恋愛を知る少年
恋愛とは“欲望”の上で成り立つものである。
誰にも想い人を渡したくないという独占欲。
顔の良い人物を捕まえたという己への承認欲求。
恋人とより深い関係になりたいという、純粋な感情。
そして仲良くなった上で脳を蝕む“性欲”。
…いや、人間の本能は、どうせ性欲がほとんどか。
性行為に及んだ瞬間、純粋な恋心が霞む。
フランスで確か、そんな研究結果があったような気がする。
俺の両親もそんな身体だけの関係だったから、離婚に至るのにそう時間はかからなかった。
俺たちを捨てて父は出て行ったし、母はパートを掛け持ちして、俺を苦しながらも養ってくれている。
だがそんな生活の中に愛なんてものはなかった。
愛へと発展していくための恋愛が、浅い欲望で崩れ去ってしまうのだ。
俺はそんな恋愛が嫌いだ。
俺から何もかも奪った欲望も嫌いだ。
そんな感情だけが幼少期、そして高校2年生に至る今まで残り続けてしまった…。
◇◇◇◇◇
「俺今月ピンチでさー、ちょっと金貸してくんない?」
「期間限定フレーバーでたらしいから、放課後カフェ一緒に行かない?」
「やべー、俺明日提出の課題やってねえよ!」
授業終わりの放課後、クラス中の騒がしい話し声が、俺の耳に入ってくる。
どれも欲望に溢れた哀れな内容だ。
世間一般でいえば陽キャの会話らしいが、机に顔を突っ伏して寝たフリをしている俺、西条友貴哉には理解しがたい話である。
どうせどんなに周りに合わせても、結局は深い関係になんてなれやしないのだから。
…さて、いつまでも寝たフリをしてないで俺も帰るかな。
俺はむくりと顔を上げ、鞄を手にしようとした。
「あなた、少し時間よろしいかしら?」
だがそれを阻止する声が一つ、背後から向けられた。
「生憎だが人と話している時間はない」
「でしたら寝ていた時間も無駄ではなくて?」
「…睡眠は人間にとって重要な要素だと思うが?」
「それは夜、十分な睡眠をとってから言いなさい」
「耳が痛い話をするな。年ごろの学生なんてそんなもんだろ」
「あなただけではなくて?他の方は現に今、眠ってはいないじゃない」
うるせぇ。陰キャにとっては夜がホームグラウンドなんだよ。
…しかし、まさかここまで突っかかってくるとは思わなかったな。
多少面倒くさそうに振る舞えば、愛想笑いで去ってくれると思ったのだが。
俺は向けていた背を机側に回し、話しかけた彼女に顔を向けた。
するとそこには美しい黒色のたなびく髪と、ルビー色に輝く瞳が魅力的な女性が立っていた。
その立ち振る舞いは可憐で無駄がなく、その魅力をいっそう際立たせていた。
「寝不足で悪かったな。それで、そんな素行不良な人間に何のようだ、権藤礼子さん?」
「あら、私の名前を覚えていてくれたの?」
「当たり前だ。俺は関わりたくない人間は徹底的にマークしているからな。それがあの“権藤財閥”のご令嬢なら尚更だ」
権藤財閥はこの国の生産業を担っている大企業、そのご令嬢には当然、様々な欲に満ちた人が集まってくる。
人を信用できない俺にとっては、関わらないことが得策な人物だ。
「…あなた他人に失礼な男ってよく言われない?」
「生憎世間話をできる友達もいないものでな」
「そう…、なんかごめんなさい?」
やめろ、そんな憐れみの目で見るな。別に惨めなわけでは無いが、何かこう、人としての何かを失っている気がする。
「まあ、からかうのはここまでにしまして」
彼女は咳払い咳払いを交え、この閑古鳥でも鳴いていそうな雰囲気に切り込みを入れる。
「あなたには一つ、私の頼みを聞いてほしいの」
「頼み?新手のカツアゲの一種か?」
「違うわよ。お金なんて腐るほどあるもの」
「うわぁ、富豪」
「単刀直入に言わせてもらうわ。あなたには私の“恋人”になってほしいの」
「…」
頭の中にさまざまな考えが巡った。
恋人という存在が生む人の悪の側面、およびその感情に触れる恐怖。
憶測か、はたまた杞憂か。
誰かの恋仲になること自体が、俺に決定的な変化を与えてしまう。
そんな未来が見えた気がした。
「あなた大丈夫?ずいぶん酷い顔色だけれど」
「…ああ、問題ない。ただ考え事をしていただけだ」
嘘だ。
俺は父みたいな悪人にはなりたくない。
母みたいな末路も歩みたくない。
そんな自分本位な考えが、彼女を拒絶してしまう。
「あなた本当に大丈夫なの?具合が悪いなら保健室に…」
「触るなっ!」
「痛っ…」
反射的な声とともに、赤い血が滴る。
俺の手を取ろうとした彼女の手を、俺は力強くはじき返していた。どうやら爪が食い込んでしまったらしい。
もちろん彼女を傷つけようという意図はないし、行動自体は無意識だ。
だが、俺が創り出してしまったこの状況は、正義感あるいは下心をもつ者にとっては、絶好の的だった。
「おい西条、お前権藤さんに何をやっているんだ!」
「そうだぞ、暴力なんて人の恥だ!」
残っていた生徒、人数は十人程度だろうか。
権藤の声を聞くなり、一斉に視線がこちらに向く。
先程までは視界にも入っていなかった俺を、ここぞとばかりに叩く。
「うわぁ、あの陰キャ調子乗ってるよ」
「まあ何かやらかしそうな顔はしてたけどね」
一歩後ろに控える女子どもは、見下していた人間をさらに見下す。
聞こえないと思っているのだろうが、その影口は間違いなく俺の心に突き刺さっていた。
俺のことなど何も知らないだろうに…。
それを察する男子たちも、クラス中が己の味方と錯覚し、より態度がでかくなる。
「いや、これは…」
「言い訳なんて聞きたくねえよ!」
「そうだぜ、お前が権藤さんに怪我させたのはみんな知ってんだよ!」
「違うんだ、俺はただ…」
「何が違うんだ?目の前の光景よりお前の口を信じろってか?」
「ギャハハッ、こいつ馬鹿じゃねえのか!」
二人組の男子の口撃を期に、周りの人間も集中して俺に暴言を浴びせる。
夕日に照らされて濁りをごまかす血が、退路をすべて塞いでしまった。
もはや俺にできることは、権藤さんへの好感度稼ぎの茶番に付き合うことのみだろう。
腹をくくれ、今までと同じだ。欲なんて出すな。
保身も反発も俺の一時の感情に過ぎないのだから。
「ごめん、俺が全部悪…」
「黙りなさい」
ただ、それを遮る声が一つ。
それはあまりに感情的で、醜い自我を持っていた…。
「権藤さん、どうしたの…?」
「あら、あなたにも言ったのよ。早く黙りなさい」
だがそれは、俺が何よりも“憧れていた”ものだった…。
「私は彼と親交を深めたかっただけ、なのに何故第三者のあなたたちが割り込んでいるのかしら?」
「それはその…、あいつが権藤さんに手を…」
「あら?別に痛くないわよ。彼の事情を酌まずに近づいた分、私の方に非があるわ」
そう言い彼女はハンカチで傷口を拭う。
孤高で高飛車な彼女はぴったりな赤色が、薄暗くなってきた教室でひときわ輝いていた。
「大方私に媚を売るためかしら?」
「…」
「図星ね」
群れていた獣どもは統率を失い、誰一人口を開かない。
それはまるで猫に睨まれた鼠のようだった。
「申し訳ないけど私はあなたたちに興味がない。少なくとも西条君の方が何倍も魅力的よ」
「そ、そんな…」
「でも俺たちのほうが顔も頭も…」
「容姿や学力は磨けても、心は磨けない。お父様の言葉よ。あなたたちには自覚があるでしょう」
「っ…」
本日何度目の沈黙だろうか。
彼らはもはや横領が明るみになった社員のように、体を震わせていた。
「理解できたなら今すぐ散りなさい。今なら“まだ”間に合うわ」
「わ、わかったよ!お前たち、早く行くぞ!」
その一言に呼応して、主犯の男、そして野次までもが逃げるように退出していった。
何か不思議な静けさが漂う教室には、気づけば俺たち二人のみになっていた。
「…あ、ありがとう」
「なんのことかしら」
とぼけて目をそらす権藤には、先ほどの捕食者のようなオーラは感じられない。
「だがいいのか、お前さっきのでほとんどクラスを敵に回しただろ?」
「別にいいのよ。私に友達なんていないもの」
「いつも話しているやつらは?」
「私を令嬢としか見ていないやつを友達とは言わないわ」
「卑屈なもんだな」
「卑屈じゃない、子供の頃からそうなだけよ」
「…そうか」
彼女の顔は妥協か諦めか、それとも哀願か。
ただ一つ言えるのは、彼女は幼少期から今まで孤独であったことだ。
俺と同じだが、全く違う方向で。
「詳しく聞かないの?」
「は?俺をお前の自分語りの標的にするな」
「…あなたよく協調性がないって言われない?」
「言われるよ、でもそれが俺の在り方なんだ。許してくれ」
「在り方ねぇ…」
面倒事には不干渉、それが俺の我を出さない日々の鉄則だ。
干渉を強いられる権藤とは真逆でいたい。
「俺は俺の在り方に従って生きるだけだ。だから、お前の恋人にはなれないぞ」
「なぜあなたの在り方に私は邪魔な存在なの?」
「お前の存在はあまりに大きすぎる。学校においても、社会においても。だからこそ俺は、お前に迷惑をかけたくないんだよ」
今の俺には恋も愛も醜い色欲にしか思えない。
そんな人間に誰かを支えることはできないんだ。
「…発言を一つ訂正するわ」
「訂正?」
「あなたは協調性がないわけじゃない。あり過ぎるがゆえに本当の自分を見失っているのよ」
「本当の…自分?」
わけがわからない。
欲を嫌っているのは本心のはずだ。
周りの人間の欲を受け流す立ち回りも、俺が望んで身につけたもののはずだ。
なのに何故だろう。
彼女の言葉を聞いた瞬間、一瞬自分が揺らいだように感じた。
「さっき心は磨けないと言ったわね。でもそれはあくまで、己の利益を求める人に向けた言葉なの。あの言葉の本当の意味は…」
彼女はぐっと手に力を入れ、俺に向かって全力で叫ぶ。
「善人は無限に磨き成長できるってことよ!」
「…」
「あなたが過去で何があったかは知らない。でも辛そうなことだけは伝わってくるし、あなたが誰でも平等に善意を向けていることを私は知っている…!」
「だからっ…」そう彼女は続けて、俺に魂をぶつける。
「黙って私のものになって私を孤独から救ってくれ!そうすればお前の孤独も破ってやる!」
「っ…」
俺にはこの感覚がわからない。
色欲、性欲、その手の類のものが大嫌いだった。
でも今俺の中で高鳴るこの鼓動はなんだ?
異様なまでなこの熱い感情はなんだ?
俺は何もわからないまま、真っ赤な顔を彼女に向けた。
…それが恋だと気づくのは、思ったより先の話だった。
結論から言うと、この日俺は礼子の告白を断った。
本当の自分を知るのが怖かったのだろう。
それでも彼女とは友達になることになった。
俺のなかの何かが、彼女と縁を切ることを許さなかったのだ。
友達など互いに初めてでぎこちなかったが、それでも不思議と自然に笑えた。
彼女のまっすぐな眼差しも、俺の閉鎖的な欲望も、お互いの成長にとって必要なものだったのだろう。
「友貴哉、何か考え事でもしてた?」
「いや、少し思い出に浸ってただけだよ」
「何で?」
「何でもだよ」
互いに純白の服をまとった俺たちは、あの頃よりもずっと素直に笑い合った。




