第37話 別離
世の中には答えのない問いが沢山ある。善悪すら簡単には割り切れない。自然科学なら、突き詰めれば答えが見つかる。今は分からなかったとしても未来にはきっと。けれど明らかな解が存在しないのならば、消去法ではすべてが消えてしまうのならば。
私たちは何を選択すべきなのだろう。
「禍津日神は、幽世へと旅立たれます」
別室で長い時間、貢と話をしたのち、入って来た岬が説明してくれた。
八十禍津日神と大禍津日神は、生まれた場所を離れ、見知らぬ世界へと旅立つ。この世での解放が叶わないならそれも良いと、そう言ってくれたのだという。二神がこちらの世界にいることで二つの世界に接点が出来てしまうのなら、彼らが幽世へ行くことで、それを断ち切ると。
異次元の存在でありながら、けれどこの世に生まれ落ちた二神にとって、幽世は見知らぬ場所だ。本来自分たちが居るべき世界だとしても。そこはまさに異世界なのである。自分の身に置き換えて考えてみて、身の毛がよだつ程の恐怖を感じた。自分たちが長い間封じていた道を通り、彼らは黄泉へ向かうのだ。見たこともない、行ったこともない、死者の国へ。
そして境界は閉じられる。千引の岩が引かれ、幽世と現世は完全に遮断されるのだ。
正解のない問いに答えを出すために何かを捨てなければならないのだとしたら、誰かが諦めなければならないのだとすれば。選択されるものは、……それは正義などではない。
「姫神は、貢くんを自分と同じ目に遭わせたくなかったのかもしれませんね」
岬は呟くように言った。
「神様とは、そういうものですから」
言いようのない感情がじわじわと広がり、心を侵食した。涙を堪え切れなかった。嗚咽が漏れないように奥歯を噛みしめて、桐子は顔を伏せた。
「洞窟の奥で、姫神は彼から離れます。雄神がその助けとなるでしょう。そののち、二神は根の国へと旅立たれます。そして神々が旅立った後、千引の岩が二つの国を完全に隔てることになります」
千引の岩。伊耶那岐命が黄泉の国から逃げ帰る時に黄泉平坂を塞いだ大岩である。
「二神があの場所を離れられたら、洞窟は崩壊します。完全に崩れるまで、我々の時間で約二時間。戻って来ることは可能です。けれど……」
彼には難しいでしょう、と岬は言う。
そうなのだ。もし迷路でパニックを起こせば、戻って来ることなど不可能だ。図書館の廊下ですら迷ってしまって動けなくなっていたのに。
「桐子さん。あなた、付いて行ってあげてくれませんか」
いきなりそう言われて、桐子は驚いて顔を上げた。身体に電流が走ったような気がした。
貢と目が合った。困ったような顔に、自然に微笑で答える。いいよ。一緒に行こう。瞬きをすると、頬を涙が伝った。
「駄目です。彼女を危険に晒すわけにはいきません。私が行きます」
呻くように小百合が言った。
「姫神は、彼女を望まれました」
岬が言う。諭すような口ぶりだった。
「二人なら、戻って来られます」
激しく首を振り、小百合が桐子の肩を掴む。
「駄目よ。絶対に駄目。あなたにもしもの事があったら、私は御両親に顔向けできない」
小百合は泣いていた。彼女の中にも葛藤があるのだろう。震える手がそれを表していた。
「小島先生」
桐子は言った。
「私は親の所有物ではありません」
「駄目よ、秋山さん……」
「自分の事は、自分で決めます」
小百合の手から力が抜ける。
「心配しないでください。必ず連れて戻ります」
私は、アリアドネだから。
「……桐子さん、済まない」
靖久が頭を下げた。
冷たい水で禊ぎをした後、貢は白い袍と袴を着せられ、冠を被せられた。斎服というらしい。桐子もなぜか巫女の格好をされられ、なんだかコスプレみたいだと思う。そんな場合ではないのだけれど。
「行ってきます」
縋るような小百合の眼差しを後に、二人は洞窟に足を踏み入れた。
懐中電灯で足元を照らしながら先へ進む。姫神が案内してくれているのだろうか、貢は迷う様子もなく前へと進む。入り口からの光は、すぐに届かなくなった。
幾つもの分かれ道を通り、歩き続ける。何処をどう歩いたのか、まったく憶えていない。帰りは右手を壁につけて歩いて行けば出口に辿り着くと教えられたが、本当に大丈夫なのだろうか。不安に押しつぶされそうになりながら、桐子は歩き続けた。
大きな曲がり角を曲がったとき、草履の足が冷たい水を踏んだ。
広い場所だった。光源が見つからないのに、そこだけぼんやりと明るい。中央に古い木箱が置かれているのが見えた。
「着いたよ」
誰にともなく、貢が言う。姫神に声を掛けたのだろうか。
木箱のあたりの空間が歪み、人影のようなものが揺らいで見えた。
「戻って来たか」
呼びかける声は、雄神のものに思えた。
「六年か。人間にとっては長い時間だ。……坊やは、もう自由にしてやれ」
突然、貢が宙に浮いた。その身体が紅い光に包まれる。光は収縮し、ゆっくりと貢から離れていく。
紅い光は木箱に入り、勾玉に吸い込まれたように見えた。
地面に降りてよろめいた貢が、桐子の腕に縋りつく。焼きもちやきの姫神の怒りを買うのではないかと心配しながら、桐子は貢を支えた。友達なんです。だから怒らないで。
「ありがとう、媛」
貢が呼びかける。
「さようなら」
木箱から柔らかな風が立ち昇った。美しい紅い光と、すべての色を吸い込む漆黒の揺らぎ。暫く揺蕩っていたそれは、やがてゆるりと人に似た姿となった。
穢れから生まれた神々の姿は、例えようもない程に美しく、清らかに輝いて見えた。
ほんの少しだけ名残惜しそうに、姫神がこちらを振り返り、小さく笑ったようだった。




