Sample10 鎮魂
墓地の一角が掘り返されていた。
更地にされた部分が、ぽかり、ぽかりと風に晒されている。
周囲の墓石は何も言わない。
苔と雨に沈みながら、ただ立っている。
住職は、知らなかった。
誰の墓だったかも、記録が消えていた。
近くの檀家が言った。
「そういえば、あの墓、いつからあったんでしょうね」
誰も知らなかった。
経は要らない。
聖典も要らない。
そこには、もう死者がいなかった。
あるのは、ただの穴。
掘られた跡。埋められて更地になる。
穴があったことの記憶すら、誰も引き受けなかった。
その夜、猫が一匹、掘り返された穴に降りていった。
誰にも呼ばれず、誰にも撫でられず、
ただそこに、身をうずめるように眠った。
それだけだった。
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わたしたちは、名前を持たずに立っていた。
屋上の風のなか。
掘り返された墓のなか。
白紙の染みのなか。
競馬場で、病院で、過去で、未来で。
河原で、或いは部屋で。
誰にも語らなかった。
誰の手も、握らなかった。
けれど、誰かを『視て』いた。
視て、視られて、その瞬間だけ、わたしたちは在った。
ありがとう。
叫ばなかったのは、届かないと知っていたから。
望まなかったのは、与えられないと知っていたから。
それでも、『視て』くれた者がいた。
遠くの屋上。
同じ姿勢で。
貴女が、わたしを『視た』ということ。
それだけが、この世界にわたしがいた証。
わたしはもう、いない。
けれど、視線は残る。
沈黙のなかで交わした一瞬が、この空のどこかに、まだ、浮かんでいる。
だから、今この言葉を、貴女に託す。
忘れることも、悲しむこともなく、ただ、『視て』いて。
わたしがここに、確かに『在った』ということを。
それだけが、わたしたちの救い。