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シャボン玉と花


 母が死んでしまった、とても優しい人だったのに。

  そんなことは関係なく、その悲しみが癒えぬまま、


 昨日また母は死んだ。

  今度は優しいかどうかなど知る由も無く。


・8時59分

 いったいどれくらいそうしていたのだろう、埃っぽい普段あまり人が入らないその部屋で、西側の中庭の方にしか窓がない昼間でも電気を点けていないと薄暗いその部屋で。

 たくさんの木箱や本が丈夫そうな幅4m高さ2m奥行き1mほどあるスチール製の収納棚に収められている。

 この部屋にはそれと同じ棚が部屋の中央に3列、窓の無い東の壁際と北の壁際にもう一つずつ置かれていて、体育館の薄暗い倉庫を連想させた。

 チハルは中央の棚と棚の間で脚立に腰を掛け、開かれた木箱の中身と窓から見える中庭の花を交互に眺めていた。


 チハルの母は綺麗な人だった、そして皆にとても優しい人だった、たぶん人の醜い部分を見る機会があまりない綺麗な世界で育ったのだろう。人は皆本当は優しいのだと信じていた、そしてそんな母が最後を迎えた時、母はやはり優しく笑った。

 綺麗だった母をガリガリに蝕んだのは癌だった、何度も何度も手術を繰り返したが癌は執拗に母の身体に居座り続けた、癌自体母が死んでは生きてはいけないのに。

 ある暑い夏の日、とうとう母は癌に負けてしまった、病院のクーラーがあまり利いていないのか、部屋に集まった人の体温のせいか部屋は妙に蒸し暑かった、それなのにチハルが握る母の手はマネキンのようにさらさらとしていて冷たい。

 もう1時間ほど母は眠ったままだった、心拍のリズムを音とモニターの波で知らせる機械がぷつりと静まった時、病室に居た皆がはっと時間の流れに我を取り戻す。閉められカーテンが揺れ、隙間から夏の強い日差しがこぼれ、ベッドの上の白いシーツに波打ち模様を描く。


 チハルは母の身体を大きく揺すり大きな声で母を呼んだ、そしてその届かぬ声はいつの間にか嗚咽となり、チハルは母の身体の上に泣き崩れた。医師達が母の臨終を確認しようとチハルの肩に手を差し伸べた時、こぼれて揺れる夏の日差しが、母とチハルの握られた手と手を照らしゆっくりと止まった。

 次の瞬間、母の手は力なく、でも確かにチハルの手を握り返した。母だから許されたのか、医学的に説明の出来ることなのか、天使は母の無理を聞いたらしい。

 そっと眼を開けてチハルの姿を探す、そしてチハルと視線が合うと優しく微笑んむ。

 チハルが涙でくしゃくしゃになりながらそんな母に微笑みを返すと、母はほっとしたようにしばらくチハルを見つめ、やがて静かに瞼を閉じた、優しい母らしいそれが本当の最後だった。

 

 そんな母が、チハルを騙し続けていたことがわかったのは昨日、四十九日の後片付けに普段は家政婦か父しか入らないこの部屋に入った時の事だった。中央に置かれた棚の真ん中の段に『千春』とネームプレートに書かれた木箱が大小5つ、何も書かれていない木箱が一つ。5つの木箱の中身は七五三の着物だったり学生時分の教材だったり子供の頃のアルバムなどが収められていて、ついつい本来の目的を脱線してそれらにたっぷりと時間を使ってしまった。部屋の中はまだ日が落ちてもいないのに、薄暗く電灯の下以外は闇が深まっていた。


 そして何も書かれていない木箱の番がやってきた、チハルは何やら得体の知れない胸騒ぎを感じながらもその木箱を開けてみることにした。永らく開かれた事がなかったらしく中は埃に覆われていた、一番上には明るい緑色やピンク色のシャボン玉のおもちゃが透明なケースに入って置かれていた、なんだか懐かしい気分がした。これらもきっと自分の物だ…そんなことを思いながらシャボン玉のおもちゃが入ったケースを手に取り、表面に積もった埃をふーっと飛ばす。

 次に目に付いたのはピンク色の表紙のアルバム、フェルトで出来たそのピンクの表紙には埃が纏わり付いていて息を吹いた程度では落ちそうにもない。埃のことは一旦忘れてアルバムを開けてみる、最初のページには意外なことに1枚も写真が貼られていなかった、次のページを捲ってみるとさすがに今度は写真が貼られていた、それでも1ページあたり6枚くらい貼れそうなスペースに3枚、それもちぐはぐに貼られている、誰かが後で剥がしたのだろうか、でもなぜ?

 先ほど感じた妙な胸騒ぎと同時に足元が冷え込んできたのか身震いをする、そばにあった脚立に腰を掛けて膝を抱え込むように改めて一番上に貼られた写真をじっくりと眺めた。

 おそらく病院の個室で撮られたものだろう、ベッドに腰掛けピンク色のカーディガンを羽織った鼻筋の通った若い色白の女性、女性の腕には生まれてそう日も経たない赤ん坊が抱かれている、その女性の微笑みに応えるように赤ん坊は女性の口元にほんの小さな手を伸ばしている。得体の知れない胸騒ぎの得体が胸を重く押さえ付けはじめた。

 そのページの他の写真も概ねその女性と赤ん坊が写っていた、先を急ぐようにアルバムのページを捲っていくと、ある男性が写真の中の二人と一緒に写る事が増えた、そのある男性をチハルは知っている。

 胸騒ぎははっきりとした心臓の鼓動に変わり、鼓動はどんどん激しくなりやがて胸の内側を強く打ち付けた。


 チハルがまだ小学生だった頃、母に「なぜ小さい頃の写真にお母さんが写っていないの?」と聞いた事があった、その時母は「いつも私が写真を撮る係りだったのよ。」と唇を尖らせて拗ねたフリをした、そう、母はずっと優しい人だった。


 そして今日、昨日と同じ脚立に腰を下ろし、ぼんやりと木箱と中庭の花を見ている。


 アタシを生んでくれた人にアタシは何をしてあげたのだろう。木箱の中のシャボン玉のおもちゃをじっと見つめそして目を閉じる。

 

 キンモクセイの香り、光り輝くシャボン玉、中庭の綺麗な花に囲まれて、くるりくるりと回りながらシャボン玉を飛ばした、そこに居たのは誰?ケラケラと今も聞こえるこの笑い声は誰? 


 しばらくして目を開けると、シャボン玉のおもちゃを手に取り部屋を後にした。

 古くからこの家にあるという年代物のシューズボックス、その横にズラリと並ぶ鍵、この家にはやたらとたくさんの鍵がある。その中から一番手前に架けられた皮のキーケースを引っ掴み彼女は重い扉を開ける。


 石畳の園路を歩き少し離れたカーポートに停めた青のminiに乗り込みキーを回す、軽いエンジン音と排気音が静かな朝を優しく振動させる。

 miniのタコメーターの針が落ち着くのをじっと待つ彼女、けして気が長い方ではないが毎回やっている。ハンドルに顎をのせたままぼんやりとフロントガラスを眺めていると、くるりくるりとクヌギの葉が円を描いて落ちてきて最後は優しく滑空して石畳に着地した、落ち葉となったクヌギの葉やその廻りに淡い木漏れ日が降り注ぐ、彼女の視線は幾分か和らいだ。


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