第33話 神域
「ようこそ、お越しくださいました」
迎えてくれた白髪の老人は、桐子たちを見て穏やかな微笑を浮かべた。
「こちらから連絡しなくては、と思っていたのですが」
「岬さん」
小百合の声色は固い。怒りを抑えているように思えた。
「初めまして、小島です。彼女の夫です」
靖久が自己紹介をすると、岬と呼ばれた老人は驚いた顔をした。
「先日来られた男性がご主人なのかと思っておりました。そういえば名字が違いましたな。これは失礼」
小百合は笑いもしない。
「そしてあなたは……桐子さんですかな?」
「彼女の名前をご存じなのですか」
小百合が不信感を露わにして尋ねる。岬は笑みを崩さず、小さく頷いた。
「お孫さんから聞いています」
「では、やはり」
「貢は、貢は何処にいるの!」
岬に掴み掛らんばかりの小百合の肩を押さえ、靖久が言った。
「全て話していただけますね」
座敷に通され、座布団を勧められた。小百合を真ん中に三人並んで座った桐子たちの後ろで、襖が開く音がした。
若い神職と思われる男性が、お茶を運んで来た。座卓に湯呑を並べ、盆を持って立ち上がる。何気なくその顔を見た桐子は、あやうく悲鳴を上げそうになった。
図書館で会った男だ。間違いない。冷たい笑みが脳裏によみがえる。何故ここにいるのだ。この男が貢を攫ったのか。
けれど男の表情は柔らかで、まるで別人のようにさえ思えた。桐子を見て優しい笑みを浮かべる。
「ごゆっくり」
声も同じなのに。この違和感はなんだろう。混乱する桐子をよそに、男は深々と頭を下げて部屋を出て行った。
「秋山さん、どうしたの」
小百合に言われて、桐子は自分が震えていることに気付いた。
「今の人は、誰ですか」
岬に尋ねる。答えたのは小百合だった。
「野瀬さんっていって、この神社で神主のお世話をされている方よ。洞窟を案内してくださったわ」
気分が悪いの? と言いながら、小百合は桐子の背中に手を当てた。その胸に倒れ込みそうになりながら、桐子は言葉を吐き出した。
「図書館で会った人です。学長室横の廊下でも、カフェテリアでも。現れて……煙のように消えてしまった、あの男です」
「何ですって!」
信じられないといった様子で、小百合が声を顰めた。桐子を抱き寄せ、背中を撫でる。
「落ち着いて」
そう耳元で囁き、小百合は岬に向き直った。
「岬さん。彼が……野瀬さんが、貢を攫ったのですか」
小百合の言葉に、岬は頷いた。
「攫ったと言われれば、そうだと言う他はありませんが、決して暴力的にこちらに来て頂いた訳ではありません。お孫さんが、いえ、中におわす媛が、こちらに来ることを望まれたのです」
中に居る? あの男も、そんな事を言っていた。
「最初から順を追ってお話ししましょう」
岬は話し始めた。
「この神社は太古より、禍津日神を祀っております。禍津日神とは、黄泉の国から逃げ帰った伊邪那岐命が禊ぎを行った際に、その身の穢れから生まれたと言われる二神です。あらゆる禍の元となる厄災の神と言われています。洞窟の奥、誰も行けない場所に二つの玉が安置されており、それが御神体です。八十禍津日神と大禍津日神。紅と黒の勾玉と聞いております」
岬はそこまで話して、一旦言葉を切った。
「多く神社というものは、荒魂を鎮め、祀ることでその怨念を封じ込める役目を持っております。この神社もそうです。禍津日神は、正確に言えば祀られているのではなく封印されているのです。先日一緒に来られた……工藤さん、でしたかな。あの方は洞窟の事を黄泉平坂のようだと言われたとか。よく見ておられる。あそこは、現世と幽世を繋ぐ場所です」
誰も声を発しなかった。岬の言葉を一言一句聞き漏らすまいとするかのように、皆が息を呑んで彼を見詰めていた。
「大昔から、この世で生きていくことに耐えられない程の苦しみを携えた者が、あの洞窟を訪います。封印された神々は、彼らを黄泉へと送ります。その苦しみを絶つために」
「では、あの団体は」
靖久が尋ねる。
「当初の目的は、若者を救うことではありませんでした」
そう言った後、岬は少し言いよどんだ。
「かつて、あの洞窟を訪う者は、数年に一人、いえ十数年に一人ぐらいのものでした。昨今は、インターネットの普及に因るものでしょうか、多くの人々が洞窟を訪れます。もしかしたら、時が経ち封印が弱まったことで神々の力が漏れ出し、死を望む若者を呼び寄せるのかもしれません。無事に出て来られる者はいい。けれど次第に、そのまま向こう側へと渡ってしまう者が現れるようになりました。これ以上結界が揺らがぬよう、我々は自殺志願者と対話し、選り分ける必要があったのです。」
岬はそう言って、自嘲気味に笑った。
「消え去ることが、その人の心からの望みであれば、我々は止めませんでした。この世に一切の未練がないのなら、それも良いのかもしれない。すべては神の判断に委ねました」
何かを愛おしむような眼差しに思えた。
「危ういバランスを保っていたのです。限界は近かったのかもしれません」
岬は一旦息を吐くと、辛そうに小百合たちを見詰めた。
「ある日、結界は破られました。何故辿り着けたのかは不明です。六年前、悪戯半分に洞窟に入り込んだ子供たちがいました。その中の一人が神域に足を踏み入れてしまったのです。そこで姫神は彼に憑依した。いや、完全に中に入ってしまったのです」
姫神がいなくなったことに気付くまで、少し時間が掛かったのだという。
「気付かなかったのです。彼の口から」
と言って、岬は襖の方に目をやった。
「託宣があるまでは」
では、あの男も尸童なのか。禍津日神が憑依するという。
「我々はその子供を探し、居場所を突き止めました。結果、事を急いでしまったのです」
岬は悲し気に目を伏せた。
「そんな事をする男ではなかったのです。あのとき彼は何かに憑かれたように姫神を追い求めていました。もしかしたら……いえ、想像でものを言うのは止めておきましょう。とにかく彼は、取り返しのつかない事故を起こしてしまいました」
「では、あの事故は。静香たちを殺したのは……」
靖久が呻いた。
「申し訳ない事を致しました」
岬は二人に向かって深々と頭を下げた。
「殺めるつもりではなかったなどど、今更言ってもどうしようもありません。ただ、あなた方の娘さん御夫婦を死に追いやった人物は、もうこの世にはおりません。私の甥である彼は、罪の意識に苛まれ、自ら洞窟へ入りました。神の裁きを受ける為です。彼が戻って来ることはありませんでした」
それで許してくれなどとは決して申しません。岬はそう付け加えた。
「何という事を……」
言葉を失くした小百合と靖久に向かって、岬は再び深々と頭を下げた。




