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プロローグ

女は、保存ボタンを押した。


画面の右上に、控えめな文字で《下書きを保存しました》と出る。

公開にはしなかった。


あと一文。

たった一文なのに、そこだけが決まらない。


白い画面の光が、暗いリビングの輪郭を薄く撫でている。

ソファに深く腰を沈めたまま、女はスマートフォンを両手で包みこんだ。

画面の端に表示された時刻は、22時03分。


壁掛け時計の秒針が、静かな部屋の真ん中を細く刻んでいく。


「ねえ」


思ったより、声が小さかった。


キッチンとリビングの境目に立つ男は、すぐには振り向かない。

流し台の縁に指をかけたまま、肩だけがわずかに動く。


女は、もう一度画面を見た。


──星空の下で、彼はようやく私の手を取った。


甘い一文だ、と自分でも思う。

けれど、そこまで来るのに三年かかったのだから、少しくらい甘くてもいいはずだった。


「私たちのこと、みんなに話さない?」


問いかけというより、確認に近かった。

それでも、言葉にした瞬間、部屋の空気が一段だけ冷えた気がした。


男がゆっくり顔を上げる。


その目に浮かんだものが何なのか、女には読めなかった。

困惑。警戒。あるいは、計算。


「……だめ?」


言うつもりはなかった。

だが、口が勝手にその先を選んだ。


男は黙ったまま、女を見ている。

その沈黙の長さで、女はようやく、自分がいま何を触ってしまったのかを知った。


保存された下書きは、まだ誰にも読まれていない。

通知音も鳴らない。

けれど、何かはすでに、取り返しのつかない位置まで動いていた。


──私たちのこと。


その言葉だけが、部屋の中央に置き去りにされる。


次の瞬間、何が起きたのか。

それを、同じ順番で語れる者は、もういなかった。



録音機の赤いランプが灯る。


「正当防衛だったと、主張するんですね」


遠藤の声は平坦だった。


男は迷いなく頷く。


「彼女が刃物を持ってきたんです」


言葉は整っている。

淀みも言い直しもない。


「止めようとして揉み合いになり、押さえ込んだ。それだけです」


それだけ。


「動機は?」


「分かりません。突然だったんです」


本当にそう信じている顔だった。


やがて男は続ける。


「関係については……書いています」


「書いている?」


「投稿サイトです。付き合うまでのことを」


遠藤の眉が、ほんのわずかに動く。


「どうして」


男は目を伏せた。


「記録です」


「何の」


男はためらわない。


「僕が、ちゃんとしていたことの」


“ちゃんと”。


その言葉だけが、録音機よりも強く部屋に残った。


赤いランプは、何も変えずに点灯を続けている。


「……読ませてください」


男はゆっくり頷いた。


弁明する者の顔ではない。

提出する者の顔だった。


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