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大金星


 若竜は理解できなかった。

 地面で横倒れとなり、のたうちまわりながら考える。

 つい、さっきまで人間を蹂躙するために急降下をしていたはずだったのに。何故こうなったのか。

 首裏に近い背中の激痛に喘ぎ、考えが無散する。怒りが蘇る。

 なんとか起き上がって体勢を整えた正面、さっき弄んだ黒服の女が立っていた。

 慎重も緊張も恐怖もない様子が癇に障る。

 手が届くほどに近く、忌々しいほど悠然と佇んでいる。なんという生意気さ。

 必死な鳴き声で、無様な仕草で、竜を悦ばせるだけの弱い生物のくせに。お前より遙かに強くて賢い自分を前にしているのに。なぜ、恐れない。なぜ、泣き喚かない。

 苛々して堪らない。胸糞が悪くて堪らない。脈動と共に後背がズキリズキリと大きく疼いて堪らない。


――畜生。ああ、痛い、痛い、痛い。何もかも、何もかもが、この女のせいだ。


 若竜は熱い衝動を孕んだ息を吐き出した。

 女の全身の骨を砕き、四肢を引き千切った後、頭に齧りつこうと決める。咀嚼した肉片を汚らしく地面に吐き散らすのもいいだろう。

 前兆なく若竜は右前脚を猛然と繰り出した。

 女を掴んで締め上げるため……だったが、掌は虚空だけを掴む。

 寸前で女がくるりと左回りして、前脚が届かぬ所に立ち位置を変えたからだ。破れたスカートの裾が舞い回って足に纏わりついている。

 若竜は苛立ち目蓋が痙攣する。

 何も握っていない前脚をそのまま裏拳のように横に振り切った。何物も弾き飛ばしす一撃も、地面を荒々しく掠めただけだった。

 今度、女は右回りをしながら体勢低く、振った前脚を掻い潜っていた。すらり伸ばした足が地面に半円を描き、元の立ち位置へと戻っている。ゆっくり女は立ちあがる。足を踏み出し、若竜に一歩近づく。

 裂けた口が怒りに震える。

 間髪入れずに前脚を持ち上げて平手で落とす。先ほど女を圧死寸前まで追いやった非情な手立ても、何も潰さずに地面を叩き、押さえただけ。

 女は平手が落ちる軌道スレスレを左回りですり抜けていた。また一歩、若竜へと近づく。

 若竜は唖然とした。

 さっきまでとは何かが違う。体裁きの速さではない。反射神経でもない。まるで、何をするかを知っているかのような――。

 裂けた口から喉を震わす唸りが漏れる。

 前脚を引き上げ、痛む躰を持ち上げ、もう一方の前脚をも繰り出した。次も、次も、次も、女を捉えることは出来なかった。

 そして、その次の渾身の振り下ろしをも躱された時。

 焦りと痛みで下がった若竜の顔、その眼前で黒いスカートが大きく広がり、舞い踊った。

 女が右回りで急回転。垣間見せた背中に続くは、跳ね上げられていく巻き足。上半身を反らせ、可動の限界、極みの高さで、直下から直上に向かって描く急激な足の軌道。

 黒革のスーツに包まれた右足が逆稲妻の如く、最上段の後ろ回し蹴りとなって、若竜の横面を強烈に蹴り付けた。

 顔を打たれた衝撃は若竜の顔を傾げさせる程度だった。

 強固な鱗は傷つかず、柔軟な筋肉は傷みすらしない。

 しかし、若竜は見てしまった。

 蹴り付けた女が自分に向けている目、その瞳、その眼光にあるモノ。

 鏖殺を、絶滅を、欲する光。

 最後の一匹まで容赦せず、最後の一息まで絶やさねば済まさぬ妄執。

 絶対的な天敵――竜殺しと錯覚させるほどの巨大な狂気。

 理屈ではなかった。

 若竜は恐怖した。

 半ば開けた口から覗く太く尖った舌が震えた。

 不気味な子供が刻み付けた覚えたての感情をなぞって取り乱す。

 身体の奥から湧き上がる悲鳴と同義の鳴き声を上げようとしたが、チビ(グラハム)の〝死闘の呪い〟がそれを許さない。

 直ちに感情が、怒りの感情へと書き換えられる。

 一瞬の空白を経て。

 全てを忘れ、若竜は女に覆い被さる。頭を齧るため、残忍に顎を広げた。

 ユーリィは頭上に広がる深淵、至近に迫りくる終焉を棒立ちで見上げていた。


「そうね。結局はお前の勝ち。私は負ける。私がお前の相手をできたのはグラハム様に教わった、これまでの七手の間だけ」


 そして、ユーリィは熱く滾った息をほぅ……と吐き、恍惚として目を細めた。


「でもね。お前、もう終わりなの。なぜって、私は囮だから」


 もう随分前から、ぶぉんぶぉんと風を切る音が聞こえていた。

 最初は微かに、今やハッキリと耳に届いている。遥か上空から、やがて地上へと墜落してくるものが巻き散らす音だった。また、同じ方向から雄叫びのような、悲鳴のような、子供の叫び声が伴う。


 ……ぶぉん(ぶぉぉぉッ)……ぶぉん(のぉぉぉッ)……ぶぉん(うぉぉぉッ)……ぶぉん(ぶぉぉぉッ)……


 その音はユーリィが空高くに放り投げた大斧の回転が鳴らし、その声は大斧の柄に齧りつく幼子が発していた。

 既に大斧は自重と落下と回転で恐るべき破壊力を蓄えきっている。

 顔面にぶつかる猛烈な風に耐え、強烈な回転を堪えながら、チビは全身を使って狙いを澄ます。


「ぬうぅぅぅぅぅぅぅ、ぅああッ!」


 身体を反らせ、歯を食いしばって、解き放ち、唸り上げた。

 幼子らしからぬ感覚と技量と腕力で、大斧が保持する全ての力が一つに揃えられ――。

 大斧が若竜の背中に振り落とされた。

 圧倒的な破壊の力は容易く鱗を断ち、肉を裂き、脊椎を砕き、心臓へと迫る。

 蹂躙の力を大斧が使い果たした時、同じく若竜も動きを止めた。ユーリィに齧り付こうとしていた顎も止まった。

 かくりと後脚が力を失って、ゆっくり若竜が沈んでいく。

 頭に覆い被さっていた大口が横に外れていくさまをユーリィは目で追う。

 巨躯がぐったりとして腹這いに伏して、支える力を失った頭がどうっと地面に転がった。

 ユーリィは溜息をついた。

 つい数瞬前まであった熱さはもうなかった。あれほど滾っていた気持ちが嘘みたいに消えている。昂って(かさ)を増していたものが急に消え失せて、がらんとした胸の内に惑う。

 虚しさを持て余し、口を開けたまま動かぬ若竜の頭から首を辿って躰へと視線を移す。

 斧刃が竜躯にすっかり埋まり、背から柄だけしか確認できぬ様子に……。


「あっ」


 若竜の背にあるべきチビの姿が無いことにユーリィは気が付いた。

 虚脱に満ちた瞳に生気が戻り、周囲を慌てて見回す。ダラリとたなびく若竜の尾の先に尻を突き上げた恰好で地面に突っ伏す小さな姿を見つけて叫ぶ。


「グラハムさまっ」


 急いで駆け寄り、チビを助け起こした。抱きかかえ、無事であることに安堵する。

 おそらくは大斧を叩き付けた衝撃に幼く小さな掌では堪えきれず、強烈な慣性力と遠心力そのままに地面へと突っ込んだのだろう。


「……ユー……リィか」


 薄っすらと、虚ろ気に目が開いた。

 全身が土埃塗れてはいたが、赤くなった額と鼻の他に外傷らしきものはなく、垂れた鼻血以外に出血も無かった。胸で膨らむ憂いが抑えきれず、腕のなかの小さな瞳を覗き込む。


「無茶をなさらないでください。こんなお姿なのに。かつての地力がいくら健在だろうと、竜の呪いを巧みに使おうとも。今の貴方はチビくんなのですから」

「はん。俺を石ころみたく、手荒にブン投げた奴がよく言う」


 憎まれ口を叩き、そっぽを向く。

 チビの指示に従ったユーリィを非難する筋合いにないことを承知しながらも、かつてあった心の働きが蘇るような、ばつの悪さを四十路の魂は感じていた。


 ゴボリ、ゴボリ。


 はっきりと二人の耳にその音が届いた。

 篭った喉の音。竜息吹を兆す音。いつのまにか、力尽きたはずの若竜の首が持ち上がっていた。

 頸椎の固定は不完全ながら、首は据わり、虚ろに瞬く金色はチビとユーリィを捉えていた。

 昇っている(こぶ)は既に首の半ばに到達している。

 時間は無かった。

 決死に飛び退こうとユーリィが身体に巡らせた緊張を幼い手が制した。


「いい。降ろしてくれ」


 素直に応じたユーリィの腕から地面へと降り立ったチビは不敵に若竜を見上げた。


「さて、若いの。ここで決めりゃあ大金星だ。ここが踏ん張りどころだと思いねぇ」


 瘤が頭に辿りつく。若竜の頬が大きく膨らむ。口角から白煙が激しく吹き出ている。生物が発することが出来る世界最高の熱気が二人の肌を焦がす。

 ユーリィはチビを降ろした格好――跪いた姿のままで目を瞑った。

 至近に感じる熱、骨すら焼き尽くす竜息吹が怖くないと言えば嘘になる。しかし、黒騎士がいいと言っている。これまで、その言葉に従ってきて間違いはなかった。そして、今回もそうであるはずだ。

 若竜が竜息吹を吐き出す気配を察し、ユーリィは身を強張らせた。


 ゴォ……ォンッ。


 重く、鈍い、何かがぶつかった音が、直上で鳴った。

 灼熱が轟然と走った。刺激臭が周囲に立ち籠める。我が身ではなく、あらぬ方向へと炎が爆ぜ、熱が踊るさまをユーリィは感じて、目を開く。

 竜息吹は逸れていた。

 若竜の頭を直撃したモノがドスリと地面を揺らした。

 次いで、今度こそ力尽きた若竜の首が折れ、倒れた。開いたままの口から白煙が燻るも、やがて途絶えた。


「砲……弾?」


 ユーリィは若竜の傍らに転がる黒い鉄球――球形弾(ラウンドショット)を見て声を上げた。

 今さっき、微かに遅れて届いた音と合わせて、すぐさま答えを導く。半マイル以上は離れた先にあるヨークタウンを見遣った。ユーリィは震える身体を自身の両腕で抱いた。


「町からの砲撃……!」

「降ってきたか」


 チビは垂れた鼻血を拳で拭い、すっかり黒い雲で覆われた空を仰いだ。

 渇いた地面のそこかしこに、ぽつりぽつりと染みができ始める。

 荒野に久方ぶりの雨が降り出していた。


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