収めるは酒場の女傑
がッしゃん!
乱暴に扱われた食器の音が鳴った。
いつの間にかバーテンのアンが厨房から戻ってきていた。カウンターの上に置かれた盆の上には湯気が立ち上る深皿、グラスが乗っている。グラスの中身は零れんばかりに揺れていた。
険しい表情で騒動の元をジロリと睨む。
号泣する男の子と抱きかかえてあやす黒服の女。視線の定まらない少年。それを背後から押さえる青年。
アンは迷うことなく挙動不審なウィルの元へと、ツカツカ歩み寄っていく。
「お、おい、落ちつけって、アン」
「コディは黙ってて」
狼狽えるコディをピシャリと黙らせたアンは、ウィルの頭を猛烈な勢いではたいた。
「なにすんだよ、アン姉!」
「うっさい!」
怒鳴ると同時に、自身と同じ髪色の頭を再びはたいたアンは泣きじゃくるチビ、次いでユーリィをこわごわ顧みた。
「気を……悪くさせたよね。その子にも。これ、アタシの弟。キツく言い聞かせるから、詫びは後で入れさせて。だから、まずは食事。温かいうちに食べてもらえると嬉しいんだけど」
「ありがとうございます」
ユーリィの微笑みと返答にアンはホッと表情を緩めたが、やらかした二人の方へと振り返ると同時に先ほどまでの険しさが表情に戻る。固まったままのコディをアンは睨みつけた。
「どいて」
「あ、あのさ、アン。言い方は良くなかったけど、ウィルは町を想っ」
「そういうのいいから。どいて」
言葉を遮り、アンが迫る。やや見降ろす程の身長差から向けられるアンの強い視線。大きめの吐息と共にコディはウィルの胴に回していた腕を外して、一歩下がった。
すかさず姉は弟の耳を摘まみ上げると、「こっちきな」とそのままウィルを厨房の奥へと引っ張っていった。
年配者三人は苦笑混じりに目配せを交わすと、己が成すべきことのために店外へと向かう。
ウェッブ、ウォーレンは立ち竦むコディに視線を送りながらも、言葉をかけることはなく。アリスンだけが青年の丸まった背中を思いきり叩き、顎で出口をしゃくった。
やがて、店内にはユーリィと男の子だけが残された。
胸元に縋って泣きじゃくる男の子を優しく抱き締めながら、黒騎士の従者は優しく囁いた。
「お願い、泣かないで……チビくんは悪くない、悪くないんだから」
***
――殺風景な部屋だった。
ベッドとテーブルとイスがひと揃えあるだけの、がらんとした部屋。
大きな窓に向かってベッドに並んで座る女と幼い男の子。その手は繋がれている。
女はグレイヘアを背に流している。かつてを知る多くの者が嘆息する荒れ果てた髪。
隣では楽しげに前後に揺れる小さな頭。雪みたいに白い髪。
繋ぐ手を手繰るようにして、子供の顔が女に寄った。
「きょうはママうれしそう」
ゆったりとした白いネグリジェに身を包んだ女は部屋に射し込む温かな陽光に顔を向けている。子供の声に無反応かと思われたが、かさついた唇だけが不意に開いた。
「ええ、そうよ。可愛い坊やが隠れて会いに来てくれたから」
「ほんとう?」
「えぇ、本当。そしてね、神様がママのお願い事を叶えてくれたから」
「おねがいごと? いっしょにおさんぽ?」
子供は興奮で足をバタつかせ、期待に満ち溢れた表情で女を見上げた。
「おにわへ?」
「ダメ。ダメよッ。お庭はダメ。外にはそこかしこに竜がいるの。怖い怖い怖い竜が。竜がいるのよ。竜は齧るのよ? リザを齧ったの。首を。頭を。ミアは足しか残らなかったの。だから、笑わないで、笑わないで。こっち、こっちを見ないで、今度はわた、わた、私を私を私、」
「ママ?」
「えぇ、ああ、うん、うん、そう、そう、そうね。お願い事の話ね」
女はようやく子供に顔を向け、微笑んだ。
痩せこけ、シワだらけの肌に生気は無く、死相を感じさせる。だのに、落ち窪んだ眼窩の奥は安らぎに満ちている。
「そう、お散歩も出来るわよ。だって竜のいないところへ行けるのですもの」
「いつ? きょう? あした?」
「坊やが望むなら、今すぐにでも」
繋がれた手がほどかれ、細い腕が持ち上がる。枯れ葉のような両掌が男の子の柔らかな首筋をなぞり、張り付いた――。
ふぎゃああああああああぁっ!
酒場の二階。室内をぼんやり照らし出すロウソクの炎が揺れた。
アンがユーリィ達に提供してくれた客室に泣き声が響く。書きかけの手紙にペンを取り落としそうになりながら、ユーリィは慌てて声の方を向く。
大人しく寝ていたはずのチビが泣き叫びながら、ベッドを下りようとしていた。
「ママぁ! ママぁ!」
昼間の比ではないほどの号泣だった。
何かに取り憑かれたように部屋を出ていこうとする小さな体に駆け寄り、抱きすくめる。
「大丈夫、大丈夫。安心して」
ふわふわで白いクセっ毛をユーリィは撫でる。
腕のなかで、泣き声に混じって繰り返される母を呼ぶ声。
この子は夜毎に夢の中で、母を想って泣き、母を探して夜をさまよう。
そして、泣き疲れるか、ある言葉を聞くまで決して、それを止めようとしない。
「ママはここ。今、チビくんはママの腕のなか。さ、もう安心」
ユーリィは罪悪感を覚えながら、チビの母を騙った。
腕から逃れようとする力が緩み、身を翻すとユーリィの胸へと飛び込んだ。泣き声は安堵によるものへと変わっていた。こうして暫く泣いてから目覚める。
この幼子と出会った日から繰り返してきた夜の出来事。その度にユーリィの胸の奥はチクリと痛んだ。誰もが抱えるであろう知られたくない秘密、ひた隠しにしたい記憶を勝手に盗み見たようで。