第20話 蕎麦打ちの極意
「昼は鴨南蛮でいいかい?」
夫がキッチンから顔を出した。かれこれ四か月、食卓には必ず蕎麦が並ぶ。そろそろ食べ飽きた。退職してからずっと、家事のほぼ一切を引き受けてくれているから文句は言えないが、いい加減、別のものが食べたい。
せめて瓦蕎麦にして欲しい、そんな事を思った。
「貢は、今日は出掛けてるんだったよな」
「ええ。神田の古書店街へ行くとか」
「あの子と一緒かい?」
今日は一人で出掛けると言っていた。誘ったけれど断られたのだという。まったく、押しの弱い子だ。妙にしょげていたのが痛々しかったが。
「良いお嬢さんだね。わしが作った蕎麦を、美味そうに食べてくれた」
「そうね」
仲良くしてくれるのはありがたい。けれど、彼女を巻き込んでしまう事は憚られた。貢の側にいて欲しいという思いと、何かあったら申し訳ないという気持ちがせめぎ合っている。
貢を守りたい。でも、どうすればいいのだ。敵が何者なのかも、何が目的なのかも分からない。相手の出方を待つしかないのだ。そもそも敵が存在するのかどうかも分からない。思い過ごしであって欲しい。
「あれ? これって」
夫の声に我に返る。
工藤から借りた報告書がテーブルに広げられているのを覗き込んで、夫は何かを思い出すように首を捻った。
「貢が迷子になった山じゃないか? ……やっぱりそうだ。静香たちが泊めてもらった神社だよ」
驚くと共に、引っ掛かりが解消した。そうだ。どこかで聞いた名前だと思ったのだ。
交通事故に遭う数か月前、貢は学校の行事で山登りに出かけた。あまり聞いたことのない名前の山だった。日帰りの予定だったが、下山したのは翌日の午後になってからだった。山頂の洞窟で、貢が行方不明になったせいだ。
洞窟の中は迷路のように入り組んでおり、危険なため立入は禁じられていた。ルールを破るのが楽しい年頃だ。悪戯好きのグループの何人かが途中まで入ったものの、気味が悪くなってすぐに引き返すことにしたと後で聞いた。目印をつけておいた道を辿って戻る途中、気付くと、すぐ後ろを歩いていた筈の貢の姿が消えていたのだという。
警察に連絡して捜索が行われたが、行方は分からなかった。当時十三歳。神主の厚意で、娘夫婦は神社の社務所で連絡を待たせてもらった。
捜索は難航した。内部に入った捜索隊は、どの道を通っても入口に戻って来てしまう。日が暮れて、いったん捜索は打ち切られた。
もしかしたら山の反対側におりてしまったかも知れないと言われ、隣の県の警察に応援を要請する旨の説明を受けていた時、突然貢は帰って来た。見ていた人の話によると、洞窟の入口から、いつの間にか現れたのだという。どうやって戻って来たのか尋ねても、何も憶えていなかったらしい。
「あれから、もう六年も経つんだな」
しみじみと、夫が言った。
そうだ。あれから程なくして、貢は誰かに見られていると言い出した。貢の母である娘の静香も不審な人物を見かけたとのことで、心配していた矢先に貢は攫われかけたのだ。そして、その後一週間も経たないうちに、娘夫婦は帰らぬ人となった。
あの日、洞窟で何があったのだろうか。そして、交通事故との関係はあるのだろうか。 興信所は何か掴んでくるだろうか。六年の空白を経て、団体が動き出した理由は何だろう。
妙な胸騒ぎがした。知りたいと思う事で、何かとんでもないものを掘り当ててしまうのではないか。そんな気がしてならなかった。




