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第30話 曖昧な正義

「……ということで、歴史的に見ると裁判は理不尽な私刑を失くす役割を果たしたわけですが」

 法学概論の講義である。小百合は講義を休んでいる為、講師が代行している。教室の後ろの席にぼんやりと座ったまま、桐子は指先でシャープペンシルを回していた。

「話し合いで解決することが最善だと思われる事案でも、裁判に頼らざるを得ない場合もあります。なおかつ、判決がすべからく人々に受け入れられるとは限らない」

 そう、講師は続けた。

「正義とは、あやふやなものです。それぞれの立場が違うことで正しさの基準も変わって来ることは、皆さんもご存じですね。宗教戦争がその最たるものだと言えるでしょう」

「立場が違っても、話し合いで解決することは可能ではありませんか。反論ができないような正しい意見で、相手を論破することが出来る筈です」

 学生の一人からそんな発言があった。講師は「そうですね」と言った後で、ゆっくり教室を見渡した。

「論破するということは、どんな意味を持つのでしょうか」

 ひとつ例を挙げてみましょうと、講師は話し始めた。

「美容に効果の高い、とても珍しい薬が盗まれて、高額で転売されたとしましょう。転売者は行方をくらましてしまいましたが、美を生業にしている元の持ち主は購入者を見つけ、薬を返すよう求めました。購入者には病気の子供がいました。難しい病気でしたが、その薬は、その病気の特効薬でもあったのです。購入者は全財産をはたいて、その薬を購入したのでした。購入者は元の持ち主に頼みました。この薬がなければ、子供は死んでしまう。どうか譲って欲しいと。けれど、元の持ち主は言うことが出来るのです。『それは、あなたの都合でしょう』と」

 少しだけ、嫌な笑いが起きた。

「酷い話だと思われるでしょうが、法的には、これが正しいのです」

 民法第百九十三条。古物商等ではない一般の個人から買い取った盗難物は、盗難から二年以内に持ち主から返還請求された場合は無料で返還する義務がある。考えてみれば、転売者が関与する部分を取り払えば、購入者が元の持ち主に薬を無料で譲ってくれと言っているだけだ。

 けれど人の情として、子供を助けたいとは思わないのだろうか。

「クラウドファンディングでお金を集める方法はどうでしょう」

 さっきとは違う学生が発言した。

「多くの人々の善意によって子供の命を助けようとする動きは数多くあります」

 講師は暫く黙った後、穏やかに微笑んだ。

「いいですか。私は言いました。その薬は非常に珍しいものだと。二度と手に入らないものだと認識してください」

「でも、人々は病気の子供を持つ購入者に味方するでしょう。元の持ち主を説得すれば何とか……」

 講師の苦笑に、学生は言葉を切った。

 違うのだ。これでは脅迫でしかない。「善意」を理由にして自己犠牲を強いる行為だ。元の持ち主は美を生業としているということであれば、薬を取り上げる事は、その人からその後の人生をも奪う事に繋がってしまう。

「お分りですね。それでは脅迫になります。誰にも、元の持ち主から薬を奪う権利などありません」

 しかしながら、と講師は続けた。

「現代においては、メディアが介入することで新たな私刑が行われます」

 そう言うと一息ついて顔を上げ、学生たちを見渡す。

「人々は購入者に味方するでしょう。リスクを負わない正義は娯楽です。そして、彼らは元の持ち主を罰します。自分の美貌の為に子供の命を奪おうとしている悪人として」

 教室にざわめきが走った。

 そう。それは論理のすり替えだ。元の持ち主があたかもエリザベート・バートリであるかのように位置づけることで、他者を裁くという娯楽に大義名分を得る。インターネットで叩くだけなら躊躇すらしないだろう。

「結果、購入者が薬を手に入れたとしましょう。一見、正しいことが行われたように見えます。けれど、それが原因で元の持ち主が命を絶ったとしたら、どうでしょう。また、同じ病気の子供が他にも存在することが分かったら」

 ざわめきは消え、学生たちの多くが目を伏せるのが見えた。

「もしかしたら、人々は掌を返すかもしれません」

 講師は溜息を吐くように言葉を発した。

「『自分達だけ助かる為に他者を犠牲にした悪人だ』ってね」

 第三者の立場が必ずしも公平という訳ではありません。一見正義に見える世間の声には、様々な悪意がうずまいているのです。そして、それを利用することで、作為によるミスリードが可能です。講師は、そう締め括った。

 コンセンサスゲームに似ているような気がした。様々な角度から見ることで、物事は違う顔を見せる。俯瞰ふかんしてみることが正しいとは限らないのだ。

 ざわめきの中、講義の終わりを告げる鐘が鳴る。考えがまとまらないまま、桐子は一人、教室を後にした。



「一ノ瀬くん、まだ見つからないのね」

 カフェテリアの片隅。図書館に居たのを半ば強引に引っ張りだされ、桐子は友人たちと席についていた。

 しっかりしろ、とはみどりは言わない。ただ黙って寄り添ってくれる。

「お昼食べてないでしょ。顔色悪いよ。……ちゃんと眠れてる?」

 眠れないよね、と言ってみどりが席を立った。

「桐子ぉ」

 心愛が桐子の背中を撫でる。彼女の方が泣き出しそうだ。

「はい、桐子」

 目の前にプリンの皿が置かれた。生クリームと、さくらんぼが添えられている。

「これなら食べられそうかなと思って。無理にとは言わないけど」

 みどりが、そう言って微笑む。

「ありがとう」

 昔風のしっかりしたプリンは甘くて、カラメルがほろ苦かった。

「つらいよね」

 もう限界だった。

 桐子は初めて、友達の前で涙を見せた。

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