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Sample1 双塔に在る

 群青の空の下。


 白いパーカーの袖が、風に煽られていた。

 団地の屋上。

 少女は外から欄干にもたれている。


 正面の屋上にも、誰かがいた。

 遠くて顔は見えなかった。

 けれど、確かに視線があった。


 また、風が吹いた。


 少女は、昨日、トイレで吐いた。

 LINEは来なかった。

 味噌汁はぬるかった。

 でも、それがどうした。


 彼女はまだ、立っている。

 風が吹く。

 それだけだった。


****


 夕暮れに染まる団地群の上空を切り裂くように、旅客機が低く唸りをあげて飛んでいく。


 日常のざわめきに沈む街。その片隅――、無数の箱が積み重なったような灰色の団地。


 その一棟の屋上に、少女が立っていた。


 白いパーカーの袖口を、風が何度も揺らしている。

 首筋まで覆うようにフードをかぶり、身体を小さくして、彼女は欄干にもたれていた。


 足元には何もない。遺書もない。スマホもない。名もない。


 その目は、真正面――向かいの団地の、同じ高さにあるもう一つの屋上を見ていた。


 そこに、もうひとり。

 やはり少女。

 彼女もまた、フードをかぶり、無言のまま立っている。


 遠すぎて表情は見えない。だが、その沈黙だけは、奇妙なほどにはっきりと伝わってくる。


 ふたりは同時に、互いを見つけていた。

 まるで鏡に映ったようだった。


 だが、それは決して写しではない。

 相容れない、そして相対する二人の少女。

 それぞれの沈黙。それぞれの絶望。


 重なりはしない。けれど、そこには確かな気づきがあった。


 立っている少女のフードの中、汗が首筋を伝う。

 足が震える。寒さじゃない。怖さでもない。

 わからなかった。何が自分をここに立たせているのか。


 もう三年、母の声をまっすぐに聞いていない。

 何を言っても、言い返されるから。

 正論で、常識で、将来の話で、息ができなくなるまで追い詰められるから。


 思い出す。

 昨日、便器に向って吐いた。


 学校のトイレ。四階の理科室の向かい。

 生理がきていた。保健室は鍵がかかってた。


 個室に駆け込んで、口を押えた。

 脂汗で前髪がくっつくのが気持ち悪かった。


 吐いたあと、便器の縁を拭いて、マスクで顔を拭いた。

 鏡は見なかった。見たら何かが終わりそうだった。


 昼休みは誰とも喋ってない。

 LINEはひとつも通知がなかった。

 帰り道、母親から「牛乳買ってきて」とだけLINEが来てた。


 家に帰っても、声はなかった。

 味噌汁がぬるかった。

 それは、言葉よりもはっきりと、この家の温度を示していた。だけど黙って飲んだ。


 それでも今日、わたしは学校へ行った。

 行って、誰とも喋らず、またここへ来た。


 なぜだろう。

 わからない。

 でも、たしかにここにいる。


 言葉は無力だった。

 助けて、も、

 やめて、も、

 わかって、も。


 だから今日も、誰にも何も言っていない。


 風が、頬を殴る。

 ビル風。

 ゴミ袋がどこかで引き裂かれて、誰かの生活の匂いが風に混じる。


 もうひとりの子がこっちを見ている。

 向かいの団地の屋上で、ぴたりと動かずに。


 目があった気がした。

 彼女と私の視線が交差する。

 それがなんだというのか。


 誰だって見る。見るだけだ。

 見ることがどうした。

 こっちはもう限界で、下の世界に帰る気もないのに。


 でも、飛び降りる気も、なかった。

 それがいちばん、気持ち悪かった。


 少女は目を逸らさない。

 相手もまた、そうだった。


 言葉も手振りもない。ただ、『視る』という唯一の接点だけが、この街の天井に生まれた。


 そしてその視線の合間に、街の音がふたたび溢れてくる。


 階下のベランダから、母親が子どもを叱る声。

 夕食を運ぶ皿の音。

 風に揺れる洗濯物と、隣室のテレビの笑い声。


 どれも、彼女たちの属さぬ世界。

 眩しすぎる世界。


 だが、ふたりはそれを背負って立っている。


 飛び降りるためではない。

 叫ぶためでもない。


 ただ――在るために。


 やがて、時が一拍ずれた。


 ゴパキャッ。


 それは、ひどく短く、ひどく乾いた音だった。 

 何かが、落ちた。


 皿の音でもなく、笑い声でもなく、風に鳴る洗濯竿でもない。


 世界のどこにも属さない音――


 ひとつの“生”が、この都市から滑り落ちた音だった。


 階下では、まだ笑い声が上がった。

 食卓の上にはカレーの匂い。

 テレビではコメディアンが跳ね回り、父親は缶ビールを開け、子どもがこぼす。


 そのすべてのなかに、彼女の存在はなかった。


 世界は変わらない。


 誰も知らない。

 音だけが、知っている。


 屋上の少女は、ほんの僅かに視線を落とした。ほんの一瞬、まぶたを伏せた。


 だがそれきり、彼女の目は、再び空を見た。


 この世界は、なお、生きている。

 誰もが無関係に呼吸している。

 それこそが、生の絶望だった。


 彼女はまだ、屋上に立っていた。


 風の中、ひとり。

 何も語らず、何も選ばず、ただ、在る。


 願わくば少女の来世に救済を。

 輪廻の果ての終末を。

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