Sample7 煙草に火がつかない
春の川、風もなく、桜も菜の花もただ揺れるだけ。
男は竿を握り、白い手で浮きの波紋を見つめる。
煙草は火もなく、流れるままに。
土手を歩く若者と子供の声が、遠く、まるで別の季節のように響く。
「釣れねえな」
それだけが、今の彼のすべてだった。
静かな絶望が、水面に鈍く揺れていた。
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陽はとうに南中を過ぎて、霞がかる空の下、春の河原はしんと静まりかえっていた。風はなく、どこまでも穏やかだった。ひばりが微かに鳴いている。水面は、波も立てずに空を映し、青く、鈍く、輝いている。
一本の柳が水際に影を落としている。その傍らに、一人の男がいた。薄汚れたジャンパーに古びたズボン、靴は泥に塗れて形もわからない。竿を握る手だけが不釣り合いに白かった。男は川面をじっと見ている。浮きはまるで風に乗った桜の花びらのように、ゆらゆらと揺れていた。
男のそばには、弁当箱が転がっている。蓋がわずかに開いて、飯粒がこびりついていた。もう喰い終えたらしい。口元にはちびた煙草がぶら下がっている。火は消え、煙はもう出ていない。
対岸の土手には、菜の花が咲き乱れていた。風にそよぐたびに、その黄色が揺らめいた。さらに奥には桜の並木があった。満開の花が重なり合い、雲のように膨れ上がっていた。風が吹けば、ひらひらと花びらが散る。けれど、ここに風はない。
男は煙草を川に投げ捨てた。火はもう消えているのに。水に落ちた吸殻は、ゆっくりと流れに乗った。男は竿を少し上げて、浮きを確かめる。魚の影は見えない。
男の後ろ、河川敷の上の道を、新しいスーツを着た若者が歩いていた。ネクタイはまだぎこちなく締められている。手には小さな鞄を持っている。背筋は伸びているが、どこか不安げだった。その後ろを、小さな女の子が走っていた。黄色い帽子をかぶり、ピカピカのランドセルを背負っている。母親らしき女が笑いながら、それを追いかけていた。
「お母さん、さくら! さくら!」
女の子は指をさした。対岸の桜の並木を見て、はしゃいでいる。桜は確かに美しかった。淡い薄紅色が陽を受けて、静かに輝いている。
釣り人の男は、それを一瞥する。特に何の感慨もない。そして、煙草の吸殻が川の流れに乗ってゆくのを、黙って見送った。
「おい」
低い声がした。男の足元に、もうひとりの影が立っていた。
「釣れるかい?」
見ると、年老いた男が、手ぶらで立っていた。こちらを見下ろす、日に焼けた顔には深い皺が刻まれ、目は濁っている。男はゆっくりと竿を持ち上げた。浮きは水面を滑り、やがて岸辺へと引き寄せられる。
「釣れねぇな」
「昔は、釣れたんだかな」
「諦めてるよ」
老人の言葉にそう言って、男はまた煙草をくわえた。火はつけない。老人はそれを見つめるようにしながら、ふと視線を上げ、土手の方を振り返った。
「賑やかだな」
菜の花が揺れ、レンゲが光り、桜が空を覆う。新しい生活に胸を膨らませた者たちが、道を行き交う。だが、それはあの土手の上のことであり、ここには関係のない話だった。
「まあな」
男は答えた。だが、彼の目はもう川の流れに戻っていた。やがて老人も、何も言わずに土手を歩き去った。
それを見送ることもなく、くわえた煙草に火を付けようと、男はジャンパーのポケットを漁る。だが、男がしばらくポケットを漁っても、ライターは一向に見つからないのだった。
釣り竿の先、川面にさざ波が立つ。ゆっくりと水が流れて、春の日差しは依然として穏やかで、どこまでも静かだった。
男は独り、つぶやく。
「……釣れねえな」