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第36話 Evighed

 鳥の声で目覚める。少しだけまどろんでいたようだ。

 目が覚めたら全部嘘になっているのではないかという微かな望みは、まぶたを開くと同時に消え去り、現実が桐子を嘲笑あざわらった。

朝餉あさげの支度が出来ております」

 あの男──野瀬が声を掛けてくれたけれど、食欲などあろう筈がなかった。

 誰も手を付けようとしない膳の前で、岬が深々と頭を下げる。

「力及ばず、申し訳ございません」

 小百合が顔を伏せ、唇を噛むのが見えた。

 とても、重い時間だった。

「お祖母ばあちゃん」

 ふと、貢が声を発した。ほとんど眠っていないのだろう。眼が赤かった。

「ごめんね」

 耐えきれずに嗚咽を漏らす小百合の背を、靖久が撫でる。桐子は膝の上で拳を握り締めた。何の力にもなれない事が悔しかった。

「ここに来てから何度か神様と対話をしたんだ。この人が」

 そう言って、視線で野瀬を示す。

「神様の言葉を伝えてくれるんだ。姫神は何も語り掛けてはくれなかったんだけど」

 禍津日神は二神。貢に取り憑いた姫神と、もう一人の雄神。きょうだいのようなものなのだという。紅と黒の勾玉に封じ込められ、洞窟の奥に祀られている。

けがれから生まれ、厄災の神として封じられた。僕たちには想像もつかないほど長い間、暗い洞窟の中にいたんだ。時折り現れる人を根の国へと案内するのが仕事。それが当たり前だと思ってたって言ってた」

 相容れぬものを、昔の人は穢れと呼んだのかもしれない。穢れから生まれた神とは、相反する世界からこの世に迷い込んだ存在なのだろうか。洞窟に封印され、彼らの時は止まった。神話の時代から今まで。数千年、いや数えることなど、きっと出来ないだろう。それ程までに長い時間。

「洞窟に入り込んだ時に、僕は姫神に気に入られたらしい。焼きもちやきだから女を寄せ付けなくて。僕の感情は中学生で止まっているんだってさ」

 貢は、そう言って笑ってみせたけれど、笑う者は誰もいなかった。

 姫神が貢の中に居ることで、雄神は姿を現すことが出来たのだという。若い神職の姿形を借りて。雄神は姫神に会いに来た。

「昨夜初めて、姫神と話をしたんだ。今はもう黙ってしまったけれど」

 貢は続けた。

「姫神は、僕の眼を通して色々なものを見たんだって」

 貢の声は優しかったけれど。

「外に、出たいと言っていた」

 とても悲しそうな目をしていた。

 果てしなく長い封印された時間。それが未来永劫続くのだと考えただけで、気が遠くなりそうだ。

──解放を望む。

 その言葉が、重く心の内に沈んだ。

「僕の身体が歳をとって死んだら、姫神は勾玉に戻るのかもしれない。それまで一緒にいてあげるのもいいかなと思ったんだ」

 胸の奥に冷たい氷が刺さったような気がした。鋭くとがったそれが桐子の心臓を刺し、凍らせていく。昔読んだ物語。氷の欠片かけらで永遠《Evighed》という文字を作り続ける少年。どれだけ時間をかけてもパズルは完成しない。氷の王子は、永久にそこから出られない。

「ごめんね」

 最後に、もう一度そう言って、貢は口を閉ざした。

 誰も、何も言わなかった。

 音のない、不思議な空間にいるような気がした。もう二度と彼に会うことはないのだ。そう思ったとき、桐子の脳は思考することを止めた。

 貢は、桐子を見ていた。優しい眼差しに縋るように、桐子は瞬きもせずにそれを見詰めた。

──お別れだね。

 そう言われた気がして、桐子は堪らなくなって目を伏せた。

 長い長い無言の時間が過ぎた。

 

「え……?」

 突然、貢が小さな声を発した。驚いたような表情が、次第に悲し気に変わる。唇を噛んで拳を握り締め、貢は項垂れた。

 風の音が聞こえた。それは次第に強くなり、木の葉が鳴る音が雨音のように感じられる。窓を見ても雨など降ってはいないのに、雨粒が木々を叩く音だけが大きく響いた。

禰宜ねぎさん」

 のろのろと、貢が岬へと顔を向けた。何か迷っているような口ぶりだった。

「今、姫神が語り掛けてくれました」

 貢の言葉に、岬の眼が大きく見開かれるのが見えた。

「もう一つだけ、方法があります」

 頬を紅潮させた岬の表情と、悲し気な貢の顔は対称的で、桐子は奇妙な絵画でも見るように二人を見ていた。

 小さく溜息を吐いて、貢は言った。

ひめが、折れてくれました」

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