エバンズの隅の部屋にて(SS)
全5話と言っておいて最後が短いエピローグになってしまったため、じゃあさらに後日のSSでも……と思ったら書きすぎました。だいたい4000字です。
オランジエからの打診のしらせが届く前、ライナーが結婚することもその嫁の事情も、まだ誰も何も知らない頃。
前エバンズ伯爵夫妻は二人水入らずで諸国の漫遊を楽しんでいた。
とある街で散策していると、夫人が精巧なつくりのドールを見かけ、それをいたく気に入った。店主に話を聞けば職人が一生にこれしか作らなかった正真正銘の一点ものらしい。瞳には宝石が使われ、頭部には栗色の巻き髪が隙間なく丁寧に植えてあり、関節の一つ一つが駆動するよう作りこんであった。美術品としても悪くないとしてそれを購入し、土産とまとめて今は息子の住まう邸宅に送るために丁寧に梱包させた。幾月かかかると確認されながらも、急ぐものでなしと追跡と軽い保護の魔法のみをつけ安価な陸路で送るよう依頼をした。送り状には夫人が「人形」の品目の下に、整った字ではっきりと「我が家へ。物置ではなく風通しの良い隅の部屋で保管するように。いい機会だからついでに片づけて」としたためた。
☆
ヘレネは朝カーテンの隙間から光が漏れ始めたころに目が覚めて、いつものように動かず待っていた。控えめなノックと共に入室した侍女がヘレネに「奥様、おはようございます。失礼します」と一言告げ、背中に手を入れて抱き起こす。続いて入ってきた女性たちがその部屋の一日を始めた。
顔を洗い、口を濯ぎ、軽食とともに飾られる。ジュースを一口飲むそぶりをする。ドレスを着て、髪を結い、化粧をする。
「本日もお綺麗です。奥様」
いつも通り、にっこりと褒める侍女。ヘレネは、あなた方が綺麗にしてくださったから、綺麗なのでしょうと思った。そこへ、ドアの外から使用人が恐る恐る声をかけた。二人がかりで重そうな箱を抱えている。
「失礼いたします……あの」
一人の侍女が目を吊り上げ「貴婦人の私室にございます。何の御用ですか」と問うと、「お、お届け物だそうで、このあたりにと書いてあるみたいです」と言った。彼らは警備のものと力持ちの下男で、字が読めず指示通り運んだだけのようであった。
「”人形”?……”我が家へ”、”隅の部屋で保管”……そのようですわね。しかし、今は奥様がお使いの部屋ですから……」
「待って、こちらは大奥様の字ではなくて?一度メイド長に伺ったほうが……」
二人の侍女が送り状を確認して忍び声で相談する。ややあって、指示通りドアのそばに一度置いてから機会を見て指示を仰ぐこととした。部屋の主であるヘレネが「構いません」と言って決まったことだった。
数時間後、昼ご飯の時間になり、メイドがワゴンを押してヘレネの部屋にやってきた。今日はオランジエのある東方の味付けを参考にしたと料理長が言っていた。ひとくちでもお召し上がりいただけるだろうかと緊張しながら、トントンと小さくノックをして「はい」という返事を待ってから扉を開けた。
「失礼します。奥さ、ま……」
言葉に詰まる。中は、荒らされたかのように散らかっていた。
「あの、こ、これ、は……?」
ひっつめにお仕着せの少女がおそるおそる尋ねる。
椅子やテーブルにはドレスが何着も重ねて置いてあり、床には靴がそろえて並んでいる。よく見ればドレッサーにも髪につけるアクセサリーが出されていた。
「ひゃあーっ!?」
飛び上がるほど驚いて声をあげた。彼女が肝心のヘレネのほうを見ると、ベッドのそばの床にぺたりと座ったヘレネの前に、女の子の人形が腰かけていたのである。四歳児ほどの大きさで、高級品であろうことはメイドの目からしても明らかだったが、妙に現実的な等身と流れた時間を感じさせる質感が不気味に映った。
「何事ですか」
「どうかしたの?」
悲鳴を聞いた使用人たちが駆けつける。その中には当然近くの部屋で女主人の私物の管理や手入れをしていたヘレネの侍女たちもおり、彼女らが真っ先に部屋の中へ入っていった。
「奥様、こちらはもしや……朝の箱の中身でございますか」
そばにしゃがんで声をかける。
「ええ」
あっさりと頷く。荷物を開けた理由、部屋が散らかっている理由を聞くべきとは思ったが──それよりも、侍女はヘレネが誰に何を言われることもなく自発的に行動を起こしたことに気をとられていた。
「何をなさっておいでですか?」
今朝一度メイド長に確認を、と言った赤毛の侍女が質問した。
動転して気づかなかったが、ヘレネは人形にドレスをあて、靴を履かせては脱がし、帽子やリボンをつけたり外したりしているようだった。まさか人形遊びをしていらっしゃるのだろうかと、本気で混乱していたところ。
「お下がりを探しています。でも、あまりありませんの」
何を言わんとしているかはわからないのに、胸中に黒い靄が広がる感覚があった。
また手に取ったドレスを人形の肩からあわせ、明らかに大きく余る肩や袖、最後に裾を手で触れて確認するとヘレネは眉をさげた。皆一様に固唾をのんで彼女の言葉を聞いていた。
「これでは引きずってしまいますわ」
そのドールの愛らしい相貌に引けを取らない顔を横へ向けて口を開く。
「わたくしのドレスはこの子には大きいですから、生地をお使いくださいまし」
「お待ちください奥様。これらは奥様のものでございます」
一人に目配せをしてもう一人がドアのほうを振り返った。
「セオドア様を……いえ、いえ旦那様をお呼び!今すぐ!」
へたりこんでいたメイドが「はい、ただ今っ」と立ち上がり、脚が露出しないように早歩きで出ていった。何かあれば遠慮せず呼んでくれていいと言われ、我々が旦那様を直接呼びつけるような真似、果たしてするときが来るのだろうかと内心首を傾げたことを思い出していた。
☆
ジャルダンを連れて若当主は現れた。出入り口に集まってしまった何人かをそちらに任せて部屋へはライナーのみが入り、「わあすごい、なんだこれ」と言いながら諸々を踏まないようにベッドの前まで歩く。侍女が距離を取り深く頭を下げたのに手を少しあげて応え、ヘレネと目線を合わせるため隣に跪いた。
「旦那様。この子ですね」
「なに、何?なんて……?」
当惑するライナーのうしろで侍女たちは手分けして散らかったドレスをまとめ、靴や小物をかき集めている。
「この子がエバンズに出荷……されてきました。わたくしと同じです」
ヘレネは話しながらつま先まで人に似た硬い手をとる。引かれるままに少々重みを伴って指、手首、肘と動く。キシ、と音がした。
「家族ごっこがうまくできませんでしたから、次の子が来たのですわ。ここは片づけて、この子のお部屋にするようにと」
「どこからこんなの……」
人払いを終わらせ、深いこげ茶色の木箱をわきに抱えたジャルダンが近づく。「それ大奥様からです」と囁き、蓋の送り状を見せた。
「あの……わたくしは行くところがなくて。オランジエには戻れませんし」
「戻らないよう、言われたんですよね」
「はい。ですからまた出荷か……」
我が家へ。物置ではなく風通しの良い隅の部屋で保管するように。いい機会だからついでに片づけて──ライナーが母の字を読み終えるのと同時に、ヘレネが蓋を指して問う。
「かわりにものおきへ行きます。物置?はどちらですか」
字の通り読み上げただけのアクセントで、物置が理解できていないことがわかった。話していても刺繍の概念を知らないとか海が何なのかわからないとか、しばしば記憶の空白に”暴走”の爪痕を思い知らされる。
「ヘレネ、聞いて。あなたの居場所はそんなところじゃない」
送り状を示して出されていた手をやわらかく握る。まっすぐ妻と視線を合わせて、ライナーはゆっくり噛んで含めるように伝えた。
「あのね、私はまだあなたとの家族ごっこの途中ですよ」
ふにゃ、とあえて笑って見せるが、そもそもこんな表現だって不本意なのにと思う。あなたは人間で、私の大事な妻ですとはっきり言えたなら。それが届くのなら。けれど彼女のせいではないことも、彼女のために言わないと決めたのが自分であることも、ライナーは痛いほど理解していた。
「この子ではなくて、あなたじゃないと、意味がないんです」
「……意味が」
ぽろ、とこぼしていつかと同じようにほんのわずかに目を見開いて首を傾けた彼女は、少しの間黙ってしまう。ぴんと来ていない様子だった。
「だからもう少し私に付き合ってくれませんか」
「……」
実際ヘレネは全てに納得できたとは言い難かったが、耳の奥には父らしき人物の言いつけの一つが響いていた。夫となる人に逆らってはならない。それから彼女はエバンズの黒い瞳を見た。そうするのがよいだろうと、本当にぼんやり考えた。
「そのように」
最後にはそう答えた。
ハラハラして見守っていたジャルダンは胸をなでおろす。一歩進まずに何歩も下がる日々の中で、今日は進みこそしなかったものの下がることは食い止めたんじゃないかと。ドレスと靴を抱えた侍女たちも、こっそり戻ってきて覗き込んでいたメイドもほうと潜めていた息を吐いた。邸の時はなんとか流れを再開した。
「よかった、ありがとう。……そうだ。せっかく来たし今日は一緒にランチでも……ごっこでも、しませんか」
「はい、ぜひ」
結局その人形はすぐさま箱に戻され、夫婦が外にいるうちにヘレネの視界に入らない場所へ移動し保管することになった。ずっしりとした感触にまたあの下男を呼びつけるかと逡巡する侍女をよそに、ジャルダンがひょいと持ち上げてあっさり場所を移した。
戻ったヘレネは「あの子は……物置でしょうか」と聞き、否と言うと以降件の人形について言及することはなかった。
☆
遥か遠くで前エバンズ伯爵夫妻が機嫌よく新鮮な海産物に舌鼓をうっていたが、夜には魔法郵便で届いた愛息子からのやたら情報が多い手紙でおおわらわである。こっちは気にせずに自分の力でがんばりなさいとは言ったものの、結婚やその相手の話までまったく知らされていないとは思ってもみなかった二人は、翌日から詫びの品代わりの新たな土産の選定を始めた。