第1話 奇抜な女医
「先生、どこにいる⁉」
医務室に駆け込むなり、アリアは切迫した声で医者を呼ぶ。
ベッドと衝立が並ぶ広い部屋ではカーテンが揺れるばかりで、人の姿はない。
こんなときに医者は不在なのか。アリアが地団駄を踏むと、衝立の向こうからあくびの声が聞こえる。
視線を送るとすぐに、ミルキーブロンドの髪を一つにまとめた女性が現れた。
「せっかく気持ちよく寝てたのに、なんだい。怪我人でも出たのかい?」
寝ぼけまなこの女性は、肩が開いたシャツに、深いスリットが入ったスカートという、大胆で奇抜な格好をしている。
とてもじゃないが医者には見えない。
だが、返事をしたということは、彼女が今日の当番医で間違いないのだろう。
「先生、炭が欲しいんだ! 病人用に残してあるでしょう⁉」
アリアが駆け寄って尋ねる。
女医は驚きの声をあげて飛び上がり、面倒そうに顔を歪ませた。
「げ、ベルカント! アンタ炭なんて、どうする気……ッ!」
嫌悪感を漂わせていた女医だったが、衛兵におぶわれたアルヴィスを見て、すぐに表情を変えた。
「この子、呼吸がおかしいね。毒にやられたのかい?」
静かに放たれた問いに、アリアが無言のまま頷く。
「そうか。それなら粉のほうがいいだろ。その色男をとっとと転がして、コイツを無理にでも飲ませてやりな」
女医は棚から瓶を取り出し、黒い粉末を手際よく水で溶いて、アリアに渡した。
「アルヴィス、飲め!」
ベッドに横になったアルヴィスの上体を力ずくで起こし、コップを口元にあてる。
意識が朦朧としているせいか、口が開かない。
「難しいなら、口移しで飲むか?」
真剣に問いかけるアリアに、誰もがぎょっと目を丸くした。
婚約者もいる王子が側近と、しかも男と唇を重ねるなんて、前代未聞の事態だ。
「ベルカント様、さすがにそれは……」
「レミィ、いったい何がいけないんだ。俺が王族だから? それともアルヴィスが男だから? そんなのは、毒や命の前ではなんの意味も持たないよ」
底知れぬ深い青の瞳に、レミィだけではなく女医も衛兵も気圧されて、無言になる。
アリアが炭の水を口に含もうとした瞬間、震える声が微かに聞こえた。
「自分で、飲めます……から……」
「アルヴィス! 大丈夫か? 早くこれを」
アルヴィスはコップを受け取る。黒い炭の水をぼんやりと見つめて、少しずつ口にした。
あまり美味しい飲み物ではなかったのだろう。
苦い顔をし、ムセながらではあったが飲み干すことができた。
「よし、偉いぞ。いまを越えたら楽になる。あとちょっとの我慢だからな」
アルヴィスを横にしたアリアは、安堵の息を吐き出して柔らかく笑う。
冷や汗のせいでひたいに貼りついてしまったアルヴィスの黒髪を、そっと撫でた。
「寝てていいよ、そばにいるから」
熱が高いのだろう。アルヴィスは虚ろな目でアリアを見つめて何かを言おうとしていたが、気絶するように眠ってしまった。
早期の対処の成果か、少しづつだが呼吸も安定してきている。心なしか表情も柔らかく見える。もう大丈夫だ。
アリアは胸を撫で下ろした。
「俺の側近を運んでくれてありがとう。持ち場に戻っていいよ」
アリアは衛兵をねぎらい、医務室から出す。扉が閉まる音が響き、すぐに厳しい顔をした女医が隣にやってきた。
「ベルカント。聞きたいことがある」
「俺に? なんだい。毒の理由が聞きたいのなら、あれはおそらく事故だ。大事にしないでくれないか?」
人の噂というものは、おそろしい。小さな事実を曲解して伝えられて、盛大な尾ひれがついていく。気づいた頃には訂正不可能なんてこともザラにある。
ここは王城だから、なおのこと。
城下に下りることもあるアリアは、民の噂の速さと、噂が脚色されていくおそろしさを、肌で感じていたのだ。
「事故……まぁ、そうさね。あの病状から考えると、アタシもそうだと思う。大丈夫、他言はしないよ」
「ありがとう、助かる」
話のわかる人でよかったとアリアが身体の力を抜いたのもつかの間、女医はすぐに視線を鋭く変化させた。
「だけど、アタシが知りたかったのは毒の使用者じゃない」
「え……」
「アンタ、なんで毒の対処法を知っていた?」
問い詰める声に、アリアは一歩後ずさる。もし、ここで返答を間違えれば、彼女の疑いは深くなるだろう。
アリアは必死になってもっともらしい理由を探し、にこやかに答えた。
「貴族学園の授業で教わったんだ。最近市民の間でも毒が流行っているようだからね。アポセカリーという薬屋だって繁盛しているらしいし」
アリアの返答に、女医は鼻で笑う。
「授業で習った? ありえないね。この国は、医療がちぃとも進んじゃいない。それ瀉血だ、やれヒルを使って吸血療法だ、と古いやり方から抜け出せないままだ」
女医は、顔を近づけてアリアを睨むように見つめて再び口を開いた。
「なのに、アンタのしたことはなんだ? 牛乳で毒の吸収率を下げ、炭で毒の排出を促した」
どくんと大きく鼓動が跳ねて、冷たい汗が頬を伝う。女医はアリアの嘘を見破り、不信感を抱いている。おそらく、いまここで何を返しても、言い訳や嘘にしか聞こえないだろう。
「ベルカント王子殿下、アルヴィス様は私が看ていますので」
アルヴィスに聞かれることを警戒したのだろう。レミィが場所替えを提案した。
♢
女医とともにアリアは隣室に移動する。あまりの居心地の悪さにそわそわと落ち着かない。
どこまで気取られてしまったのだろうか。代役をしているのを見破られていなければいいけれどと、アリアは下唇を噛みしめる。
一方の女医はアリアに一歩近づき、至近距離で顔を見つめて、アリアの頬を揉むように触った。
「ふぅん。アンタが噂のアリアかい? 双子ってのはこうも似るもんなんだねぇ」
「貴女、どうして私の名前を……!?」
アリアはハッと息をのんで、呟く。
「まさか、貴女がローラン・ハリー先生?」
兄のノートに、困った時は女医である彼女を頼るように書いてあった。裏切るリスクが低く、信頼できる人物だから、と。
だが、どう考えても兄が書いた『ローラン・ハリー』のプロフィールには間違いがあるとしか思えない。
艶と張りのあるミルキーブロンドの髪に、色白でつるりと滑らかな肌。
果実のようなみずみずしい唇に、凹凸のある華やかなプロポーション。
彼女はどこからどう見ても……
「六十歳には、見えない……」
「あたしゃまだ五十九だよッ!」
「ごっ五十九⁉」
ローランが叱責するように訂正し、アリアは嘘でしょうと驚きの声をあげた。
「あの男に年齢を知られたのが運の尽きだよ。あたしは若さを保ちたかっただけなのにさ」
「若さを、保つ?」
「そ。アタシは若返りの秘薬を探して旅してんだ。ったく、ムジカミュゲのオイルがムジカで半年探しても出会えないって、なんなんだよ……」
ローランはぶつぶつ文句を言い続け、アリアに人差し指を突きつけて、再び口を開いた。
「アンタの兄さんは、天使の顔した悪魔だね! 『協力しなければ年齢を公表する』と、人の弱みに漬け込んでタダ働きさせようとするなんてさぁ。どうなってんだい、まったく……」
「兄様がそんなことを……?」
アリアは、兄の笑顔を思い出す。優しく真面目で穏やかなあの兄が、誰かを脅すなんてあまり想像できなかった。
「まぁ、不本意とはいえ契約は契約だ。協力はしてやるよ。年齢をバラされたら、男を引っ掛けて奢らせるのも難しくなるからね。安心しとくれ」
ローランはうんざりしたような顔でイスに腰掛けて長い脚を組む。スリットからロングブーツと色白の太ももが覗いた。
「希少性の高いオイルか。うーん」
アリアは眉間にしわを寄せて腕を組む。
「どうしたんだい?」
「ムジカミュゲのオイル。もしかしたら、情報くらいは得られるかも」
「はぁ? どうやって。半年以上探し回っても、この城に就職して探っても、何も掴めないんだよ⁉」
座ったばかりだというのに、ローランはすぐさま立ち上がる。
冷やかしならごめんだとばかりに、眉を寄せて深く息を吐き出した。
「あてなら、あるの。さっき、レミィ……赤髪の侍女がいたでしょ? すごくて頼りになるだけじゃなくて、やり手な商家の令嬢なんだ。流通するものなら、レミィに探せない物はない」
「それ、本当かい⁉」
ローランは顔を上げ、紫の瞳が宝石のように光を集めて輝いた。
彼女にとって、ムジカミュゲのオイルは喉から手が出るほどに欲しい代物なのだと、アリアもすぐにうかがい知ることができた。
「ねぇローラン、私と契約を結び直そう。ムジカミュゲのオイルを絶対に探してみせる。だから、兄様が帰ってくるまで、私に協力してくれない?」