輝きとリズム
・15時25分
海と行っても何処か特別目的地があったわけではなく、綺麗な場所で、という曖昧なものだったんだ、でもそこが見えた途端、ふたりで「あそこ!」って指を指した。
miniが走るくねくねと曲がる海沿いの国道、そこから右手に枝分かれして細く伸びた道は、小さな半島の西側を走り、半島の一番先にある小さな灯台に繋がっていた。
傾いた日が海面をキラキラと輝かせ、ほんの少しナーバスになっていたふたりの気分をぐっと盛り上げてくれた。灯台の傍にminiを停めると僕はヴァイオリンのケースを包んでいた毛布をminiのボンネットに広げて軽く腰を掛けた、その間に彼女はヴァイオリンの調整をはじめた。
さっきまで着ていたジャケットはヴァイオリンを弾くには邪魔らしく今は洗濯でしわがついたような白色のシャツだけになっていた、それがタイトなジーンズとブーツにまた良く似合っていたんだけど、海からの風に襟元がゆれる度に彼女の華奢な首筋と相まって寒さを感じさせた。
僕の方はさっそくシャボン玉を作ってみる、正直子供の時にストローの先をはさみで切った物でしかシャボン玉なんてした事がなかったので、この専用のおもちゃを吹いて出来るシャボン玉の数と容易さに驚いた、そして楽しくなってきた。
夢中でシャボン玉を飛ばしている間に、辺りはキラキラと輝くシャボン玉で息を吸うのもはばかるほどに埋め尽くされていた。
ゆらゆらと漂うシャボン玉の向こうからチハルのシャコンヌのしらべがそっと、シャボン玉の表面を振動させた、するとシャボン玉はまるで生き物のように自ら意思が芽生えたかのように宙を踊りだした。
人の目なんて見る側の感性によってえらく湾曲するものだ、そんな事はわかっている、だけどその時の僕には本当にシャボン玉がチハルの奏でるシャコンヌに生を受けたように見えたんだ。そして僕自身その音色とキラキラと舞い踊るシャボン玉に心酔わされた。
ヴァイオリンの儚い音色がしずかに止んだ時、最後のシャボン玉も魔法が解けたようにピンッと弾けて消えた。
僕はゆっくりと大きな拍手をした、唇をキュッと結んではにかむチハルにその時心奪われたのは言うまでもない、それほど彼女のヴァイオリンは素晴らしかった、よくわからなかった音楽やミュージカルに周りに合わせて立ったポーズだけの拍手、そんなうそ臭い衝動ではなく、人は何か素晴らしいことが起こると自然に手の平と手の平を叩き合わせてしてしまう生き物なんだと本気でその時思った。
くるりくるりと小さな少女のように舞うチハル、彼女が回る度にシャボン玉が次から次へと宙に舞う、そのシャボン玉は夕日に照らされて金色に輝く、僕も音楽を奏でられたらとその時自然に思う、無邪気にシャボン玉を飛ばすチハルの瞳はシャボン玉と同じように輝く、だけどその輝きはどこか哀しくも儚い、そして回るのをやめた彼女は大きな溜息をつくように海に向かってシャボン玉を吹いた。
そして僕の方に振り返ると独り言のようにお母さん達のことをしゃべりはじめた。
「母は結構幸せな人だったと思うのよ、あの人の周りにはいつも優しさが溢れていたし、ほんとにオーバーな言い方とかじゃなくて、最後の時アタシ滅茶苦茶泣いたの、そしたら母さんアタシの為に一瞬生き返って大丈夫よって笑ったんだから、すごいでしょ? 今でも楽しかった事を思い出して笑ったり泣いたり、死んでるのに母の優しさを傍に感じるわ、そういうのって結構珍しいんじゃない?」そう言いながらチハルの真っ白なやや青みがかかった白目にすごく透明な涙が溢れ綺麗に輝いた。
「でもね、アタシを生んでくれた人の事を考えても、いや考えようとしてもさっぱり何にも浮かんでこないのよ、このシャボン玉だってそう、何にも思い出せないわ、ただ綺麗なだけ。」輝く瞳でシャボン玉のおもちゃを見つめる。
「あまりにも母の濃厚な死とは違う、カスカスな死だったんじゃないかって。きっとその人が逝く時はアタシ、何もわからずケロっとしてたのよ、そう今みたいに。それできっとその人の方が滅茶苦茶泣いたんじゃないかしら。死んでからだって、アタシ達の都合で生きてた事さえ隠されてたんだから。」…どう、こういうの、困るでしょ、自分でもどこに問題があって今更どうしたらいいのかなんてわかんないんだよ、たぶん。それを他人の僕に奇跡の回答者か聞き手になってもらおうとしてるんだから、でも実際こんな時なんて言ってやればいい?何か言わないといけないんだよ、だって僕はこの子をなんとかしてあげたいんだから。
ドラマや本に出てくるような名セリフのようなことを考えてもどれもこれも安っぽくてうそ臭い、出会って数時間のこの子にだからなんかじゃない、おそらく何年付き合った相手でも、たった一言で確実に今、その人を救う事なんて出来やしない、仮に出来る可能性があったとしてもそんな一か八かの身勝手な博打にこの子を賭けるなんてやり方、僕は好きじゃない。だから、なんて言ってやればいい?
静寂が思い出したように漣の優しいリズムを奏で始める。いや、僕たち以外の世界はずっと変わらないリズムでいたのだろう、いつも世界は僕と関係のないところに行こうとするけどね、僕は普通の世界の住人ではないかもしれない。でも、しばらく世界のリズムを感じながら集中する。
そしてチハルに一歩二歩と近づく、僕に言葉はない、それでもその溜まったドロドロとしたモノを吹き飛ばしてあげたい、僕はチハルの肩に手を伸ばす、そして強く、海に向かって強く解き放った。
チハルは飛んだ、こらえることもせず、躊躇することもなく、
僕に微笑みさえ浮かべながら、チハルは飛んだ。
秋の優しい日差しにキラキラと輝く金色の海へ。
僕はチハルの姿が消えたことでその輝く海が綺麗だったことに改めて気付く。チハルがすい込まれたそのあたりからダイアモンドリングのように光り輝くシャボン玉が空にふわりふわりと舞い上がった、チハルの魂が空を目指すように。
そして僕の目の高さで一瞬スピードを緩めたシャボン玉は次の瞬間、ひゅーっと何処までも深い大空に加速した。
チハルが立っていたそのあたりに立って岸壁の下を覗き込んでみる、海水が鼻から入ったらしくゲホゲホと酷く咽返している、そんなチハルに聞こえるように大きな声で笑ってみせた、そう、大した高さじゃないんだ。
海水の雫だか涙か光り輝く海面の眩しさにか、酷くしかめっ面で僕を睨む、そして可愛い歯茎を見せてチハルも大きく笑った。
おしまい
パンドラの箱:パンドーラーは人類最初の女、彼女はけして開けてはならないという災いが詰まった箱を持っている。
彼女は弱い人間だから開けてはならないというその箱を開けてしまう。
箱の中からはありとあらゆる災いが溢れ、人々を絶望のふちに沈める、ただ最後に一欠片、希望とも絶望とも言われる何かが入っていたらしい。




