Sample ∞ 双塔に在るーー視線の涯て
少女は、まだ立っている。
あの日から、時間は流れた。
けれど、屋上の風は、何も変えてくれなかった。
けれど春が来た。
制服は夏服に替わった。
けれど、誰も彼女にそのことを告げなかった。
屋上に立つたび、 あの向かいの塔を見つめた。
もう、あのときの少女はいなかった。
だが、いなかったことが。いや、彼女に『視られない』ことが唯一の関係だった。
階下ではまた食卓が始まる。
皿の音。笑い声。
テレビの音。
それらすべてが、彼女の背中を通り過ぎていく。
顔も知らない少女。
名も呼ばなかった少女。
あれ以来、誰の視線も、あれほどまっすぐに、自分を貫いたものはなかった。
いや一度だけ、あの記憶の視線を見た。
歌舞伎町のホテルの夜。
ここで、あのおじさんを思い出すのが、少し癪だけど。
学校には行かなくなって。
家にもあまり帰っていない。
警察は、家出扱いにすらしない。
今や『少女』は塔の屋上に存在する影として、都市の『俯瞰者』であり『記憶者』として定着された。
風が吹く。
制服の裾が揺れる。
誰かが下から叫んでいる。
犬が吠えている。
遠くの工事現場で、金属の音が鳴っている。
けれど、
どれも、彼女に属していない。
彼女はただ、あのとき『視られた』自分を、今も反芻し続けている。
そしてふと気づく。
あの日、自分が視た相手もまた、きっと、どこかに残り続けているのではないかと。
少女は目を閉じる。
塔の風が、頬を撫でる。
ひどく、優しい。
ひどく、無関心な優しさだった。
彼女は、まだ立っている。
都市の高みで、何も選ばず、何も拒まず、ただただ、連環の中心として、『在る』。
清水が流れる沢のように、ただ凛として。
彼女はあの時、聖性と化した。
それでいい。
この物語は、彼女の紡ぐ一人の為の物語なのだから。