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見上げる夜空には

 

 欠けた月からの光が建物をおぼろに照らし出していた。

 町からは大半の人々が逃げ出し、未だ残っている者達も来るべき災厄を憂いているのだろうか。ひっそりとした夜のヨークタウンには人どころか犬の影すらない。

 ただ一つの例外は、酒場の裏手にある外階段の最下段に座り込んだ人影。

 首元を緩めた白シャツとベストにスラックス。酒場の支配人兼バーテンのアンだった。

 亡き父親から譲り受けた店の支配人として、バーテンとして、カウンターに立ち、集う荒くれ者たちと対等に渡り合う。馴染の客――父親の古い友人達はヨークの女傑などと呼んではばからない。


――でも、今のアタシを見ても、そう呼ぶのだろうか。


 立てた膝にアンは項垂れた頭を寄せた。

 あちこちからの視線を感じて、ぶるりと身を震わせる。

 心が求めるままに何もいない空を、昨夜より幾分か星の数が少ない夜空を見上げた。

 そのまま縋るように、赤黒い肌をした大きな背中を、自身の信ずる英雄の姿を想い描くも、直ぐに薄れて、消えてしまう。真っ暗闇に一人取り残された感覚。酷い焦燥感が胸の内で暴れ始めている。手の震えに気付く。震えを止めるため、きつく握り合わせても、指先の冷たさを思い知るだけ。


「……まずいなあ」


 アンは弱々しく呟くと、寝不足で重くなった頭を力なく振った。


 ギ、ギギッ。


 階上で鳴った物音にアンの身体が僅かに跳ねる。

 外階段に通じる建付けの悪い二階のドアかと思い至り、耳を澄ます。扉の閉まる音、何者かが外階段を下りてくる音が続く。

 早い鼓動をなだめ、女傑の顔を作り直すため、深呼吸をひとつ、ふたつと繰り返す。

 腰掛ける段の一つ上の段に両肘をつき、背を後ろに倒しながら、頭の天辺は更に後ろに。天地逆転した視界の先に、夜に溶け込む黒服――腰のコルセットを外してワンピースを緩やかに着たユーリィがナイト・シャツを着たチビの手を引く姿が見えた。


「どうしたの? こんな夜更けにチビちゃん連れて」

「怖い夢を見てから眠れなくなったみたいで。少し気分転換に」

「そ」


 アンの傍らを通って二人が階段を降り切る。チビはユーリィを見上げた。


「あっち、いっていい?」

「ええ。でも、お庭のなかだけね」

「うん」


 たたたっと駆けていく後ろ姿を見送ったユーリィはアンの傍らに立ち、壁に寄りかかる。


「そうそう。あの寝巻、チビくん喜んでいましたよ。ずっと同じ服を着たきりだったから」

「そ、良かった。弟の小さい時のものだけど、丈もぴったりみたいね」


 アンは顔をほころばせかけたが、口元に苦い色が混じり、言葉を切った。


「……っと、今日は本当にごめんなさい。コディ君が馬鹿を言ったとはいえ、ウチの弟が酷い無礼を」

「もう、やめてください。元から気にしてなんか。それにウィル君、謝ってくれましたし」


 ユーリィは、アンにこっ酷く叱られ、しょげ返ったウィル少年が半泣きで謝る姿、付き添う姉が弟以上に気を病む姿を思い返した。どう応じればと思案するも、不意に悪戯な光が黒い瞳に踊った。


「そもそも? あの時、私は飛び切り感じの悪い女を頑張っていましたからね。ウィル君の怒りは望むところでしたよ。むしろ、コディさんの方が逆に? 聞き分けが良過ぎて、私は物足りなかったくらいで――」


 目を丸くして見つめてくるアンに、ユーリィは不敵な笑みで応じる。

 二人は同時に吹き出した。


「分かった、分かったよ。もう謝らない。ありがと」


 笑いを収めたアンは感謝の言葉を口にした。

 階段の上段に乗せた肘に身体を預けて、夜空を見上げる。


「でもさ、やっぱりアタシにとって特別なんだよ。黒騎士ってのは。小さい時に、助けてもらった時からずっと。十年前のあの日に泣いて震えて何も言えなかったアタシに代わって……大人になったアタシがいつかお礼を、なんて思ってたんだけどさ」


 昼間の凛々しさを失った女傑の声は弱々しく掠れて、会話は途切れた。

 アンは叶うことのない願いに想いを馳せたため。

 ユーリィは応じる言葉をみつけられぬ、やるせなさのため。居心地悪く、話題を転じる。


「アンさんは?」

「ん?」

「こんな夜更けに、どうしてここに?」

「ああ、チビちゃんと似たようなもんだよ。夜空を眺めに。落ち着くんだ」

「ッ…………分かります。私も安心しますもの」


 アンからのまじまじと注がれる視線を感じながら、ユーリィはしゃがんで地面をいじるチビを眺め続けた。


「あなた、いいひとね」

「何です? 突然」


 務めて冷静にユーリィは応じた。


「今さ、『しまった』って顔したでしょ? 分かるんだ、そういうの。仕事柄さ」

「何のことです?」

「いいって。専門家だからかな。あなたは私がそれだと気が付いた。でしょう?」

「……」

「あなたが夜空に安心する理由はきっとアタシと同じ。アレが飛ばない時間だから。アタシとあなたが違うのは」

「ごめんなさい。分かりましたから、この話は止めましょう」


 いたたまれずユーリィは足元に視線を落とした。

 アンがそうではないかと疑っていながら、気まずさから迂闊に話題を振った自分を責めるように。なぜならユーリィは、その病――夢竜病に侵された人を多く見過ぎていた。


 ――竜の悪夢にとらわれ、心身に異常をきたす症状は俗に夢竜病と呼ばれ、竜に襲われた者の約一割が発症するという大陸固有の風土病とされている。

 主な初期症状としては動悸、呼吸苦、不眠があり、病の進行に伴い、重度の妄想と幻覚の症状があらわれる。発症者の九割が三年以内に死亡、うち七割が自死である点から、近年では危険な精神疾患であると見直されつつあるが、他の精神疾患と同じく有効な治療法は無い。しかしながら、竜に襲われてから五年後に発症した男児の例、発症後十二年も生存した男性(のちに事故死)の例から、発症を抑制もしくは症状を緩和する何らかの機序があるものと考えられている。

 1802年 パートナム出版 イヴァン・ヴィノクロフ 『人と竜の構図』より――

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