第29話 複素数
「胎内洞みたいなものですか? 生まれ変わるといったような」
桐子は尋ねた。小百合は紅茶をかき混ぜていた手を止め、小さく首を傾げた。
「輪廻転生は仏教の教えね。神道では人が死ねば、魂は幽世という神の国へ行くのですって。常世とか、根の国とか黄泉とも言われる。そこがどんな処かは分からないけれど」
伊邪那岐は黄泉で、おぞましい姿になった伊邪那美を見て、恐れをなして逃げ帰る。死者の国とは、生けるものが到底受け入れられない程に恐ろしい世界なのだ。それでも尚、そこに行きたいと願う者がいるのだろうか。ならば、その思いを止めることなど誰にも出来ないだろう。そんな気がした。
けれど貢は違う。彼はそんな事を願ってなどいなかった。最悪の事態という、視界の外に追いやっていながらも背中に感じざるを得ないその影を、単純に繋げてはいけない。
「小島先生」
桐子は言った。
「そもそも一ノ瀬くんは自殺志願者ではありません」
小百合は「そうね」と頷いた。そして、遠くを見るように視線を動かす。
「私ね、貢が両親に会いたくなったんじゃないかと思ったの」
そう言った後、小百合は自嘲気味に笑った。
「違うわね。娘に会いたいのは私の方」
小百合は、テーブルの上の報告書を開いた。興信所からのものである。貢の行方については『調査中』とある。『C』については『調査打切』と書かれていた。
「これって、あの神社が運営していた団体ですか」
尋ねると、小百合は頷いた。
「本当は名前は無いんですって。これはロゴみたいなものだと仰ってたわ」
「この文字、複素数の記号みたいですね」
Cの文字に縦線が入っているのを見て思ったのだ。
「複素数? 実数と虚数を組み合わせた数ね」
小百合は何故か溜息を吐いた。
「あの世と、この世。どちらが偽物なのかしら」
小百合の表情は何かに取り込まれてしまったようにも見え、桐子は少し不安になった。
「小島先生、その人たちが探していたものは分かりましたか?」
桐子の問いに、小百合は首を振る。
「尋ねてみたんだけど、知らないと言われたわ。嘘をついているようには見えなかった」
工藤の問いに、岬は覚えがないと言った。お茶を出してくれた若い神職を呼び寄せて尋ねてくれたが、首を傾げるだけだったという。
「打つ手なしか」
貢の祖父の言葉に小百合が力なく頷くのを見て、桐子は何も言えなくなった。
閉店間際のカフェテリアで、桐子は一人、窓の外を眺めていた。そろそろ片付けを始めたい店員にしたら迷惑な客かもしれない。自動販売機でカフェオレを買って、注文もせずに座っているだけなのだから。
騒ぎが大きくならないように失踪の事実は伏せられたが、人の口には戸が立てられない。大学では、そこそこ話題になっていた。友人達は桐子を気遣ってくれたけれど、ありがたいと思いながら、一人にして欲しいとも思う。
出来るだけ邪魔にならないように入り口近くの隅の席に移動すると、窓の外に小さな観覧車が浮かんでいるのが見えた。振り向くと、少し離れた場所に置かれたソーラーの観覧車が、店内の灯りに反応して緩々と動いていた。
窓の外に視線を戻すと、夜空を背景に半透明の観覧車がゆっくり回る。無意識に目を凝らして中にいる人の姿を探す自分に気付いて溜息を吐くと、透明な窓が息で白く曇り、観覧車の姿は消えた。
何が起きているのか、さっぱり分からない。人が消えるという噂と、誰かを探しているという話。考えれば考えるほど思考の穴に落ちてしまいそうになるのを感じた。掴みかけたと思っても、それは虚数解。指の隙間から、するりと抜け出してしまう。何か人ならぬものの意志が働いているようにさえ思えた。
あの男が関与しているのだろうか。それは、唯一の手掛かりであると同時に、考えたくない嫌な予感を呼び起こす。
SPを気取りながら、自分は何も出来なかった。あの男の顔すらはっきりと思い出すことが出来なかった。自分に出来ることは何もないのだろうか。警察は動いてくれず、興信所も何もつかめてはいない。小百合が訪ねた神社も『C』も、怪しいけれど情報は何もない。桐子があの男の顔をはっきり憶えていさえすれば、何かが違ったかもしれないのに……。
気持ちは、千々に乱れていた。




