Sample9 壁紙の染み
誰かが、ここで死んだ。
音もなく、誰にも見られず、ただ染みとなって残された。
畳の下まで染み込んだ孤独は、業者の手で剥がされ、白く塗り替えられる。
名も、骨も、葬られ、忘れられる。
それでも、風に揺れた隅の斑点だけが、確かに言う。
ここに、誰かが居たと。
****
その部屋に、人が住んでいた形跡は、床の中央に残った黒ずんだ染みだけだった。
男は死んだ。
いつ死んだかは、誰も知らない。
隣室の住人が「最近ドアの前を蝿が飛んでいて」と管理会社に連絡したのが、五日後だった。
警察が来て、白い手袋でドアを開けた。
死臭が漏れ出した。
男は、溶けていた。
骨のかけらと、黄黒く染み込んだ布団。
畳は腐り、下のコンパネにまで滲みていた。
大家は腕を組んで、それを見下ろしていた
「あーあ、また全部張り替えか、この時期は多いんだよね。しかし、臭い。もう慣れたが」
そう言って、ため息をついたのは感情ではなく、出費に対してだった。
業者が来た。
清掃、防臭、脱臭、壁床張り替え、消毒、消臭、害虫駆除。
チェックリストを黙々と消していく。
作業員のひとりがツンとする刺激臭に小さく鼻を啜り、顔をしかめながら、鼻を手の甲で拭った。
それだけだった。
男の名は賃貸契約書に書かれていた。
高橋弘。
年金暮らし。保証人なし。
親族不明。
葬儀は、自治体の最低限の火葬プランに回された。
畳が剥がされ、染みが剥がされ、その痕跡はひとつ残らず処理された。
新しい入居希望者が現れたとき、内見のためにドアが開けられた。
白いフローリングの部屋。
壁紙も張り替えられていた。
「きれいですね、日当たりもいいし」
女が言った。
大家は頷いた。
「前の人も、前の前の人も、静かな人だったからね」
風が吹いた。
部屋の隅に、小さく黄ばんだ斑点が、まだ残っていた。
誰も気づかなかった。
それはもう、ただの染みだったからだ。