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オランジエの庭を呑んだ

「……お。これ」

時は流れ、清々しい済んだ空気が広がる朝。書類を見つけた男の声が落ちた。

調査報告であるそれは、できるだけ印象や感情が排除され事実のみが記されている。

記録を見る限りヘレネ・オランジエの家庭教師や侍女、近しいメイドに至るまで、幼い頃から入れ替わりがかなり激しい。気難しくひどいわがままで手が付けられないという評判もあったそうだ。

ここはあとであいつにもちゃんと言っておかなきゃ、とライナーの視線がたどった先に。


──魔法で伯爵家の邸宅ごと周囲を森に変え、それから輿入れまで表での目撃情報はなし。出入りしていた人物のうち複数人が「お嬢様は記憶をなくされた」と証言。医師にあたり探ったところ、魔力量過多の”暴走”に際し名前や家族のことはおろか自我すら残らないほどの記憶障害を引き起こしていた。

「人が変わるほどに、……」

正確には、覚えていないのです。お料理も、魔法も、わたくしも……すべて。

頭の奥で平坦な声がした。

「そういうことかぁ」

そこからは直視を避けたくなるような内容が書面で踊っていた。出入りの業者や暇を出された使用人はよく口が回ったようだ。ヘレネが馬車に乗ってやってきた日の、無機質なガラスそっくりのつやを思い出す。誰も家族として接することはなく、貴族令嬢としても扱われず、商品のように家を出た人間の瞳があれか。

数枚の紙を机に置き、指先をこめかみに当てた。強大な力と、付随する恐怖と忌避と無関心と、どれもこれもを呑み込んで彼女は壊れてしまったのだろう。


用意されていたハーブティーに口をつける。ソーサーに戻して立った音は反響することなく部屋に染み込んでいく。ライナーはそのままひとつため息をついて、天板に崩れ落ちた。

「で。結局なんで人形……?」

腑に落ちた心地も束の間。解決には至らない。



その日のうちに、ライナーは身なりをちょっとよそゆき寄りに整えて邸の隅の部屋を訪ねた。同じく毎日それなりに着飾っているその人のもとへ、今度は誰も伴わず一人で。

「こんにちは」

「……もう、いらっしゃらないかと」

それでも待っていたらしい彼女は、瞼を伏せたままほんの小さく「こんにちは」と倣った。侍女からの気遣いであろう帽子には、小さな花の飾りがついている。

「言ったじゃないですか。あなたと話しに来ますと」

「ええ。旦那様はおはなしごっこがお好きと思って、次はもっと上手にと」

「そんなことは気にしないで」


「ヘレネ嬢のことが聞きたいです。ゆっくりでも、わからなくても、話せないことは話さなくても、まったく構わないから」

静かな二人の間をさわ、と、朝とは違うあたたかさの風が抜けていった。しばし待っているとヘレネが息を吸ったのがわかった。整った薄紅の唇からは、まるでどこか別の世界から誰かが眺めているように、彼女の短い人生が語られた。



ヘレネは目覚めたとき、何も覚えていなかった。

名前はヘレネ・オランジエ。伯爵の父を持ち、母と兄と姉が一人ずつ。それすらもわからなかった、いや、知らなかった。

「”暴走”の結果です。元に戻ることはないでしょう」

医者を名乗る男がそう言い放った。落胆の表情、失望の表情、沈痛な空気が部屋に降りていた。

曰く、魔力量が多いのはいいことで、しかし多すぎる者は時折”暴走”する。その際には人の身体の限界を超えてしまうため、不可逆な異常をきたす。ヘレネの場合外傷はないが記憶が無作為にごっそり消えていて、今から取り戻すことはできないと。

ヘレネが最初に受け止めたのは家族だという人物たちの自分を見る目だった。わからないゆえに、これを向けられる存在なのだと自らを定義した。一つわかって、安心した。

しばらくはほとんど誰も訪ねてこない仮住まいの一階隅の部屋と庭から出ないように過ごした。ヘレネの世界が広がることも増えることもなかったが、地面に触れていれば食事がろくに出てこなくても空腹にならないことは理解した。それで、自分は人間ではないのだろうと思った。

ある日彼女は呼び出され、エバンズ伯爵家というところに行くよう指示された。夫となる人に逆らわないよう痛くともつらくともあらわにしないよう言いつけられ、服などの準備をした。どれもこれも見覚えがなく、浮草にでもなったような心地のまま荷造りと身支度を終えた。

ここへはもう戻らないと言われ、誰かが「出荷のよう」「売られるのだ」「捨てられるよりはいい」と囁いたのも耳に届いた。ヘレネは手中に残っていた少ない言葉の中から探し、「わたくしは人形なのか」と納得して自分の輪郭をつくった。足の裏が地面に乗ったようにおぼえ、また安心することができた。

荷物には詰め込まなかったが、ヘレネがいてよかった部屋には古びた人形があり、それは傷やへこみが多く腕も片方なくなっていた。それが誰のものだったか、なぜそのように扱ったかもまったくわからなかったが、父の言いつけの意味はヘレネの中で繋がっていた。それがこれからのヘレネのように思われて、そっと抱きしめたあとボサボサの髪を撫で廃棄の箱に入れた。


馬車の窓から遠目に一度だけ、生まれ育ったという屋敷を見た。それは地を裂きうねる夥しい緑に巻かれており、まさに森の奥深くにある遺跡や残骸といった有様だった。たった数刻でそのようにしたらしいが、実感などわくはずもなかった。魔法については、壊れてしまったらもう思うようには使えないという話だった。そうでなくとも出ていく己が身にはもはや関係のないことだと思った。


新しい家では誰もがヘレネで遊んでくれた。毎日服を着せ替え、飾りをつけて髪を結い、顔に色を乗せた。昼には本物の食事と食器を出し、テーブルにつく彼女と並べて飾っておいた。庭に自らを置いておけば、誰ぞお世話ごっこでブランケットをかけた。湯船で丁寧に洗い、夜には箱に片付けた。オランジエにいたときよりは楽しんでもらえているし、人形の中ではとても大事にしてもらえているのではないかと思っていた。



聞いたから答えた。情感の伴わないそれ。

おおよその全貌を聞き終えたライナーはそれに対してなにか返すことはなく、は、と空気をこぼした。それで自分の体が固まっているのがわかって、姿勢を正して深くひとつ呼吸をした。


「ヘレネ嬢、今日から私とごっこ遊びをしませんか」

唐突な申し出にも関わらず、彼女は「はい、ぜひ」と頷いた。

支柱をなくした精神を保つための定義なら、それを抱えたままに進んできたとしたら。彼女が求めたものを今この手で壊す必要はあるのだろうか。自分を人形だとしてふるまうことが狂っているなどと、口が裂けても言えないと思った。

「家族ごっこをしましょう」

なくても大丈夫だと思えるまで、暮らせるまで、自分を見つけるまで、一緒に何の真似事をしたっていいと、自然に思えた。情なのか愛なのか、だとしたらどう芽生えたのか。ライナー本人にも知覚できていなかったけれど、それも追々でいいように思えた。

「私が夫で、あなたの妻の、家族ごっこです」

報告書にはエバンズの出した結納金の使い途まで書いてあり、その部分にのみ執事セオドアの怨嗟が残っていた。ほぼ全てがオランジエの邸宅の再建費用にあてられたと知ったジャルダンはおげぇと呻いていた。

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