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作者: くぼうし
掲載日:2025/12/27

ある男はトラックを運転していた。首都高の中央環状線に入り、山手トンネルの入口が見えたころ、彼は不思議と自分が自分でなくなる感覚を味わった。


しかも、意識は鮮明としていたのだ。眠気でもない。酒でもない。誰かの声に呼ばれたわけでもない。ただ深く、遠くまで彼の意識だけが落ちてゆく。それを彼は、日曜日のグラウンドを跳ねる白球のように見つめていた。


ラジオは交通情報を繰り返している。渋滞、故障車、工事。声は明瞭で、内容は空っぽだった。ハンドルを握る手は、手袋の中で少し汗ばむ。スマホはダッシュボードの端で光らない。誰からも、何も来ない。メーターの針だけが黙って動く。


山手トンネルの口は、昼の光を飲み込む黒い器のようだった。入口の縁に貼りつく照明は、ただ「こちらへ」と言っている。彼はアクセルを踏み、トラックはその闇に滑り込んだ。


音が変わる。エンジンの唸りが壁に跳ね返り、薄い膜になって耳に貼りつく。空気は冷えているのに、皮膚の下は熱い。彼はまた気が付いた。自分の呼吸が、車内のどこかで増幅している。吸って吐くたび、トンネルが少しずつ狭くなるような錯覚があった。


かれは気づいた。トンネルが狭く、いや小さくなっている。


さっきまで二車線あったはずの本線は一車線になっているし、一車線かも怪しい幅員になっている。路面の白線は逃げ足の速い生き物みたいに、ふと見た瞬間、別のところへ移動している。どうやら天井も同様である。照明の列が、頭上で近づいてくる。近づいてくるというより、天井が落ちてくる。


しかし、かれのトラックは壁面にあたることなく中央を走り続けている。


おかしい。掃除機につまる紙屑のように、いつか止まらなければならないのに。止まるべき抵抗が、そこにはない。車体が何かに擦れるはずの場所に、擦れがない。風切り音が薄い。トラックは、まるで“よく通る形”に合わせて変わっている。


彼はミラーを見た。後ろの荷台が、遠い。遠いだけでなく、細い。荷台の角が鋭く見える。視界の端で、車体が薄く伸びている気がする。彼は首を振って、眼を瞬かせた。だが、変化は眼のいたずらではなかった。


彼はまた気が付いた。ハンドルの太さが、頼りなくなっている。握れば握るほど、手の中で棒みたいに感じる。指はいつもより長い。手首から先が、妙に軽い。


ペダルを踏む足が、床に届きにくい。距離が伸びたわけではない。足が細くなったのだ。踏む力が、点に集中していく。点はやがて線になり、線は、一本の芯になる。


トンネルの壁が迫る。壁面のタイルの継ぎ目が、巨大な方眼紙のように見える。その方眼の一マス一マスが、彼を測っている。測られ、切り詰められ、余分な部分が削がれていく。


かれは、胸のあたりにあったはずの重さが消えていることに気づいた。胸を押さえようとしても、押さえる面がない。手のひらはいつの間にか薄い板になり、板はやがて刃のない刃のようになっている。肩が消え、首が消え、顔の輪郭が伸びる。鼻も口も、空気抵抗になる部分から先に削り取られていく。


その過程は痛みではなかった。痛みは輪郭を持つ。しかしこれは輪郭そのものが消える出来事だった。


彼は呻こうとしたが、声帯の場所がもうわからない。わからないものは鳴らない。ただ、トンネルの反響だけが彼の代わりに唸った。唸りはやがて一本の音に収束し、その音は槍の飛ぶ音の予感に似ていた。


そして、かれは理解した。自分が“通る”ために、通れる形になるしかないのだ、と。


トンネルは小さくなる。車線は細くなる。天井は落ちてくる。ならば、そこを擦らずに進むには、擦らない形になればいい。抵抗を失うほど、よく進む。よく進むほど、抵抗を失う。


彼も、彼のトラックも、細く、長くなっている。


いつの間にか彼は槍のような物体になっていた。鉄の匂いがする。だが鉄ではない。彼は“投げられるもの”になっている。刹那、かれは意識を失った。


――


何時間ほどたっただろうか。彼は目を覚ました。


そこはよく晴れた河川敷だった。風が草の上を撫でている。遠くでボールが弾む音がする。子供が何やらスポーツを楽しんでいるようだ。犬が走り、誰かが笑う。空はやけに高く、雲はゆっくりで、川はただ流れている。


彼の現状を除いては、なんの変哲もない休日の風景だ。


彼は、ゴミ箱のようなものに煩雑に入れられた、ただの槍になっている。口がない。まぶたがない。なのに、見える。感じる。いや、感じているのは世界ではなく、自分の“軽さ”だった。軽さが、世界を透かしている。


ゴミ箱の中は槍でいっぱいだった。細い槍。短い槍。曲がった槍。先端が妙に鈍い槍。磨かれたように光る槍。


隣に、立派な槍があった。長く、真っ直ぐで、表面が滑らかで、どこにも引っかかりがない。槍は静かにそこにいて、静かにこちらを知っているようだった。


「戻ってこないよ」


声ではなかった。空気の震えでもなかった。言葉の形だけが、直接こちらに届いた。


「槍は投げられると戻ってこない。ここでは、そういうことになってる」


彼はそれを聞いた瞬間、自分の中にあった“帰る”という概念が、紙のように薄く剥がれていくのを感じた。帰る場所は、どこだ。帰る身体は、どこだ。帰る名前は、どこだ。


立派な槍は、ひとつ息をつくように、少しだけ震えた。


「人間のときは、女だった」


槍はそう言った。言った、というより、そういう情報をそのまま落としてきた。彼女は自分の過去を誇っているわけではない。過去を持っていたことを確かめるように、ただ置く。


河川敷の向こうで、子供が一本の槍を持ち上げている。槍は光を受けて、まるで空を指している。子供の周りに、何人かが集まっている。誰かがスマホを構え、誰かが指を折って数え、誰かが「おお」と言う。


掲示板が見えた。風で紙がめくれている。紙にはルールが書かれている。小さな文字だ。遠い。だが読める。読めてしまう。


投てきは一回ずつ。

拾いに行くな。

川に入るな。

危険。

注意。


そして、一枚だけ、手書きの紙がホチキスで乱暴に留めてあった。上手くはない字で、こう書いてある。


――よく飛ぶ槍は、だいたい帰ってこない。


誰が書いたのかはわからない。だが、誰かがここで何度も見てきたのだろう。よく飛ぶほど、見つけにくい。見つけにくいほど、忘れられやすい。忘れられやすいほど、さらに軽くなる。


子供は助走を始めた。足が草を蹴り、肩が回り、槍の先が揺れる。揺れは風を切る準備の揺れだった。


彼は知った。自分たちがここにいる理由は、説明されるものではない。ここにいる槍たちは、説明の前に投げられてしまったのだ。説明は、投げる側の都合で後から貼られる紙切れでしかない。


立派な槍が、また静かに言った。


「孤独な槍は、よく飛ぶ」


彼はそれを否定したかった。孤独かどうかなんて、測れない。測れるのは距離だけだ。数字だけだ。空の高さだけだ。だが否定はできなかった。否定するには、彼はあまりに滑らかだった。滑らかさは抵抗を持たない。抵抗を持たないものは、反論も持ちにくい。


投げる子供の背中が見える。背中は小さい。小さい背中が、世界の中心みたいに見える。背中が槍を投げる。背中が槍を飛ばす。背中が槍を遠くへやる。


子供が槍を投げた。


槍は、空を裂く音もしないで飛んだ。音がしないのは、空気抵抗が少ないからだ。彼は、その事実を知識としてではなく、身体として理解した。身体といっても、もう身体はない。ただ、飛ぶための形だけがある。


槍は飛び、落ちた。


遠くで、誰かが拍手をした。誰かが笑った。誰かが記録を口にした。数字が飛んだ。数字は空気より軽く、すぐに散った。


子供は次の槍を探しに来た。ゴミ箱の前に立ち、無造作に手を突っ込む。指が槍たちの上を滑る。滑る指は、槍たちの表面の粗さを選別する。引っかかりのないものが、選ばれる。


彼の隣の立派な槍に、子供の手が触れた。触れた瞬間、彼女の表面がさらに滑らかになるのがわかった。期待ではない。諦めでもない。ただ、投げられる形に整う。


彼女は何も言わなかった。言うことがないのだ。言葉は抵抗だ。抵抗は飛距離を減らす。


子供が彼女を持ち上げた。持ち上げられた槍は、一瞬、陽光の中で光った。その光は“きれい”ではなく、“よく飛びそう”という光だった。


彼は、その光を見て、何かを思い出しそうになった。思い出しそうになったが、思い出せなかった。思い出せないことが、まるで決まりみたいに自然だった。名前、声、顔、帰り道。思い出せないほど、彼はよく飛ぶのだろう。


彼女が投げられた。


彼女は飛んだ。飛び方に迷いがない。槍は迷わない。迷いは抵抗だ。抵抗は形を鈍らせる。鈍った槍は、帰ってくる。帰ってくる槍は、また投げられる。投げられるたび、少しずつ曲がっていく。


彼は見た。曲がった槍が、ゴミ箱の底に沈んでいる。沈んだ槍は、ほとんど見えない。見えない槍は、誰にも選ばれない。選ばれない槍は、投げられない。投げられない槍は、ここにいる。ここにいるだけで、風に当たり続ける。


彼は、風を感じた。風は草を撫で、川を撫で、人の髪を撫で、槍の表面を撫でる。風は分け隔てなく撫でるのに、槍の飛距離だけは差をつける。


子供が戻ってきた。次の槍を探す。指がまた滑る。滑る指が、今度はこちらに近づいてくる。


彼は、奇妙に静かだった。恐怖も、期待も、ない。あるのは、ただ“軽さ”だけだ。軽さは、孤独に似ている。孤独は、説明ができない。だが、空気抵抗という形で現れる。


子供の手が、彼の表面に触れた。


触れた瞬間、彼は確信した。自分が今まで持っていたもの――言い訳、記憶、言葉、帰り道、誰かの顔――それらが最後の抵抗だったのだと。抵抗が残っているうちは、まだ人間だ。抵抗がなくなれば、よく飛ぶ。


子供が彼を掴んだ。掴まれた彼は、空に向けて持ち上げられた。


空は、遠い。だが遠いほど、よく飛ぶ。


彼は、風を切る準備の揺れを、自分の内部で感じた。内部といっても、内部はもう空っぽだ。空っぽだからこそ、風が通る。風が通るからこそ、よく飛ぶ。


助走が始まる。草が蹴られる。肩が回る。世界が一瞬、一本の線に収束する。


そして――槍は投げられると戻ってこない。


彼は、それを知っていた。隣の立派な槍が教えてくれた。口伝で伝えられていることだ。


それでも、投げられる。


彼は投げられた。


1メートル先で、落ちた。

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