Sample6 無情の夜
朽ちた街に月光が滲み、腐臭を纏う足音が闇に刻まれる。
命は燃え尽き、酒と煙が虚空に溶ける。
若き瞳の奥で揺れる希望の影も、
夜を超えればただの残滓。
流れるままに、ただ生き、
そして、何も変わらず死へと続く。
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十年。
何もかもが変わった。
地を踏み鳴らすゾンビどもの腐臭にまみれ、朽ちた都市の骸が冷え切った月光に晒される。
それでも人は生きる。希望なんぞクソくらえだ。人間ってのは惰性で生きる。糞みたいな運命に抗うんじゃない。流されるのが生きるってことだ。
防塁の前線で、夜がくるたび物語が生まれる。だが、それは火の粉のように宙を舞い、闇へと消えていく。命の火など、とうに燃え尽きた。
残ったのは惰性と、安酒とタバコの味だけだった。
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ーージョンは安物の軍用煙草を口に咥え、指で揉み潰すようにマッチを擦った。ひりついた硫黄の匂いが鼻を刺す。
吸い込む煙に意味なんてない。吸って吐いて、また吸う。まるで生きるってことそのものだ。
「来やがったか」
呟いた声は、夜の静寂とゾンビの群れの前に溶けて消えてゆく。
隣には、まだ青いガキ――トム。
戦場に足を踏み入れて数週間の十六のひよっこは、やせ細った肩を震わせながらも、必死に銃を握る。恐怖に耐えるために。生き延びるために。
「怖いです、ね。でも、これが僕らの仕事ですから」
震えた声に、それでも若さという愚かな強さが滲む。
ジョンは苦笑した。若さが罪なら、老いは罰だ。どちらにせよ、贖うしかない。
「怖いのは当たり前だ。だが、仲間がいればなんとかなる」
そう言ったジョンの背後で、誰かがゲラゲラ笑っていた。
防塁の奥でウィスキー喰らっていたベンが、酒瓶を振りかざす。
「なんとかなる? てめえ、マジで言ってんのか?」
ベンは泥酔していた。ジョンと同じ四十路だが、もう歯が何本か抜けている。いつも酒臭く、いつも負け戦の話ばかりする。
「おい、トム、お前も飲め。どうせ死ぬなら酔っ払ってたほうがマシだ」
「やめとけ。未成年だ」
「今さらかよ!」
ジョンの台詞に手を叩いてゲラゲラ笑うベン。
その隣では、アイリーンが煙草を吹かしながら足を組んでいた。女だが、誰よりも狙撃が上手い。
元銀行員だったとかなんとか聞いたが、今ではただの酔っ払いだ。
「トム、あんた、童貞?」
突然の問いに、トムがむせる。
そんな初心な仕草に、ニヤニヤ笑いながらアイリーンは続るのだ。
「いい? 人生ってのは、やりたいことをやっとくもんよ。酒も、煙草も、女も。ゾンビに喰われた後で、『童貞のまま死にました』なんてごめんでしょ?」
トムは赤くなり、ジョンは苦笑する。
「くだらねえこと言ってないで、仕事しろ」
「へいへい。あんたはいつも真面目だよ」
その時――
「B4堡塁陥落! 繰り返す、B4堡塁陥落! ……総員、そのまま対象の襲撃に備えよ!!」
無線が絶望を叫んだ。
コロニーと、前線とを結ぶ重要地点。
それが、前線が接敵する前に落ちた。
あり得ない話だ。
「畜生! あそこは最も守りが堅いはずだぞ、どうなってやがる!」
「知らん! だが連中、今夜は異様に多い! このままじゃ、ここも持たんぞ!」
ゾンビ達の前進に応じ、銃声が響き出す。火炎放射の炎が、暗闇を引き裂く。ゾンビどもが焼け焦げる臭いが鼻をついた。
「なぁ、トム」
ジョンは煙を吐きながら言った。
「お前は、まだ希望を抱けるか?」
沈黙。
若者は答えず、ただ深く息を吐く。生への渇望と死への安堵――その狭間で揺れる魂が、闇に呑まれていく。
ジョンはフィルターが焦げるほどまで吸い尽くした煙草を投げ捨てた。
暗闇の中、冷たい月光に照らされる彼の顔は、まるで生気を失った死人のようだった。しかし、そんなことはどうでもよかった。
命の値打ちなんて、もうとっくにわかっていたのだ。無価値だ。
「希望か…」ジョンは呟く。言葉の響きにすら違和感を覚える。
希望だと? そんなものが一体、今の世界に存在するというのか。もしかつてのあの時、警官として生きていた頃に戻れるなら、たとえゾンビの群れの中でも、希望を抱いて俺は、死ぬことができただろうか。
いや、無理だろう。希望を持って死ぬなんて、どうしてもできなかった。それが、もう、すべてだ。
「ジョンさん、どうしたんですか?」
トムの声が震えていた。直前までの無邪気さ、若さが、今のジョンには遠い記憶のように感じられる。
しかし、若者の瞳にはまだ希望の色がある。彼には今も世界が広がって見えている。しかし、ジョンにはもう何も見えない。
「どうしたって…なあ、トム。お前はまだ希望なんて抱いているのか?」
ジョンは彼に答えず、再び暗闇に目を向けた。
「俺はもう、何もかもどうでもいい。死ぬのは怖くない。死ぬことは、ただ流れに任せるだけだ」
トムは答えなかった。やがて静寂が訪れる。ジョンの言葉が、彼の心にどう響いているのかを知る由もない。ただ、月明かりの下、彼の足元には、無数の死者の足音が鳴り響いていた。
ベンの酒瓶が床に転がり、アイリーンのライフルが肩越しに構えられた。その先に見えるのは、絶望しかなかった。しかし、誰もそれを認めようとはしなかった。みんな、ただ耐え、流れに任せ、死に向かって歩み続けるしかなかった。
「そんなこと言って、酒を飲んで、煙草を吸って、くだらない話をして、戦って、死ぬんだろう? それが人生なんだろう、なぁアイリーン?」
ベンがそう言った。その言葉には皮肉も、哀しみも、怒りも何もかも込められていなかった。ただ、無関心があるだけだった。生きることも、死ぬことも、もはや意味がない。ただ、流れていく時の中で、何かしらをして過ごすしかなかった。
ジョンは無言で頷いた。もう何も言う気にはなれなかった。ただ、夜が深まっていくのを感じるだけだった。絶望と混沌がそのまま、自分の中にも溶け込んでいくような気がして、何もかもが無意味に感じた。
「今日も明日も、どうせ何も変わらんさ」
ジョンはそう呟いて、再び空を見上げた。月の冷徹な光が、彼の顔を照らしていた。だがその月は、誰のためでもなく、ただ静かに輝き続けるだけであった。
ーーその夜もまた、名もなき兵士たちの抗戦によって、かろうじて世界は繋ぎ止められた。
だが、それはただ、次の無情の夜へと続く延命に過ぎないのだ。