Sample1 双塔に在る
群青の空の下。
白いパーカーの袖が、風に煽られていた。
団地の屋上。
少女は外から欄干にもたれている。
正面の屋上にも、誰かがいた。
遠くて顔は見えなかった。
けれど、確かに視線があった。
また、風が吹いた。
少女は、昨日、トイレで吐いた。
LINEは来なかった。
味噌汁はぬるかった。
でも、それがどうした。
彼女はまだ、立っている。
風が吹く。
それだけだった。
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夕暮れに染まる団地群の上空を切り裂くように、旅客機が低く唸りをあげて飛んでいく。
日常のざわめきに沈む街。その片隅――、無数の箱が積み重なったような灰色の団地。
その一棟の屋上に、少女が立っていた。
白いパーカーの袖口を、風が何度も揺らしている。
首筋まで覆うようにフードをかぶり、身体を小さくして、彼女は欄干にもたれていた。
足元には何もない。遺書もない。スマホもない。名もない。
その目は、真正面――向かいの団地の、同じ高さにあるもう一つの屋上を見ていた。
そこに、もうひとり。
やはり少女。
彼女もまた、フードをかぶり、無言のまま立っている。
遠すぎて表情は見えない。だが、その沈黙だけは、奇妙なほどにはっきりと伝わってくる。
ふたりは同時に、互いを見つけていた。
まるで鏡に映ったようだった。
だが、それは決して写しではない。
相容れない、そして相対する二人の少女。
それぞれの沈黙。それぞれの絶望。
重なりはしない。けれど、そこには確かな気づきがあった。
立っている少女のフードの中、汗が首筋を伝う。
足が震える。寒さじゃない。怖さでもない。
わからなかった。何が自分をここに立たせているのか。
もう三年、母の声をまっすぐに聞いていない。
何を言っても、言い返されるから。
正論で、常識で、将来の話で、息ができなくなるまで追い詰められるから。
思い出す。
昨日、便器に向って吐いた。
学校のトイレ。四階の理科室の向かい。
生理がきていた。保健室は鍵がかかってた。
個室に駆け込んで、口を押えた。
脂汗で前髪がくっつくのが気持ち悪かった。
吐いたあと、便器の縁を拭いて、マスクで顔を拭いた。
鏡は見なかった。見たら何かが終わりそうだった。
昼休みは誰とも喋ってない。
LINEはひとつも通知がなかった。
帰り道、母親から「牛乳買ってきて」とだけLINEが来てた。
家に帰っても、声はなかった。
味噌汁がぬるかった。
それは、言葉よりもはっきりと、この家の温度を示していた。だけど黙って飲んだ。
それでも今日、わたしは学校へ行った。
行って、誰とも喋らず、またここへ来た。
なぜだろう。
わからない。
でも、たしかにここにいる。
言葉は無力だった。
助けて、も、
やめて、も、
わかって、も。
だから今日も、誰にも何も言っていない。
風が、頬を殴る。
ビル風。
ゴミ袋がどこかで引き裂かれて、誰かの生活の匂いが風に混じる。
もうひとりの子がこっちを見ている。
向かいの団地の屋上で、ぴたりと動かずに。
目があった気がした。
彼女と私の視線が交差する。
それがなんだというのか。
誰だって見る。見るだけだ。
見ることがどうした。
こっちはもう限界で、下の世界に帰る気もないのに。
でも、飛び降りる気も、なかった。
それがいちばん、気持ち悪かった。
少女は目を逸らさない。
相手もまた、そうだった。
言葉も手振りもない。ただ、『視る』という唯一の接点だけが、この街の天井に生まれた。
そしてその視線の合間に、街の音がふたたび溢れてくる。
階下のベランダから、母親が子どもを叱る声。
夕食を運ぶ皿の音。
風に揺れる洗濯物と、隣室のテレビの笑い声。
どれも、彼女たちの属さぬ世界。
眩しすぎる世界。
だが、ふたりはそれを背負って立っている。
飛び降りるためではない。
叫ぶためでもない。
ただ――在るために。
やがて、時が一拍ずれた。
ゴパキャッ。
それは、ひどく短く、ひどく乾いた音だった。
何かが、落ちた。
皿の音でもなく、笑い声でもなく、風に鳴る洗濯竿でもない。
世界のどこにも属さない音――
ひとつの“生”が、この都市から滑り落ちた音だった。
階下では、まだ笑い声が上がった。
食卓の上にはカレーの匂い。
テレビではコメディアンが跳ね回り、父親は缶ビールを開け、子どもがこぼす。
そのすべてのなかに、彼女の存在はなかった。
世界は変わらない。
誰も知らない。
音だけが、知っている。
屋上の少女は、ほんの僅かに視線を落とした。ほんの一瞬、まぶたを伏せた。
だがそれきり、彼女の目は、再び空を見た。
この世界は、なお、生きている。
誰もが無関係に呼吸している。
それこそが、生の絶望だった。
彼女はまだ、屋上に立っていた。
風の中、ひとり。
何も語らず、何も選ばず、ただ、在る。
願わくば少女の来世に救済を。
輪廻の果ての終末を。