ST-r:07「SKATE:ME」
東北海道のクレイマー対応から幾日か経ったある日――札幌の空は相変わらずガラスのように透き通り、ステラトレイスの巨大サイネージは人々の購買欲を絶え間なく刺激している。市民憲章の自動アナウンスが流れるたび、私はいまだに胸の奥を微かに掻きむしられる。だが日常は、平然と進行するのが常だ。
昼休み直前、マーケティング部三課のオフィスに甲高い通知音が鳴り響いた。壁のAVRスクリーンが自動で点灯し、ステラトレイスAIの冷ややかなボイスが告げる。
「大通公園エリアにてSQAカード同調率の乱高下を検知――判定、逸脱型集団行動。優先度B。客相三課の即応を推奨」
私はホログラムを閉じ、隣席の南郷を見た。彼はコーヒーカップを置き、まぶたを面倒そうに一度だけ閉じた。
「……またB判定かよ。昼メシ抜き確定だな」
宮ノ沢が椅子を回転させ、軽い口笛を鳴らす。
「息抜き散歩ついでに大通グルメフェスでも寄れるかと思ったら、どうやら違う〝フェス〟らしいねえ」
課長――大谷地は短く頷くと、いつもの感情の起伏を感じさせない声で指示した。
「全員出る。新川、状況ログを確認しながら随行。南郷、現場制圧は任せる。宮ノ沢、ドローンを手配。円山は後方支援。走れ」
地下道を抜け、大通の地上へ出ると、聴き慣れない駆動音が響いていた。視界のあちこちを、安っぽい蛍光色をあしらった服装の若者が横切る。皆、その足元に低い重心の二輪ホバーボード――通称e‐スケートを装着し、地面すれすれを滑走していた。
公園の噴水前には即席のランプやレールが持ち込まれ、カメラドローンが群れを成して追従している。その周辺で、ベンチに座った老夫婦や観光客が不快そうに露店メニューのホログラムを閉じている。レンズ越しのAIカウントでは、飲料の衝動購買指数が通常の六割まで低下中――なるほど、確かに「消費行動の妨害」だ。
南郷が舌打ち混じりに小声で呟く。
「こいつら……金も落とさずに遊びやがって。まるでフリーライダー式の集団クレイマー予備軍だ」
私は周辺に漂う空気の波形を解析し、南郷の言う“予備軍”で留まっていることを確認する。まだ暴走フェーズAには至っていない。
「課長、現状は軽度の逸脱型。AIに要請して公園エリアのSQAブースト広告を強めれば散る可能性高いですが……」
大谷地は即答した。
「待て。強制宣伝より先に先例を作る。南郷、お前の知り合いが混じっているようだな」
「はあ?」
同時に、轟き立つブースト音を切り裂くように一人の若者がランプを飛び出した。紫の髪にスプレーを吹き付け、フェイスガードにはレトロなドクロのステッカー。滑空しながら中指を立て、南郷の足元へEDFボトルを投げつける。
「よう、おっさん! まだ”現金”とか言ってる化石が何しに来た?」
南郷の表情が嫌そうに歪む。
「……お前、あの時のガキか」
「覚えてたか? ガキの頃、軽度逸脱型消費者とか言って”保護”してくれたよな? あの日以来、リスペクトしてんだ。今日は”お返し”に来たぜ」
紫髪の男は集団のリーダーだろうか。笑いながらボードを路面に当て、火花で孤を描いて停止した。
「大通は退屈だ。夜になったらチカホで祭りがある。”走れるのは札幌駅から中島公園まで、途中妨害何でもアリ”――勝負しようや、南郷悟。それともまた説教か?」
南郷は肩を回した。
「チカホ三キロ、動力付きってのが気に食わねえが――買い物の邪魔になる前にカタつけてやる」
紫髪が指を鳴らすと、腕時計型ビーコンが地面に光の軌跡を刻み、勝負は三日後、夜二十六時とAIネットワークへ公告された。あえて時間を置く理由は単純――それまでに賭けポイントをアンダーグラウンドのネットワークから集め、広告クリックを最大化するためだ。
*
三課が地下休憩室へ引き上げると、宮ノ沢が早速冗談混じりのブリーフィングを始める。
「南郷ちゃん、『余裕』って言っちゃったね? 転んだら札幌の購買意欲が半減しちゃうイメージ戦略だよ?」
「るせえ。それは大袈裟だろ……スノボは昔散々やった。横乗りのバランスは身体に染みついてる」
「とはいえ路面抵抗は違うみたい。ボードの足回りもハブモーター内蔵型。いわゆるスタビリティ・アルゴリズム付だって」
私はモニターに旧式スノーボードとeスケートのダイナミクス比較を映す。
「理論上はいけるけど“横荷重の一点スライド”が癖になる……みたい」
「要するに慣れが必要、って話だろ?」
南郷は黙ってスマホを取り出すとどこかに電話。漏れ出る声からは中丸ライター店、と聴こえた気がした。あの日本刀の店か……一体どんな店なのか。機会があったら聞いてみようと思う。
当日の夜には、カスタム品のeスケートがオフィスに到着した。
それからの三日、昼休みや夜勤明けの時間帯、南郷は一人で旧ジャンク街の広場に立ち、ほこりを巻き上げながら黙々とターン練習を繰り返した。重心がブレるたびに遠くでAI広告が点滅し、路上のセンサーが騒音ペナルティを警告する。それでも彼は一言の愚痴すら漏らさず、ただ滑りの精度を磨き続けた。
*
決戦当日、私たちは札幌駅直下の管理外通路――かつて物流用に使われていた廃トンネルからチカホへ潜入した。
照明のない石壁、僅かな冷気。南郷は黒いボードを片手に無言で歩く。ユノの端末が暗視モードになり、アイコンが跳ねるように表示される。
「実況ライン、接続オッケー。全国三万六千件が視聴待機中。こんな数、明らかにアングラから漏れてるじゃん……――お金になれば何でもいいのかな。あ、アンチのコメントだ!」
「勝てば黙るさ。俺より負けず嫌いなのは消費者の連中だからな」
中継ドローンが先行し、鉄扉の向こう側――本番コースの札幌駅コンコースを映す。そこは昼とは別世界だった。eスケートの駆動音が幾重にもこだまし、ネオンサインが地下街全体を紫と青のグラデーションに染め上げている。建設中の柱を囲う制限パネルは外され、臨時のバンクとジャンプ台へ作り替えられていた。まるで近未来スタジアム。
紫髪のリーダーがマイク片手にステージへ飛び乗る。
「諸君、退屈からの脱走へようこそ! 今日は古い価値観をブチ抜くショウだ。ルールは簡単。札幌駅発、中島公園出口ゴール。動力は何でもアリ。妨害も自由! ただし観客を巻き込む奴はクズと呼ぶぜ!」
一斉にブースト音が轟く。私の横で南郷が軽く首を鳴らした。
「新川、宮ノ沢、ユノ。お前らは黙ってそこで見てろ」
「はいはい、ヒーロー気取りはいいけど、配信のカメラに笑顔の一つも頼むね」
宮ノ沢が茶化す。
私は深呼吸してアイコンタクトを送った。「無理しないで」と。彼は面倒そうに片手を上げて応える――それが「了解」の合図だ。
カウントダウンが終わると同時に、私は観測モードへ切り替えた。空間解析がルートをオーバーレイし、敵味方の速度をグラフで表示する。スタート直後、南郷はわざと二テンポ遅れてボードを蹴り、群れの後方に付いた。トップスピードに達するまでの助走区間で、身体を沈めて空気抵抗を最小化。一気に十メートルを詰める。
「南郷選手、順調な滑り出しだー!!」
ユノが何故か急に実況モードで叫ぶ、もしかしてこういうのが好きなんだろうか。
一本道の先頭争いでは、紫髪のリーダーの仲間がわざと左右に蛇行し、メタリックテープを路面へ撒く。テープは電磁コイルで浮き、粘つくように絡みつく罠。
しかし南郷はテープの瞬間的な輝きを捉え、足をわずかに捻ってテールを浮かせた。ボードが宙で九十度回り、そのまま粘膜の上を擦過。無駄な摩擦を生まず着地。
「オールドドッグ、まだ足腰生きとるやんけ!」
紫髪が笑いながら加速する。
大通公園を過ぎ、電力管路が露出するカーブで最初の接触。敵の一人がハンドフック付きの補助ワイヤーを伸ばし、南郷の前輪ハブに絡め取る。瞬間、南郷は体を反らせ、ハブを外す方向にトリックをかけた。私の目にはほんの一拍のスローダウンに見えたが、物理的には異常な減速Gがかかっているはずだ。それでも南郷は姿勢を崩さない。逆に敵ボーダーの方が遠心力に負け、壁へ叩きつけられた。
「予定通り一人目脱落!南郷選手は止まらないのかー!?」ユノの声が弾む。
『おいあいつやべえぞ……』『なんだあの動き……』『人間じゃねえぞ!!』
ガヤの声が混じる中、視点を切り替え私は南郷のバイタルをチェックした。呼吸は安定、瞳孔も正常。 adrenaline上昇は認められるが、許容範囲。……やっぱり、この人は肉体スペックがおかしい。
地下歩行空間の中央部――カフェブロックを抜ける区間で、急にライトが落ちた。敵側が照明ハックを仕掛けたようだ。次のフレーム、床面を浅く照らす非常灯の奥で白く瞬くものがある。粉末状のディスラプションガス。吸えば平衡感覚が狂うタイプ。
南郷はボードを止めず、鼻と口をわずかに袖で覆い、床面をポンと押して前へ跳ねた。ジャンプ中、一瞬だけ薄闇の中で南郷のシルエットが浮かび上がる。“スノーボードの頃”に見せたというフロントサイドスピン。回転と同時に足元のパワーセルをブーストし、ガス帯ごと敵二人を追い越した。
残るはリーダーだけ。時計はスタートから二分二十秒。ゴールまで四百メートル。
「ここからデッドヒート!!勝負の行方は果たしてどうなるのか!?」
ユノの実況は異様に的確で、緊張を煽る。私も、そしてきっと観客も思わず拳を握る。
『二人ともなんてテクニックだ!!』『こんなの見れるなんて思わねーじゃん!!』
湧き上がりは最高潮。ざわめきが広がる。
リーダーはボードのターボを全開にし、サイドブラストで広告パネルを片っ端から割り、破片を後方へ雨のようにばら撒いた。
「南郷悟、見せもんは終いだ。さっさと地面舐めて退場しろ!」
「自分で撒いたゴミは自分で拾え」南郷はそれだけ言うと、斜めに跳ね飛ぶガラスをフレームに可動する盾で受け流し、ついでに床へ反射させリーダーのラインへ返した。パキンと破片が当たり、リーダーの前輪カバーに小さなヒビ。焦ったリーダーがバランスを崩す。
「リーダー、後輪ユニットが過熱警告!」
仲間の通信が聞こえる。
「黙っとけ!」
ゴール前スロープが迫る。ここはコースで唯一、地上へ繋がる傾斜――勾配は十二度。本来はエスカレーターの筈だが、板がかけられその先端には反り上がったスロープが仕掛けられている。リーダーが先に傾斜を駆け上がる。南郷との距離はほぼゼロ。
スロープ頂点手前、リーダーがウィリーでノーズを浮かせ、バックサイドに回り込もうとした瞬間、南郷は足をボードから離し、全力のプッシュを三回。ハブモーターの補助を遥かに超える推進力。速度差が一気に開く。視界から南郷が消え、焦った紫髪のリーダーはスロープ脇の段差へタイヤを取られた。眩い火花。悲鳴。
南郷は頂点で軽くオーリーを入れ、夜風を抱くように浮き上がった。真上に広がるのは中島公園の薄い夜空。街灯のオレンジが彼のアウトラインを照らし、そこへ――白い結晶が舞い始めた。
雪。
もちろんリアルでは降らない。二〇九〇年代から、札幌の冬は人工制御の曇天しかもたらさなくなった。それでも視覚センサーが検出している。AVRシステムが南郷のジャンプをトリガに“演出”を挿入したのだろう。
スローモーション。
回転軸をずらしたトリック中、南郷は片手でボードをつかみ、空中で膝を抱える。往年のメソッドグラブ。その動きに合わせ、“雪”が彼の背後でスパークのように砕け、光の微粒子を放ちながら消える。私は息を呑み、胸がきゅっと締め付けられるのを感じた。何故か、懐かしいものを見た気がしたからだ。
着地。ボードがアスファルトに吸い付く。スピードは衰えず、そのままゴールラインを通過。
「これが南郷悟の、最後のひと蹴り――ッ!街も空も越えてく、“オーバークロック・メソッド・エターナル”!!!」
テンションが高過ぎるユノの実況が響く。
リーダーは数秒遅れで地面に倒れ込み、ユニットから煙を上げた。
私は無意識に握っていた拳を解く。ドローンカメラがゴール地点を多角的に映し、ホログラムの広告パネルに勝敗が一斉表示された。
――勝者、南郷悟。
観客に紛れ込んでいたスケボーキッズたちが、憧れを隠せない声で騒ぐ。
『ヤベー……空飛んだぞ!』『あいつマジですげえ!!』
紫髪のリーダーは唇を噛み、しかし負けを認めるように手を差し出す。南郷は眉根を寄せ、無言でその手を引き上げた。
「約束通り、ここで遊ぶ時は買い物していけ。ジュース一本でもいい」
「チッ……お前、昔と変わらねえな」
「大人は簡単に変わらない。変われるのはガキの特権だ」
紫髪が苦笑し、観衆の歓声に紛れる。
背後で宮ノ沢がマイクを握って叫ぶ。
「はーい! これにて地下道ナイトクロス、幕引きで〜す! スポンサー各位、広告料はしかるべき団体――つまりウチの課の経費にて有効活用しまーす!」
「やめろ不正経理」
課長がどこで聴いていたのか、通信で低く釘を刺す。
私は南郷へスピーカー越しに声を掛けた、汗と埃にまみれた彼の表情を伺う。
「やるじゃん!」
「これくらい、昔の雪山じゃ毎晩だった」
南郷は空を見上げ、まだAVRの雪が名残の光点として降るのを目で追う。
「昔は――札幌でも、本物の雪が降ったんだよ」
淡々とした声に、ほんのわずかな温度が混じる。その温度は、私の胸の奥でひどく立体的な痛みとして再生された。
ユノがカメラを止め、クールな表情で呟く。
「うん、今夜のラストカットはそれで決まりだね」
私は息を吐き、小さく笑った。どれだけAIが商業を統制しようと、雪を恋しがる人間の感情まではデータ化できないらしい。
夜風がこの時代の温度で頬を撫でる。
――消費社会の喧騒のはざまで、ほんの刹那だけ訪れた静寂。その中心で白く舞うのは、人工の雪でも確かな記憶でもなく、私たちがまだ手放していない何かの象徴だった。
ちなみに、これは後日談だけど以後スケボー集団は、ほどほどにルールを守り、ほどほどにちゃんと買い物をし、そして何故かスケボーパーツの売れ行きは上がり、AIの消費者判定とも市民とも仲良くやっているらしい。
「悪い人じゃ無さそうだったもんね」
「まあな、そもそも別にスケボーで遊んでるだけで、何が悪いんだって話だ」
こちらも見ずに呟く南郷。あれから何回か、空いた時間にこっそりeスケートに乗っている事は知らない事にしておく。