何もできない
「アン姉、こっち見て。俺、俺だよ。側にいるから、怖がんなくていいから」
「ひぃゃぁああああああああああああああああぁッ!!」
悲鳴と同時にアンは身を捻り起こし、付き纏った死霊を払い除けるような必死さで腕を乱暴に振り回す。振り払われ、なぎ倒されたウィルは堪らず地面を転がった。それでも直ぐにウィルはアンに飛びつき、抱きすくめた。
「しっかりしてよ……俺が一緒にいるから、守るから。いつもの、いつものアン姉に戻ってよぉ!」
「嫌ぁッ! ぃや、嫌だァッ!! お父さん! お父さぁん!!」
弟の必死な叫びは、恐怖に魂を侵された姉に届くことはなかった。
姉は弟を三度払い除け、絶叫し、這い蹲った。丸めた背中を激しく震わせ、縮こまる。
ウィルは打ちひしがれながらも、尻もちの格好から這う格好で姉へにじり寄る。傍に辿り着き、震える背中に手を伸ばす。寸前で止まり、手が地面に落ちた。嗚咽が漏れた。
――何もできない。
ウィルは顔を大きく歪めた。鼻水を垂れた。遂に、小さな兄貴分の矜持はひび割れ、砕けた。土埃で汚れた頬を涙がボロボロと流れていった。
自身の無力を思い知る。
唇が震えるほどに歯を食いしばる。
口元に怒りが宿り、唇を大きく歪ませる。
視線の先には、姉をこんな姿に変えてしまった若竜。
「ちくしょう! ちくしょうめ!」
絶望に身を沈めながら、ウィルは憎悪を持って竜を睨みつけた。もはや、止め処なく流れ落ちる涙を気にする余裕などなかった。
「お前……お前、絶対、絶対、絶ッ対ッ、許さねぇからな……アン姉は俺が守るんだ。竜なんか。俺がいつか、必ず。ぜッたいに……ッ!!」
それは、ただの負け惜しみだった。
誰にも届かぬ、力なき者の遠吠えだった。
しかし、その弱者の誓いを聞いていた者がいた。憐れな姉弟を見ていた者がいた。
「ウルにに」
――その光景が眼前にあった。殺風景な部屋での光景。
母はようやくチビに顔を向け、微笑んだ。
痩せこけ、シワだらけの肌に生気は無く、死相を感じさせた。だのに、落ち窪んだ眼窩の奥は安らぎに満ちている。
「お散歩も出来るわよ。だって竜のいないところへ行けるのですもの」
「いつ? きょう? あした?」
「坊やが望むなら、今すぐにでも」
繋がれた手がほどかれ、細い腕が持ち上がる。枯れ葉のような両掌がチビの柔らかな首筋をなぞり、張り付いた。
母は両掌に力を込めていた。
小さな喘ぎ、顔を見る間に赤紫色にしていく我が子を愛おしそうに見つめる。
「マ、ま……く、るし」
「ほら、もう素敵。だって竜は嗤ってないでしょ? 神様が教えてくれたやり方はいいやり方なはずだもの。そうに決まっているわ。良かった、坊や。もう怖くない……あれ、でも、ママ、まだ怖い。なぜ? 坊や? 答えなさいよ! 自分だけ、自分だけ! なぜ? 坊やもあたしを置いていくの? あの人のように!」
「ま……」
チビの呟きが消え、最後の吐息が断たれる今際の際に。耳をつんざくような母の金切り声が部屋に響いた。チビをベッドに放り出し、母は骨と皮だけの両掌を凝視した。
よろけるようにしてベッドから床に崩れ落ちた。
「なんてこ……を……私、あなた、あなたの子に……ッ!」
胸を掻きむしるようにして、首から下げていた小さな巾着袋を胸元から引っ張り出す。震える手で必死に巾着袋を握りしめた。
「坊や、許して、許して、許して。あなた。もう駄目、駄目、助けて、私はもう駄目。我慢できないの。もう金の眼は嫌なの。あなたが、光が消えたから。坊やがいるから、怖くて恐ろしいの。もう、そこにいるのよ。壁の染みの側で私を見てるの。鼻息が届くの。だから私は坊やと正午にアムザに逃げなくちゃ。でも、駄目、ダメ、だめ、叔父様のバラ園にある水たまり、門限は夕焼けだから。だから、お願い。あなた、あなた、どうか。どうか。私から坊やを取り上げて。お願い。あそこで嗤う歪な口が私を齧る前に。あなた。どうか、どうか、どうか、あなた、あなた、あなた、私の息を息を息を息を息息息息息息息息」
必死な懇願は掌のなかの巾着袋を一層強く握りしめて、間もなく。シワだらけの鼻から血が垂れた。口角に血泡が溜まっていく。
「……ゆるし、てぇ……ぼう、ゃ」
血涙が一筋、双眸に微か残っていた生気と共に流れた。
枯れ木が朽ちたように、かさりと軽い音を立て、上半身がゆっくり折れて伏した。
部屋は静寂に包まれた。
しばらくして、ベッドの上で弱々しく咳込み、辛くも息を吹き返したチビが床へと降りる。動なくなった物の傍らへ、よたよたと歩み寄り、へたり込んだ――。
チビはその光景を見ていた。憐れな母子の姿を瞳に映す。幼い目が大きく開いた。見開いても、まだ足りず。尚も求めて、瞳孔が開く。
それは、うつつの光景。憐れな姉弟の姿だった。魂に刻まれたかつての体験と同義の光景だった。
あどけない口が激情に歪んだ。
ふぎゃあああああああああああああああアァァッ!