兄貴分の矜持
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遠くから兄貴分達の死闘を見守っていたウィルの肌に竜息吹の凄まじい熱気が届く。
「コディ兄ッッ!」
恐るべき業火の奔流にコディとユーリィが飲み込まれ、思わず叫ぶ。どうすることもできず、彼方の荒々しい炎の様子を見つめ続ける。
「あ、ぁっ……コディ兄……?」
視線の先、陽炎の揺らぎの向こう。
大きな板の後ろに身を隠した二つの人影を見出す。漏れる安堵の息も束の間、若竜はコディらが身を隠す板を尻尾で打ち始めた。
為す術が無いのか二人は動かない。
ウィルの目から見ても、兄貴分たちの劣勢は明らかだった。微かに見出していた希望が潰えんとする光景は周囲に悲鳴、悲嘆の声を連鎖させていった。
同じく闘いを見守っていた大人達が一人、二人と叫びながら走り去っていく。
残ったのはウィル達だけ。傍らの地に伏して震えたままの姉。しゃがみ込んで泣き散らす弟分。
燻っていた焦燥が胸の中で大きく炎をあげた。
十歳のウィルが一人で収めるには過ぎた状況だった。拳を握る。出発前にチビと交わした言葉を思い返し、震える心を奮い立たせ、叫ぶ。
「に、逃げるぞ! チビ、立てっ! 行くぞ!」
チビは応じず、癇癪を起して泣き叫ぶ。
「やだ、いやだぁ! こわいっ、こわいよぉっ! おねいさんのところに行きたぁいッ!」
「泣くな!」
ウィルはチビの両頬を両手で掴んだ。泣き腫らした幼い瞳を覗き込む。
震える唇を歪めて堪え「俺だって、怖えぇよっ」と声を絞り出す。
「でも、だからって、ここでお前がずっと泣いてたら、あっこでお前や俺達のために踏ん張ってる黒い姉ちゃんが困るぞ。いいのか? それで!」
チビの頬から左右に振られる力を両手に感じる。
「それに……ここで泣いてるような弱虫に姉ちゃん守れるわけねぇだろッ」
チビではなく、自分自身に言い聞かせ、歯を食いしばる。
「俺は違うぞ。……チビ、お前はどうなんだ? お前、弱虫なのか?」
「ぼくもまもる。よわむしじゃない」
「だよな。なら、立って、逃げるぞ……ちょっと待ってろ」
ウィルは頭を抱え、地面に突っ伏したままの姉の元へと戻る。
「アン姉、逃げるからな。ちょっと我慢しろよ」
姉の右腕を自分の首に回し、腰に回した左手でベルトを掴む。全身に力を入れて、立ち上がる。自然に「んんっッ」と唸りが漏れた。
途端によろけ、かろうじて踏み止まる。
大人を運ぶ難しさを噛み締め、アンの脚を引き摺って一歩、二歩と進む。
三歩目で姉弟はべちゃりと倒れた。
ウィルは歯噛みしながら、再び立ち上がる。今度は一歩目で足が崩れた。
まだ少年な弟と成人女性としては大柄な姉との体格差は如何ともし難かった。倒れたまま、ウィルは自身の非力を呪う。
加えて、目も耳も覆ってしまいたいほどの姉の姿。
凛々しく輝いていた瞳は、恐怖に濁り、血走り、定まらず。
厳しくも優しかった声は、絶望に塗れて、掠れた悲鳴と意味を為さぬ恐れを吐き続ける。
不安に押し潰されそうだった。
もし、このまま姉が元に戻らなかったら――。
少年の胸は締め付けられる。顔が恐怖と悲しみで歪む。涙が滲む。それでも、ウィルはギリギリのところで押し止まった。半泣きで自分達を見守るチビの視線に気付いたからだ。年長の自分が泣いて、弟分を不安にさせるなどウィルにとって、あってはならないことだった。
しかし、残された時間が僅かだとも理解していた。自分達の都合のため、チビを巻き込むことは兄貴分として決して許されないと思った。
ウィルは覚悟を決める。
歯を食いしばり、また立ち上がる。よろけそうになった足を踏み締め直す。
「チビ、お前はみんなの所へ先に行け。俺はアン姉を連れて、後から行くから」
「いやだ、ウルにに。ぼくもいっしょがいい」
「何だお前、一人が怖いのか? やっぱり弱虫じゃんか」
「ちがうもん」
「だったら一人で行くんだ。行けるよな?」
「ぅ、うん」
「じゃあ、行け。振り向かずに走れ!」
何度も躊躇って、チビはようやく背を向けた。その様子にウィルはホッとする。
その直後、荒れ狂った大気の波がウィルの身体を震わせた。遠く背後から襲いかかる恐怖の音。また竜が咆えたのだと分かる。
「ひぃぃいやぁああああぁぁぁぁぁぁぁぁっぁあぁぁあぁぁぁぁぁっぁぁぁぁぁあぁぁ!!」
アンはウィルを乱暴に振り払い、抱えた頭を打ち付けるようにして地面に伏した。
払い除けられ、地面に尻もちを付いたまま、ウィルは姉の急変に呆然とする。そして、姉がこんなことになった理由を理解する。
――あいつが、あの竜が。
視線の遙か先、大きく翼を広げた竜の姿が目に入る。
「嫌っ、ゃぁあっぁあァ!! 嫌ッ、ぃひゃあッ、ぃやだッ! 見ないで、来ないでぇッ!!」
叫び声にウィルは我に返る。地面に頭を擦り付け、恐ろしき何かに懇願する姉に必死に飛びつく。
「アン姉、アン姉! しっかり! しっかりしてよ!」
激しく暴れ、身悶える姉の背中にすがり、なだめようと懸命に声をかける。
狂気に満ちた絶叫。
尋常ではない身体の震え。
激しくも今にも止まりそうな息遣い。
だらだらと有り得ない勢いで肌を流れ伝う汗。
見て、聞いて、感じて、ウィルは絶望を重ねていく。
頼れる姉、凛々しい姉、厳しい姉、強い姉、その姿が順番に壊れていく。