伝は少し不服だった。勝負は勝負だ。相手がある以上、隙を逃さず取るのは当たり前である。そこに見せ方がどうとか言われても、何をどう変えろというのか。分からぬものは分からぬ。


 だが、その「分からぬ」がそのまま顔に出ていたのか、見役の老人が遠くから低く言った。


「若い」


 ひと言だった。


 それだけで、稽古場の空気が少し締まる。


 卜伝はそちらへ視線を向けた。老人はそれ以上説教めいたことを口にしない。ただ白い眉の下の目だけが、よく見ていた。


 若い。


 確かにそうだろう。卜伝も自分が未熟でないとは思っていない。だが、未熟と知るのと、どこが未熟か分かるのとは別だった。


 朝稽古はその後も続いた。二人、三人と手合わせし、卜伝は一度も遅れを取らなかった。だが、最後のころになると、勝っているのに胸の内は晴れなかった。


 木太刀が当たる。


 相手が崩れる。


 そこに間違いはない。


 なのに、見役の老人も、年長の門弟たちも、どこか同じところを見ている気がした。腕はある。だが、それだけでは足りぬ、と。


 稽古が終わる頃には、朝の光もすっかり高くなっていた。森の影が短くなり、風に混じる潮の匂いが少し強くなる。遠くで鳥が鳴き、社へ向かう参詣の足音も増えていた。


 木太刀を拭い終えた卜伝が井戸端で手を洗っていると、背後から気の強そうな声が飛んだ。


「相変わらず、可愛げのない勝ち方をしてるわね」


 振り返る前に、誰だか分かった。


「……小夜殿」


 鹿島神宮に仕える家の娘、早瀬小夜は、朝の光の中でも目立つ女だった。


 派手な装いをしているわけではない。社に近い家の娘らしく、むしろ身なりはきちんと収まっている。だが、立っているだけで空気がさっと変わる。目がよく動き、声に張りがあり、相手が誰であれ引かない。顔立ちは整っているのに、おしとやかという言葉だけでは収まらぬ強さがあった。


 その日も、浅い色の小袖に身を包み、袖口を軽く押さえながらこちらを見ていた。呆れ半分、面白がり半分という顔である。


「見ていたのですか」

「途中からね。年上相手に遠慮なくへし折っていくところから」

「へし折ってはいません」

「心をよ」

「そんなつもりは」

「ないでしょうね。だからなお悪いのよ」


 言われて、卜伝は口をつぐんだ。


 稽古場の外で聞いていた門弟たちが、またくすくす笑う。どうも自分は、勝っても負けても、誰かの笑いを買うらしい。


 小夜はそんな空気など気にせず、井戸端までまっすぐ歩いてきた。


「手が空いてるなら、ちょうどいいわ」

「何がです」

「話があるの」

「今ここで?」

「今ここで。むしろ今がいい」


 卜伝は手を拭い、居住まいを正した。小夜は用があって来る時、回りくどい前置きを好まない。つまり急ぎだ。


「何かありましたか」

「ええ。あったわ。しかも、嫌なことが」


 その声音が少し低くなったのを、卜伝は聞き逃さなかった。


 小夜はあたりを一度だけ見回した。稽古上がりの門弟たちはそれとなく距離を取っていたが、耳をそばだてている者もいる。小夜はそれを承知のうえで、声を落とした。


「近ごろ、社家筋のまわりを妙な者がうろついているの」

「妙な者」

「鹿島の者じゃない。少なくとも、わたしは見覚えがない」

「旅人ではなく?」

「旅人なら旅人の歩き方をするわ。参詣なら参詣の顔をする。あれは違う」


 小夜がそう言うのなら、そうなのだろう。彼女は幼い頃から社の内外を見て育っている。参詣人、武家の使者、行商、修験者、流れ者――人の種類ごとの空気を読むのがうまい。


「どのあたりに?」

「神宮の裏手、社家町の外れ、それから蔵の近く」

「蔵……」


 卜伝が眉をわずかに動かすと、小夜は頷いた。


「そう。だから嫌だって言ってるの」

「何を狙っていると?」

「そこまではまだ分からない。でも、ただ賽銭泥棒や夜盗の目ではなかったわ。もっと、何かを探しているみたいだった」


 風が吹いた。森の葉が鳴る。


 井戸の水面が小さく揺れ、その向こうに神宮の森の濃い緑が見えた。


 鹿島の蔵に納められているものは、金銀だけではない。古い文書、由緒ある品、武にまつわる伝え。人によっては価値を見いださぬものでも、欲しがる者がいれば話は別である。


「誰かに伝えましたか」

「父には言った。けれど、確かなものを見たわけではないから、すぐに大騒ぎにはできないとも」

「それはそうでしょう」

「だから、あなたにも言いに来たの」


 卜伝は少し黙った。


「私に?」

「嫌?」

「嫌ではありません。ただ、なぜ私なのかと」

「強いからよ」


 あまりに即答だったので、卜伝は返す言葉を失った。


 小夜は腕を組み、さも当然という顔で続ける。


「それに、余計な口が軽くない。こういう話は、騒ぎたがる人より、先に見に行く人のほうが役に立つの」

「褒められている気がしません」

「半分は褒めてるわ」

「半分は?」

「半分は、その融通の利かなさを当てにしてる」


 卜伝はますます返答に困った。


 見ていた門弟の一人が肩を震わせている。どうやら笑いを堪えているらしい。卜伝はそちらを見なかったことにした。


「では、何をすれば」

「今夜、様子を見てほしいの」

「今夜」

「ええ。ここ数日、気配が出るのは日が落ちてからなの。昼のうちは、まるで何事もないみたいに静か。でも夜になると、森の気配が少し変わる」

「変わる、ですか」

「言葉にしづらいけど。見られてる感じ、かしら」


 卜伝はその表現を、軽く扱わなかった。


 武を学ぶ者は、目に見えぬものを軽んじない。背に立つ気配、音の消え方、鳥の飛び立つ方角、人が息を止める間。そのどれもが理屈の前にまず体へ届くことがある。


「分かりました」

「本当に?」

「見に行きます」

「一人で?」

「そのつもりです」

「そう言うと思った」


 小夜はため息をついたが、反対はしなかった。ただ、少しだけ真顔になった。


「卜伝」

「はい」

「あなた、強いわ」

「……はあ」

「でも、強いからって、一人で何でも片がつくわけじゃない」

「それは」

「今朝も言われていたでしょう」

「聞いていたのですか」

「聞こえるもの」


 まったく返す言葉がない。


 小夜はそこで、ふっと笑った。いつもの張った笑いではなく、ほんの少しだけ柔らかい。


「だから死なないで。まだ名も広まっていないうちに、鹿島の土に埋まられたら寝覚めが悪いわ」

「埋まるつもりはありません」

「ならいいの」


 その言い方が妙に軽いくせに、言葉の芯は軽くなかった。


 卜伝は頷いた。冗談めいていても、小夜は本気で警戒している。そういう時の彼女は、声より目のほうが先に知らせる。


 話を終えた小夜は、ではまた夕刻に、と言って去っていった。その背を見送りながら、卜伝は井戸の水に映る自分の顔を見た。


 若い顔だと思う。まだ、世に名を知られるような顔ではない。


 だが今朝の稽古で感じた薄い引っかかりが、胸の内でまだ残っていた。強い。それはきっと間違っていない。けれど、それで足りぬのなら、足りぬ先には何があるのか。


 その問いに、夜が何かを持ってくる気がした。


 日が傾くにつれ、鹿島の空気は朝とはまた違う顔を見せた。


 参詣人の数が減り、社家町の家々からは夕餉の支度の匂いが流れ始める。薪の煙、煮える汁、焼ける魚。森の緑は次第に色を深め、海からの風も少し冷たさを増した。人の動きが静まるほど、逆に鳥や虫の声が耳につくようになる。


 卜伝は日が落ちる前に木太刀ではなく実際の佩刀を確かめ、足音の出にくい履物に替えた。大げさなことをするつもりはない。まずは見るだけだ。だが、見るだけで済まぬこともある。そういう備えだった。


 夕暮れの終わり、小夜が約束通り現れた。


「来たわね」

「あなたこそ」

「案内するのはわたしのほうよ」


 言いながらも、小夜は普段より目立たぬ格好をしていた。灯りの少ない中で浮かぬ色を選んでいるあたり、ただ気が強いだけではない。


 二人は社家町の裏手へ回った。表の参道からは見えにくい道である。森の縁をなぞるように細い道があり、その先に蔵や物置が点在していた。昼に来れば何でもない場所だ。だが夜の入口に立つと、木々の黒さが急に深くなる。


「このあたり」

 小夜が囁く。


 卜伝は頷き、耳を澄ました。


 風がある。枝が鳴る。どこかで虫が鳴いている。遠くに、人の話し声。すぐ近くには――何もない。


 いや、と卜伝は思った。


 何もないのではない。静かすぎるのだ。


 森の端というものは、もう少し小さな音がする。獣が草を踏む、鳥が枝を移る、風が低い葉を撫でる。そういう細かな乱れがどこかにある。だが今は、それが不自然に薄い。


「感じる?」

 小夜が声もなく唇だけで問う。


 卜伝はわずかに顎を引いた。


 二人は蔵の陰へ身を寄せた。木の壁は昼の熱を失い始めていて、触れると冷たい。


 時が少し流れる。


 卜伝は呼吸を浅くした。待つのは嫌いではない。むしろ、打ち込むより前に待てぬ者は、結局どこかで焦る。


 やがて。


 ほんの小さな音がした。


 草ではない。土でもない。乾いた木の感触に、布か革がかすったような音。


 卜伝の視線が暗がりへ吸い寄せられる。


 いた。


 人影が一つ。


 神宮近くの森と蔵のあいだ、その細い闇の中を、誰かが低く身を運んでいる。鹿島の者なら選ばぬ歩き方だった。道を知っているようでいて、土地に馴染んだ者の歩きではない。知らぬ者が、知らぬことを悟られぬようにしている足運びだ。


 さらにもう一つ、影が揺れた。


 卜伝の背筋に、冷たいものがすっと通る。


 小夜も息を呑んだ気配を見せたが、声は立てない。


 夜の鹿島で、神宮近くをうろつく者たち。


 ただの迷い人ではない。


 卜伝はそっと柄へ手を置いた。


 その瞬間、闇の中の影の一つが、こちらを振り向いた気がした。


 目が合ったかどうかも分からない。だが、向こうもまた何かを感じ取ったように、ぴたりと動きを止める。


 風が森を揺らした。


 社の木々がざわりと鳴る。


 鹿島の夜が、静かに牙を剥こうとしていた。

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